G11の小さな足音が、聞こえなくなるのを待つ。できれば彼女を驚かせたいから、月を見上げて呆けている演技をしておく。
残るのは木々の囁きばかり。念のため、さらに三十秒待機。
そろそろいいだろう。
ノアは後ろの物陰に声を掛けた。
「――ということだって、416。
今日のことは、もう怒らないで上げてね」
「‥‥分かってるわよ。
私も、キツく言い過ぎたかもしれないとは思ってるもの」
夜の闇よりも一つ濃い射干玉の陰から、見慣れた銀髪と赤い涙が姿を見せる。
月光が416の周りを流れ落ちていくので、まるで水の壁を潜り抜けてきたかのようだった。
隣に腰を下ろす彼女の横顔に、驚いた様子はない。どうやら演技は見抜かれてしまっていたらしい。
芥子粒ほどの悔しさを飲み込んで、訊ねる。
「それにしても、今朝はどうしたの?
普段は戦闘中でもあそこまで怒らないでしょ」
416は当たり前のことを今更言わせるな、という表情で肩を竦めた。
「大声で怒鳴ったら敵に位置がバレるじゃない」
なるほどそれは道理である。流石は完全無欠の戦術人形。
しかし彼女の言葉の裏を返せば、いつもあのぐらい怒りたいということか。ノアは冷や汗を引き攣った笑いで誤魔化した。
416の視線が脇に泳いで、「あと‥‥」という呟きの後に何やら口籠る。
言いたいことがあるなら言えばいい、と視線で訴える。それでも416は少し躊躇って、
「‥‥私が副官になるってときは散々渋ったくせに、アイツの頼みはすんなり聞くのね」
不機嫌そうな声で、そんなことを言ったのだ。
夜陰に煌めくペリドットを細め、唇を尖らせているその表情は、なんて――
「可愛らしい理由だなぁ」
「もうっ!そうやって褒めそやして誤魔化そうったって、引っ掛からないわよ!」
危ない。
今の一瞬、ただ彼女の可憐さに突き動かされて、真顔でとんでもないことを口走ろうとしていなかったか。
ノアは内心で自らを叱責して、いちごオレを口に含んだ。
人差し指を立てる。
「それについてはちゃんと理由があるよ。
G11が『執務室でできるような仕事をくれ』って言って来た時点で、彼女の目的が分かってたからさ。
ま、さっきの話を聞いてた誰かさんなら分かってると思うけど」
416がうぐ、と息を詰まらせた。冗談だよ、と笑って見せると少しむくれる。年頃の少女らしい仕草が、ノアの意識をぐらりと揺らす。
少し深く息を吸うと、微風に乗って鼻腔を擽る香りが、いつもと違うように思われた。
スンスンと鼻を鳴らすと、416の華奢な肩がピクリと跳ねる。その態度で確信した。
「シャンプー変えたんだ。チューベローズかな、コレ」
「よ、よく分かったわね」
「そりゃ当然。全然違うもん」
ノアが胸を張ってみせると、416は不安そうにこちらの顔を覗き込んでくる。「もしかして、前の方が好みだったかしら」
その上目遣いにたじろいだことを隠したくて、両手を振る。
「いや、そういう意味じゃなくて。
前はなんかこう‥‥ほんのり石鹸の香りがするだけだったじゃん。
それが今はすごく甘くて美味しそうな匂いがするっていうか‥‥。
あぁもちろん前のもいい匂いだったけどね!」
焦りに駆られて早口でまくし立てる。
こちらの顔を覗き込んでいた416は、目を見開いたまま呆けている。
かと思えば、桃色の唇が意地悪そうに弧を描いた。
「そんなに私の髪の匂いを気にしてたの?
とんだ変態ね。ふふ」
「んえっ」
軽く鼻を摘ままれた。
頬に熱を感じながら、ノアは抗議の視線を送った。それでも416はどこ吹く風で、楽しそうに笑っている。
時は既に深夜。
他愛のないことで笑い合う二人の囁きは、木々のざわめきに包まれて、月明りの中に溶けていく。
※その後のおまけ