WinterGhost Frontline   作:琴町

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雪の木曜 ⑤

「ステアーってば、そのとき何て言ったと思います?

 『今の方の鳴き声は、鼻を摘ままれたときのS.A.T.8さんにそっくりね』って!E.L.I.Dと似てるなんて、いくら何でもあの子に失礼ですよね、ふふっ」

「あっは、それはサトハチには言えないね」

 

 西日の孕んだ熱が、そろそろ侮れなくなってきた春の夕暮れ。IWSは南方防衛任務の合間に、AUGと交代で“猫の鼻”へ戻っている。

 ノアの「大変なお仕事を任せちゃってるから、いつもよりたくさんお願いしてくれてもいいよ」という言葉に甘えて、昼前から散々ショッピングに連れ回した。そして今は、馴染みのカフェで涼んでいるところだ。

 一般的な成人男性と比べてとても暑がりな彼は、シャツの襟を開いてパタパタと小さく扇いでいる。発汗量は同じ環境下の前例よりわずかに多く、表情筋は普段よりほんの少しだけ仕事をサボっていた。他人――他の人形では恐らく気付かないであろう違いだが、並外れた視力と観察眼を持つIWSにとって、今日のノアはいくばくか体調が悪そうに見える。

 古びたレコードプレーヤーから流れるジャズが、店内を緩やかな温度で包み込んでいる。オレンジ色を吸い込んで煌めくグラスに視線を落として、IWSは遠慮がちに口を開いた。

 

「指揮官、顔色が優れませんね。日差しが堪えましたか?やはり、いくら指揮官のお言葉とはいえ、少々わがままを言い過ぎたでしょうか‥‥」

「んぇ?いいや別に、大丈夫だよー。確かに日光はちょっと目に悪いけど、このくらいはどうってことないさ。

 それに、E.L.I.Dの相手はホントに面倒臭い。そんな仕事を任せてるんだから、これだけじゃあ足りないくらいでしょ」

 

 思い出したかのようにいつも通りの微笑みを取り戻して、ノアは手元のアイスココアを口に含んだ。しかし嚥下(えんげ)の瞬間にその修繕は解けて、白磁の肌に仄かな憂鬱の気配が滲む。

 IWSはぐいっと顔を寄せて、猫のような双眸を覗き込んだ。

 

「本当ですか?私、目がいいから分かるんですよ。

 今日は思う存分私のわがままに付き合っていただいたんですから、今は貴方のための時間です。

 指揮官、何か今の貴方に障りあることは?」

 

 ノアは息を詰まらせ、目を逸らした。物理的な距離を一気に詰めるとたじろぐのは、彼の数少ない弱点だ。

 

「う‥‥僕のための時間だっていうなら、黙秘させてもらっても――」

「じゃあやっぱりもう少しだけ私のわがままに付き合ってください。ほら、何かあるなら仰って?」

 

 それってズルくない?などとブツブツ呟いて、ほんの少し黙る。それから、一つ溜息を吐いた。

 

「‥‥この間、416に酷いことをしちゃってさ」

 

 そう語るノアの表情は、放っておいたら自傷行為にでも走りそうなほど落ち込んでいた。金色の視線がカップの水面に落ちて、そのまま沈んでいっているような気さえする。

 両手の指を組み合わせたり離したりしながら、ノアは訥々(とつとつ)と言葉を落としていく。

 

「こないだの戦闘について、あの子に怒られたんだ。

 416の言葉は一から十まで正しかったよ。僕を心配してくれる子たちのことを考えず、自傷前提の戦い方をしたのは事実だもの。

 それなのに僕、怒鳴っちゃった。ばつがわるいから逆上して大声を出すなんて、知的生命体として最低の行いだ」

 

 その言葉を聞いて、IWSはまず安堵した。ノアの所作から滲む罪悪感が強すぎて、一体どんなことをしでかしたのかと心配してしまったのだ。しかし蓋を開けてみればどうということはない、ただの喧嘩ではないか。

 

「指揮官。とりあえずこっちを見て下さい」

「‥‥?」

 

 ノアの視線が上がった。本人に自覚は無いだろうが、捨て猫のような表情で上目遣いに見つめられると、今すぐ抱き締めてしまいたい衝動に駆られる。

 しかしぐっと堪えて、IWSは人差し指を立てる。

 

「まず、貴方のことだからその場で416さんに謝罪したでしょう。ならその時点でお話は解決しています。

 それに、416さんもきっと怒ったことを後悔しているんじゃないでしょうか。あの人は、本心より口調がキツくなるところがありますから」

「それは‥‥分かってる、はずなんだけど」

「にもかかわらず気まずいのは‥‥そうですね、指揮官には、指摘された点を矯正する意思が無いからですね?」

 

