遠い遠い旅で冷めきった極光が、基地の廊下を青白く照らしている。
45は足音を殺して、蟠った影の中を進んでいく。木々の
遠くにちらつくパーカーの背を追って、しかし必要以上に距離を詰めないよう細心の注意を払う。45が尾行している相手――ノア=クランプスの長いポニーテールが、曲がり角の向こうに揺れて消えた。その先は階段であり、どうやらノアは基地本棟の屋上を目指しているらしかった。
‥‥本来なら、自分は今尾行などしていなかった。元々の計画では深夜にノアの部屋を訪ねるつもりだったのだが、45が人間職員用宿舎を目前にしたタイミングでノアが出てきたのだ。以前“猫の鼻”の人形たちにそれとなく探りを入れたとき、何人かはノアに夜間の散歩癖があることを語っていた。これもその一つだろうと思い、後をつけることにした次第である。
早速計画通りに運んでいない事態に内心で舌打ちしたところで、階段が終わった。
屋上へと続く分厚い鉄扉の前で、聴覚に集中する。扉の隙間を抜ける風の音の向こう側、ノアの声が聞こえる。独り言だろうが、小声なので内容はよく分からない。
丁度いい。今ここでならば、他の人形による乱入も無い。ノアも気兼ねなく真実を語ることができるだろう。
独り言がまだ聞こえることを確認して、一度深く息を吸う。重い扉を、音に頓着もせず堂々と開いた。屋内に駆け込む風が、一瞬45の前髪を搔き乱す。それでも目を閉じず、45は屋上を見回した。
「え‥‥」
しかし、そこには影一つ無い。ただ月明りがすぅっとコンクリートを撫でるばかりで、45は唖然とその場に立ち尽くした。
その隣で、ノアが首を傾げる。
「どうかしたの?」
「わっ!?」
跳び退きながら振り向くと、先程見たラフな姿のノアがにこやかに佇んでいる。
思わず抜銃しそうになった手を抑えて、45は訝しさ全開の視線を投げつけた。
「趣味が悪いよ、指揮官。ボイスレコーダーでも仕掛けてたの?声は確かに向こうからしたよ」
「“
嗚呼、普段自分に弄られているときの416はこんな気分だったのだろうかと、少し申し訳ない気分になる。
ノアは猫のような目を細めてくすくすと笑っている。ひとしきり笑い終えるのを待ってから、45は口を開いた。
「それで、いつから気付いてたの?私が指揮官のことを探ってるって」
「キミたちがウチに来て、三日くらい過ぎたあたりかな」
「ほとんど初めから‥‥」
「言っておくけれど、キミの不手際とかじゃないよ。
ほら、僕ってこんな感じだからさ。きっと信用してもらえないって前提で動いてるの」
――自覚はあるのか!
内心で45は叫んだ。分かっているならもう少し信じてもらえるような振る舞いを心掛けたらどうなのか。いや、自分に言えたことではないのだが。
そんなこちらの心情を察したか、ノアは「分かってるんだけどね」と苦笑した。
「今夜も尾行してくるだろうと思ってさ、いい機会だから、キミともう少し打ち解けておこうかなって。あと、そろそろ僕に関する手掛かりを掴んでる頃だと思うんだよね。
どう?何か質問はある?」
45はがっくりと肩を落とした。まぁ、バレているのなら仕方がない。むしろこの方がはっきりと訊きたいことを訊けるというものだ。
人差し指と中指を立てる。
「私が訊きたいことは大きく二つ。
一つ目は、貴方の身元について。正規軍のサーバーに、貴方の名前が載ってるファイルがあったよ。でも、最終更新日時が二〇四七年だった。あのノア=クランプスは貴方の何なの?そして、貴方の本当の名前は?
