「こんにちは、ヘリアンさん。
その顔を見る限り、昨日も駄目だったんですね。
でも落ち込むことじゃないですよ、男たちに見る目が無かっただけですから!あっは!」
G&Kの上級代行官との会議で、開口一番ノアが放った口上である。ただでさえ不機嫌そうだったヘリアンの眉間が、更に険しいV字谷へと変貌する。
416はカメラの死角で、ノアの掌をつついた。簡単なモールス信号だ。
(ちょっと、どうして開幕から煽ってるわけ?
貴方、地雷原でタップダンスする趣味でもあったの?)
(別に煽ってなんかないよ)
こちらのタッピングに応じて、ノアも掌をつつき返してくる。少しくすぐったいけれど、笑ってしまったらヘリアンにバレる。
こういう二人だけのやり取りがなんだか楽しくて、場を弁えるべきだとは思いつつも、触れ合う指は止まらない。
(今の発言を煽りって受け取らない人類はいないでしょ)
『今日も貴官は絶好調のようで何よりだ。死んでくれ』
「やだなぁ、そんなに怒らないで下さいよ。本心なんですから」
(ヘリアンさんは忙しいからね。怒らせて時間を潰せばお叱りが一つ減るんだよ)
(やっぱりわざとやってるんじゃない。意地汚いわね)
『心にもないことを。どうせ私が何連敗するか、同期の連中と賭けでもしているのだろう?』
(そんな、照れるよ)
「いや、流石に人の恋路にコインを積むほど悪趣味じゃないですよ」
(褒めてないわよ)
(ほんと?)
(嘘)
こうしてノアの作戦通りに、貴重な時間は浪費されていく。
いつものパターンなのだろう、これではいけないと意識を切り替えたらしいヘリアンの鋭い視線が、ノアの胡散臭い笑顔を射抜いた。
これだけの敵愾心を正面から向けられていながら、よくもまぁ涼しい顔ができるものだ。自分が他の基地に出入りしたとき、指揮官たちはもっと怯えた様子で彼女に相対していた。しかしノアはこの通り、いつもと変わらぬ笑みを湛えて佇んでいる。緊張感が無いだけ‥‥とは思いたくない。
ヘリアンは手元の資料をパンパンと叩き、吐き捨てるように告げた。
『今日は貴官に忠告することがある』
「いつもじゃないですか」
『それは貴官がいつもいつも本部の指示を無視するからだろうが‥‥!』
すかさず挟まれるノアの茶々が、ヘリアンのこめかみに青筋を浮かせる。
416も、ノアのせいでヘリアンが胃を痛めていることは知っていた。しかし、明らかな命令違反までしているのだとしたら、いくら何でも諫めるべきだろう。彼が指揮官の立場を追われてしまったら、誰が“猫の鼻”を守るのだろうか。
(指揮官、貴方って不良軍人だったの?少しは自重しなさいよ)
(まさか。上の計画に納得がいけば従うさ)
(気に食わないからって躊躇いなく違反するのは拙いでしょ)
(結果は出してるからいいの。偉い人に嫌われるだけさ)
416は嘆息した。ノアの奔放さと、それを上層部に赦させる理不尽な有能さにである。
ヘリアンの語気が一層強くなる。そろそろ限界なんじゃないだろうかコレ。
『とにかく!貴官の報告に虚偽があったことを確認した!
確かな情報源からの報告だ、言い逃れはできんぞ』
416の背に、冷たい汗が流れた。
どれだ?ノアが今までに隠し、誤魔化してきたことは416が来てからだけでも少なくない。もしその中に致命的なものがあったら、ノアは指揮官の肩書を剥奪されてしまうかもしれない。
しかし、ノアはその手の工作に抜かりのないろくでなしだ。そんな彼の許から虚偽報告の証拠を探り当て、その上すっぱ抜ける相手など――一人だけ、心当たりがある。
「45だよねー。やっぱりヘリアンさんとグルだったかぁ」
416の予想と同じことを、ノアはあっけらかんとした笑顔で口にした。
UMP45は、電子戦及び情報戦、そして潜入工作に長けている人形だ。彼女にとって、目標の情報を盗み出すことも、その痕跡を消すことも朝飯前だ。そしてそんなことは、ノアも充分理解しているだろう。でなければ、“欠落組”の捜索専門の部隊を立ち上げて、45を隊長にするはずがない。
しかし問題は、45が手に入れた情報をヘリアンに――つまりはG&Kに流していることだ(まだ確定はしていないが)。これは、ただの悪戯以上にノアの立場を危うくする行為である。
二人の態度を見る限り、ノアはG&K内でも相当自由な振る舞いをしているのだろう。ヘリアンからは「信用できない男」だと前もって聞いていたし、実際に彼の言動を見て416自身もその印象を正しいと認識した。もし彼が充分に無能であったならば、とっくに彼はワインレッドのコートに袖を通すことは無くなっていたはずだ――あぁいや、その制服もカルカノM1891の趣味で改造されており、今ではセンターベントに二つボタンのジャケットへ姿を変えている。どこまでも規律を乱す男だ。
ヘリアンは手許の資料に視線を下ろして、呆れ果てたように肩を落とした。
『貴官、実際の交戦の内、五分の一しか報告していないじゃないか。
しかも、貴官自身が戦場に赴き、あまつさえ鉄血兵とやり合っているなど初耳だぞ。
これはどういうことだ?理由次第では、何らかの処罰をせねばならない』
――そこか!
