殺菌済みの部屋に独特の、薄く漂う消毒液の香り。416は眼前の刺し傷が放つ痛々しさに堪えながら、手を動かす。粗方処置が済んだところでその傷の持ち主、向かい合って丸椅子に座る相手の顔をねめつけた。
「まったく、酷い怪我。こんな戦い方をしていたら、近い内に死んでしまうわよ。貴方」
「あっはー‥‥」
数時間前、416たちは新型のエクスキューショナーから逃げてきた他基地の人形、88式を保護した。敵の追撃を予想したノアにより撤退命令が出るも、結局交戦。416はあと一歩でボディを一つ失う寸前まで追い込まれた。
ノアはその場に応援として駆け付け、そのまま奴を仕留めてしまった。その際に取った戦術は「左手を貫かせて行動を封じ、致命的な一撃を叩き込む」という、自損前提の無謀なもの。
男性、戦闘員、指揮官。彼が持つ、あらゆる属性にそぐわない白磁の手。そこにぽっかりと空いた暗赤色の穴は、416のメンタルを酷く沈鬱にさせる。それと同時に、自分が酷く腹を立てていることも自覚していた。
前線で戦うための存在である自分たちが、指揮官である彼に助けられ、あまつさえこのような傷を負わせてしまった。416がもっと理性を欠いたパーソナリティに設定されていたならば、今頃は怒りに任せて訓練場のターゲットをスクラップにしていることだろう。
しかし416は平静を保ち、声を荒らげないように努めた。
「二度とあんな戦い方、しちゃ駄目よ。今回は手だけで済んだけど、これからもそうだとは限らないんだから。
そもそも、貴方が前線に出てくるのが間違ってるのよ」
「あっは、大丈夫だって。このくらいすぐ治るし、何ならこの状態でも戦うのは難しくないから。
それに、この身一つ払うだけでキミたちが痛い思いをしないで済むのなら、破格のコストだと思うよ」
ノアは何てことないように、そう言って笑う。その表情に痛みは滲んでおらず、手さえ隠してしまえば彼がこんな負傷をしていることに気付く者はいないだろうと思われた。
しかし416は、ほんの微かに滲んだ脂汗を見逃さない。いつもより早く浅い呼吸にも気付いている。
本当は痛いのだ。痛みと喪失感に叫びたいはずなのだ。目の前で微笑む男はそれを堪えて、人形である自分に気を遣い続けている。
出会ってからこの方ずっと訴え続けているのに、直ることのないノアの悪癖。416の堪忍袋の緒は、もはや数本の繊維しか繋がっていない状態だった。
「指揮官、アイツと戦ってたとき、笑ってたわよね」
416の指摘に、ノアが息を呑んだ。まさか、気付かれていないとでも思っていたのだろうか。
「いつもとは全然違う笑い方だったわ。リベのときとも違う。本当に楽しそうな笑い方。
ねぇ、指揮官。貴方、戦いたかったの?」
「‥‥まさか」
416は真正面からノアを見据えた。しかし、ノアは416を見なかった。曖昧に目を逸らして、曖昧な笑みでそう呟いただけ。
まだ、隠すのか。この期に及んで、まだ自分に言えないことがあるのか。
自分を含め、人形たちはこんなにも貴方のことを思いやっているのに。それを踏みにじるように、死線に身を投じて自分の命を弄ぶのか。
視界が、真っ赤に染まった気がした。
「――いい加減にしろッ!!」
ガタンと音を立てて立ち上がる。
突然上がった416の怒声に、ノアの肩がビクンと跳ねた。それでも、視線は横を向いたまま。
416は包帯を放り捨て、白いワイシャツの襟首を掴んだ。
「貴方の身にもしものことがあったら悲しむ奴が、ここには大勢いるでしょう!
貴方、指揮官のくせにそんなことも分からないわけ!?
いつもいつも人形のことしか考えてないくせに、どうしてそこから目を逸らすのよ!」
「――そんなことは分かってる!!」
医務室を内側から叩き割らんばかりの大音声に、416は思わず声を詰まらせた。ノアは自分が怒鳴ったことに一瞬遅れて気が付いたように、はっと口を押さえた。
「ご、めん。
人形たちが僕を慕ってくれていることも、僕を心の拠り所にしてくれる子がいることも分かってるよ。
でも、その想いに応え続けることがどれだけ辛いか、キミには分かんないでしょ‥‥」
ノアの体は、元より屈強には程遠い。しかし今にも泣き出しそうな声で呟く彼の姿は、一段と小さく見える。
こちらが言葉を失っている間に、ノアは立ち上がり包帯を拾った。
「時間を取らせてごめんね、416。あと、怒鳴ったことも。ホントにごめん。
今日はもう仕事も残ってないから、キミもゆっくり休んでね」
そう言って医務室を去る彼の横顔は、嗚咽を堪えているようにも見えた。
一人残された白い部屋の中、416は拳を握り締めて、震える声で独り言ちる。
「‥‥どうして、私を頼ってくれないの‥‥」
これからは頑張って週1くらいの投稿ペースを維持出来たらなと思っています。
でも僕は決意ユルユルの惰弱カタツムリなので、感想や評価など頂けると非常に励みになります。とてもうれしくなります。