二つ目は、貴方の体について。前々からその身体能力はおかしいと思ってたけど、ある人形から貴方の手について聞いたわ。狙撃で破砕されたはずなのに、翌日には完治してたって。SFに出てくるような、ナノマシンでも入ってるの?」
ひとまず全て話して、息を吐く。相対するノアを見れば、目を見開いて
「‥‥驚いた。思ったよりよく調べてたんだ。手のことは
「茶化さないで」
抜銃。セーフティを外して、銃口をノアの足に向ける。本来戦術人形には、みだりに人間に発砲することはできないよう、一瞬だけ躊躇するセーフコードが施されている。だがノアは基地の全人形からそのセーフコードを取り外していた。これも情報収集の戦果だが、知った際には流石に血の気が引いたものだ。しかし今、そんな酔狂な行いのお陰で45はこうして強気に出られている。そこだけは感謝しよう。
今、彼我の距離は三メートル強。相手は超音速で走り回る怪物だ、警告無しに撃っても当たるかどうかは怪しい。しかし、こちらの姿勢を伝えるためのパフォーマンスとしては充分だろう。
45の考え通り、サブマシンガンを目にしたノアは幾分か真面目な面持ちになった――というより、見たくなかったものを見せられたような、忘れていたかった傷に触れられたような、そんな顔。
「あー‥‥先に二つ目、僕の体についてだけど。
人体を高速で修復する方法はある。ただしコストが高いのと、使える相手も限られるから普及しないだけ。僕はそれを使ったんだ」
「ふぅん‥‥」
そう語るノアの表情を見る限り、嘘を吐いてそうな気配は無い。しかしこの態度も演技だとするといよいよ歯が立たないので、念のために確認する。
「詳しくは言わないけど、貴方がここで嘘を吐いたら416が悲しむよ」
「嘘なんて吐いてないさ。誤解してるかもしれないけど、僕は滅多に嘘は吐かないよ」
実際、ノアの言う通りではある。ヘリアンからの忠告通り、彼の振る舞いはとても胡散臭い。しかし彼が悪意を以て嘘を吐くところは一度も見たことが無いし、人形たちもそう言っていた。
416曰く、ノアの胡散臭さは自身の苦労を周囲に悟られぬための壁だそうだ。なるほど、416が自分をノアと似ていると評したのも頷ける。腹は立つが。
ノアはそこで一息入れて、フェンスの傍まで歩いていく。何気ない動作だが、45は完全に呼吸の間を突かれ、動かれたことに一瞬気が付かなかった。
落ち着いて、しかし急いで照準を合わせ直した。文句を言おうと口を開いたが、ノアの発言の方が早い。フェンスに凭れてグラウンドを見下ろしているのに、その声は夜風に乗って45の聴覚を刺激した。
「次は、身元に関してかな。僕はノア=クランプス本人だよ。キミが見たのは多分サンタ作戦に関する資料だと思うけど、それに書いてる脱走兵と僕は同一人物」
「荒唐無稽な話だと、自分でも思わない?」
「キミたちにとってはそうだよね。だから、証拠を見せるよ。撃たないでね」
ゆっくりと、ノアの手がパンツのポケットに伸びる。45はその一挙手一投足から目を離さず、グリップを握る手に力を籠めた。
やがて取り出されたのは、一枚の紙。空いた手で受け取ってみれば、それは写真だった。上質なフォト用紙に印刷されており色の劣化は小さいが、紙自体は端が焦げたり破けたりしている。何度も刻まれた皺を何度も伸ばした形跡があり、この一枚がどれだけの間大切にされてきたか、その重さが前面に表れている。
ぞっとするほど顔立ちの整った美男美女が仲睦まじく映っているが、いずれもカメラに視線を合わせていない。軍人らしくもやけに軽装なその恰好から、何かの特殊部隊であることは察しがついた。女性が二人と、男性が二人。女性二人と男性の片方は二十代半ばと見え、もう一人の男性は壮年。
そして、どちらか分からない中性的な奴が一人。他の四人に絡まれて子供のように笑っているソイツは、間違いなく目の前の男と同じ顔だった。服装と笑顔の色以外は、何も変わっていない。
その一枚に詰まった温かさだけでも、何て羨ましい人生だろうと嫉妬してしまいそうになる。そして、その隅に印字された日時は、二〇四五年九月八日。