416は表情を変えないように努めたが、唾を飲み込んだのはバレなかっただろうか。
416が知っている中では、最大級の問題である。そもそも416がノアの副官に立候補したときに業務量を勘違いしていたのは、ここが激戦区だと聞いていなかったからだ。鉄血の攻勢はアンバーズヒル方面へ集中しているので404小隊の活動に支障はなかったが、もし彼が情報を改竄していたせいで自分たちの作戦が失敗していたら、ノアの首は間違いなく飛んでいただろう。
二つ目に関しても、指揮官自身の出撃は本部からの許可が必要である。その申請手順をすっ飛ばして戦場に身を投じることは、指揮官としての責任を充分に理解していないと謗られても仕方ない。こちらにしても、やはりノアの首は危うい。
そんな必殺級のギロチン二連発が目の前に現れても、ノアはひらひらと手を振ってみせた。「僕なりの考えがあってのことです」その口調にも変化は無い。
「まず交戦数の件。ヘリアンさん、実際の鉄血との交戦数及び敵戦力をご覧になって、どう思われました?」
『‥‥常識外れもいいところだな。
現在、対鉄血の最前線は間違いなくS09地区だろう。しかしそれは貴官が情報を伏せていた故の判断だ。
貴官が着任する前と比べても、戦況は激化している。このデータを見れば、C■■地区も最前線として扱わざるを得ない』
「えぇ、僕もそう思います」
ノアは我が意を得たりと頷いて、
「それを僕と“猫の鼻”だけで食い止めていると知ったら、その戦力をS09の方へ回したいって思うでしょ?」
『それはそうだな』
図星――というより、戦術的最適解を提示されて、ヘリアンが目を逸らす。
「僕はね、ヘリアンさん。ここを離れるつもりなんて毛頭無いし、僕以上に無能な指揮官に人形たちを託すつもりも無いんですよ。
だから、あまり有能だとは思われたくなかったんです」
『なんて身勝手な‥‥ッ!』
ヘリアンは天井を仰いで呻いた。一方で416は、頬が緩んでしまいそうなのを必死に堪えている。
というのも、ノアが口にした理由が、あまりにも416の推測通りだったからだ。ヘリアンは「身勝手」と言ったし416もそう思うが、そんな理由でどのような無茶もやってのけるのがノア=クランプスという男なのだ。もっとも、あまり無茶はしてほしくないのだが。
ヘリアンが額に手を当てて嘆息する。
『貴官は人柄も言動も性根も腐りきっていて全く信用できんが、実力だけは高く買っている。これは上層部も同じ意見だぞ。
‥‥実際、すぐにでもS09に配属すべきという声もある。しかし、貴官以外にそこを守り切れる人材はいないだろう。
だから、安心してきちんと正確な情報を偽りなく報告しろ。次はないぞ!
あと、体は大切にしろ!貴官が斃れたらC地区はおしまいなんだからな』
「はーい。
やっぱりヘリアンさんは優しいですね。その調子ならすぐに良い人に出会えますよ!あっは!」
『調子に乗るな、クソガキが!』
元来人を揶揄うのが好きな性質なのだろう、ノアはカラカラと笑っている。こんな楽しそうな表情は滅多に見られない――というか、この会議のときしか見られない。
その事実に気付いた瞬間、どこかモヤッとした感情が発生するのを、416は認識した。精査して、それが「怒り」及び「嫉妬」に類似していることを理解する。どちらもこれまでの活動期間で抱いたことのある感情だが、あの二つはもっと腹の底で燻る火種のような感覚だった。しかし今抱いたこの感情は、不快ではあるがその不快さがくすぐったいような‥‥よく分からない。メンタルモデルのノイズか何かだろうか?いや、完璧な戦術人形であるHK416に、そのような不具合などあるはずが無い。
正体不明の感情の捌け口を求めてノアの脇腹を小突けば、可愛らしい悲鳴が返ってきた。こちらを振り向いて、視線で「なんで!?」と訊ねてくる。自分でもよく分からないから、ここは彼に倣って笑顔で誤魔化しておく。
『貴官、HK416と随分距離が近いな』
指摘する声で、416は我に返った。拙い、目の前で遊んでいるのがバレたらヘリアンの叱責を免れない、と自戒していたはずなのに。
しかし416が口を開くより早く、ノアが首を傾げた。人差し指を顎に添える、あざとさ全開のポーズ。似合わなかったら張り倒していたところだ。
「そう見えますか?僕は人形全員にこんな感じですよ」まったくもってその通りなのだが、なぜか無性に腹が立つ。
『そうか、ならばいいのだが‥‥』
そう言いながら腕時計を一瞥して、ヘリアンは舌打ちした。ノアの目論見通り、この会議に割ける時間は残り少ないのだろう。そのまま早口でまくし立てる。
『人形と過ごす時間が長い仕事柄、人形と恋に落ちてしまう指揮官も少なくない。
しかし、ただでさえ人口が減っているんだ、少子化に一役買ってくれるなよ』
「あっは!ヘリアンさんに言われちゃおしまいですね!」
『お前‥‥ッ!』
いよいよ怒髪が天に達さんというヘリアンの形相を尻目に、ノアは終了ボタンを押した。
長い髪に端正な顔が隠れる。紫がかった幕の向こう、薄桃色の唇が小さく動いた。
「‥‥衰えたのなら、さっさと舞台を降りてしまえばいい。
老いた麒麟が駆けずり回ったって、見苦しいだけなんだから」
「え?貴方、今‥‥」
「さて、行くよ416。次は実科学校の警備連絡だよね」
「そうね。その後は反対側の防衛班との会議よ」
今日の予定を脳内でさらいつつ、ノアの表情を観察する。しかしそこには微塵の淀みもなく、穏やかな笑顔だけが浮かんでいた。
ひょっとすると、実はノアは人間のことがあまり好きではないのかもしれない。
416はそんな予感を呑み込んで、暗赤色の背を追って第二会議室を後にした。