視線を現在のノアに戻すと、彼は酷く寂しそうな顔で笑っていた。
こんな時代で、軍人で、こんな遠い過去。彼らはきっと、ノアを除いて――
45は零れそうになった何かの言葉を呑み込んで、訊ねるべきことを思い浮かべる。
「‥‥随分と古い写真ね。少なくとも貴方が追撃対象の脱走兵であることは分かったわ。
でも、だとすればおかしいことがあるよね」
「年齢でしょ?まぁそこは、そういう生き物だと思ってよ。嘘じゃないから。
本当なら――いや、何でもない」
いつもの軽薄さが抜け落ちた、今にも泣き出しそうな笑顔。ノアが言い淀んだその先を、45は察することができた。できてしまった。
『本当なら、僕だってさっさと死にたいんだけどね』
それは、自分が陥りかけた絶望の向こう側。
この顔は、この佇まいは、UMP40の喪失に堪えられなかった自分が辿り着いたはずのそれだ。
45は自分の胸に手を当てた。その奥には、復讐の炎で焦げ付いたコアがある。自分たちを弄んで、打ち棄てた連中に対する殺意がこの足を動かす。逆に言えば、復讐を終えるまでは死ねないという決意がある。
しかし眼前の男にはそれすらない。大切な人を失って、燃え尽きて、死ぬための気力すら枯れ果てて、惰性で生きているのだ。
しかも、そんな状態でも“猫の鼻”やアンバーズヒルを鉄血とE.L.I.Dから守り切ってしまえる程度に有能だから救いが無い。事実、今この瞬間まで45は、ノアがこの世界のために全力で戦い続けていると勘違いしていたのだから。
やはり416の評価は間違っている。UMP45とノア=クランプスは、似ているどころか正反対。
きっと、ノアは自分でも望まなかった何かに縛られて今を生きている。
用意された役割を全て果たして死んだはずが、したいことをしている自分とは大違いだろう?
この瞬間、UMP45の視線には確かな憐憫の色が混じった。
45は確かに冷徹だが、それは「必要ならば冷徹であることができる」というだけの話だ。こんなに痛々しい有様を見て、何も感じないほどに壊れたつもりはなかった。
その視線に気づいて、ノアが力なく手を振って笑う。
「そんな顔しないで、折角の美人が台無しだよ。
世の中には、もっと酷い目に遭った子も大勢いる。
あんな判で押したような悲劇、今更気にするようなものでもないさ。あっは!‥‥」
そうやって放ったわざとらしい笑い声も、掠れて解けて消えていく。
いつも目を細めて笑うのは、瞳に浮かぶ昏い光を隠すためだろうか。
自分は一体、コイツの何を警戒していたのだろう?
風に靡くだけの首吊り死体ごときが、自分たちにどんな脅威をもたらすのだろうか。
45はノアの隣、フェンスに背中を預けて夜空に溜息を投げた。
「銃、下ろしちゃっていいの?」
「もういいわ。貴方みたいな奴を怖がったってしょうがないもん」
「それはよかった。じゃあ、こっちからも質問いい?」
しんみりとした空気を嫌ったのだろう、ノアがこちらを見た。その顔に、先程までの影は最早無い。
「秘密が多い方が、女は魅力的だと思わない?」
「あっは!釣るつもりもない男にそれを言ってどうするのさ」
「確かに。それじゃあ一個だけ、いいよ」
促すと、ノアは45の右腕と左目を交互に見た。
「片腕を失ったときに、ボディごと換えなかったのはどうしてかなって。初めて会った日に検査したけど、キミのボディは旧式だよね。
キミの戦い方を見る限り、全部換えた方がずっと楽になると思うんだけど‥‥」
「よりによってそれ?‥‥答えたくないんだけど」
確かに、UMP45という人形を見て真っ先に目が行くのはその二つという自覚はある。ずっと気になっていたのだろうが、こちらに遠慮して訊かずにいてくれたのか。だからといって答える気になるかというと、それはまた別の話だけど。
この体の最奥には、40との記憶がある。自分で作り出した偽物でも、40がいるのだ。それはすなわち復讐の火種がそこにあるということでもあり、そしてその火は次の体に引き継げない。だから、この体は捨てられない。
そっぽを向いて黙する45に、ノアは静かに訊ねた。
「僕らが初めて会った時のこと、覚えてる?」
「‥‥もちろん。あんな酷い失敗をした経験は他に無いし」
答えながら視線を戻すと、ノアは苦笑いを浮かべていた。
「そこは思い出さなくていいから。
キミたちがいた部屋に僕が踏み込んだとき、キミは僕に銃を向けたよね」
「だって、あのときは鉄血の追撃だと思ったんだもの。視覚モジュールも半壊してたんだから」
「それは事前連絡を欠いた僕のせいだね、ごめんよ。
まぁそれはさておき‥‥僕はあのとき、感動したんだ」
薄桃色の唇から紡がれた不可解な言葉に、45は首を傾げた。沈黙で続きを促す。
「戦術人形ってのは普通、利き腕が動かなくなったら銃を撃とうともしなくなる。損傷が規定値に達すると撃っても全然当たらないから弾の無駄、って前提が射撃統制コアにあるからなんだけど」
完全に初耳の情報だった。確かに今まで、追い込まれた人形が銃撃ではなく格闘や自爆を選ぶ場面を、何度か目にしたことはある。しかし、そんな前提条件があるならば自分たちも知っていて当然ではないか。
そう訊ねると、ノアは首を傾げて笑った。
「I.O.P.の偉い人しか知らないんじゃない?前に盗み見た資料の扱いから考えて」
「ちょっ」
「まあそれは置いといて。
あのときのキミはどう見ても七十パーセントくらいのダメージを負っていたはずなのに、銃を持ち上げて見せた。
つまりアレは射撃統制コアに頼らない、キミの意地のみによる行動だってことになる」
45は少しむっとした。
「意地って言うと、なんだか泥臭いよ」
「実際泥臭い行動だったしなあ。
それに、人形には傷を残しておくメリットも、義手にする理由も基本的にない。
にもかかわらずそうしているなら、それは人間よりも人間らしい感傷か決意の現れでしょ」
その言葉に、45は息を呑んだ。
待って。折角、貴方を無害な存在だと思えたのに。貴方は何を言おうとしているの。
しかし、遮る言葉は喉につかえて、ノアの言葉は屋上に響いた。
「キミの行動は、僕の知っている人形のそれから大きく逸脱していた。
――人形はただの道具なんかじゃない。僕はキミに、その証明を見た」
そう語るノアの横顔は、安堵と歓喜の色に満ちている。
しかし、45はそうもいかない。自分を使って勝手に夢を見るな。勝手に理解した気になるな。それでは結局、他の男たちと何も変わらないじゃないか。
45の声帯モジュールが、拒絶の言葉を装填した。
「貴方に私の何が――」
「いいお姉さんだったんだね」
「え」
湖のように静かな微笑みだった。40の天真爛漫な笑顔とは対照的な、ひんやりと、それでも優しい微笑。
そして、その言葉。45は40のことを姉とは思っていなかったが、確かにスティグマに従うならばそのような見方もできる。しかし、どうしてノアが彼女のことを知っているのか。
「言っておくけど、僕はキミの過去も大切な人の名前も知らないよ。
ただ容姿と言動、それから404小隊の境遇から推測しただけ」
あの事件の詳細は自分のメモリの中にしか存在しない。416やG11は自分の中で記録を見たかもしれないが、あの二人が彼に話すとも思えない。
ではノアは、わずかな情報から自分の過去を見通し、その上でこの生き方を称賛したのか?それは、それはなんて――
呆然とする45に、ノアは笑顔のまま続けた。
「キミを救いたい、なんて言葉は信じられないだろうから言わないよ。
ただ、僕はその生き方を尊敬する。もし復讐に生きることに疲れてしまったなら、いつでもここで休むといい。‥‥止まり木くらいの役には立てると、信じたいんだけど」
嗚呼、駄目だ。その言葉は、その姿勢は、その笑顔は。
しっかりと地に足をつけて立つために張り詰めていた糸を、緩めてしまう。
この胸の昏い炎ごと、包み込んでしまう。
どうしようもなく、依存してしまいそうになる。
けれどそれは、彼女に対する裏切りだ。自分で立てた誓いを無残に破り捨てることになる。
堪えろ、UMP45。堕ちてはならない。
決死の境地で踏みとどまりながら、45は口を開いた。