 努めて柔らかな口調で指摘したが、ノアは居心地悪そうに縮こまった。

 IWSは慌てて手を振った。

 

「あぁっ、別に責めているわけではないんです!少なくとも私は、貴方のその生き方に口を出すつもりはありませんから。‥‥心配はしていますけど」

「うっ‥‥心配しないで、って言いたいけど難しい話だよね。シュタイアーは優しいもの」

「私だけではないですよ。指揮官のことを心配しているのはみなさんも同じです。もちろん、416さんも。

 だからこそ、彼女にはしっかり貴方の考えを伝えておく必要があると思います」

「‥‥そう、だね」

 

 答えるノアの面持ちは暗い。その理由はIWSも理解している。

 彼が“猫の鼻”に来てから、一年と少し。ノアは驚くべき速度で基地の戦力を強化し、同時に人形たちとの信頼関係も築いてきた。しかし、彼の過去やそこから来る信条を知る者はいないのだ。

 自分のためか人形たちのためか、ここまで徹底して守ってきた秘密。それを破るに足る理由が、彼の中にはいまだ無いのだろう。

 信頼されていないわけでは、決してない。それでも、どれほど言葉を費やしても埋まらないこの距離が、少し寂しい。

 カップに添えられたノアの手を、両手でそっと包み込む。

 

「シュタイアー?ど、どうしたの」

「‥‥私じゃなくてもいいんです」

 

 この寂しさを、表情に出してはいけない。ほんの少しでもその気配を見せたら、ノアは全力で自分を慰めようとしてしまうだろうから。大丈夫、笑顔を繕う技は、目の前の彼から散々見取って学んできた。

 IWSは微笑みを絶やすことなく、その先を口にした。

 

「いつか、貴方が全てを打ち明けてもいいと思える方に出逢えたなら、それだけで私は幸せだと思うのです。

 ‥‥少しでも早く、その日が訪れることを祈っています」

 

――――――――

 

 カフェを出た。最早夕日はその名残さえ掻き消えて、夜の色が家路を染めている。

 隣を少し見上げると、いくらかすっきりしたようなノアの顔がある。日が沈んだから‥‥だけではないと信じたい。

 

「今日は有難うございました、指揮官。随分と貴方を独り占めしてしまいましたね、ふふっ」

「いいのいいの。ちゃんと前以て決めてたことだし。

 それに、最後の方はこっちこそ愚痴を聞いてもらっちゃった。‥‥ありがとね」

 

 最後の一言に、IWSは違和感を覚えた。今までの彼ならば、最後は感謝ではなく謝罪の言葉になるだろうと思っていたのだ。

 そう訊ねると、ノアは苦笑を浮かべる。「少し前、416に注意されたんだよ」

 どうやら、思った以上に416の存在はノアに影響を与えているらしい。少しでも彼の生き方が前向きになるならば、それはとても喜ばしいことだ。‥‥嫉妬や悔しさが全く無い、と言えば嘘になるけれど。

 IWSのメンタルに、一抹の悪戯心が芽生えた。

 

「着信音のこともありますし、指揮官は416さんのことがとても気になっているみたいですね」

「‥‥それ、AUGにも言われたけど。二人とも何か勘違いしてない?

 着信音を変えてあるのは、副官からの連絡だって分かりやすくするため。

 一緒にいる時間が長いのも、彼女が副官だから」

「でも、喧嘩のお話のとき、物凄く辛そうな顔をなさっていましたよ。

 あぁそれから、貴方が人形と口論したことも前代未聞です。彼女よりも気性の荒い方も、貴方を困らせる子も大勢いるのに」

 

 さらに遡るならば、どうして416を副官にしたのかという点もあるが。それについては、AUGから話を聞いていた。

 ノアが夜空を見上げる。IWSは裾を引っ張って、言外に「逃げるな」と訴えた。

 諦めたように嘆息して、ノアは口を開く。

 

「‥‥彼女が叫んだときの表情が、どうしようもなく辛かったんだ。

 それで、あの子にそんな顔をさせた自分の腐れ具合に腹が立った。

 これ以上隠し事や嘘は続けるべきじゃないって思ったけど、本当のことを伝える根性も出なくって。

 感情の配線がごちゃごちゃになって、気が付いたら肺の中の空気を全部吐き出してた‥‥みたいな」

 

 今にも泣き出しそうな、臓腑の鈍痛を堪えるような表情。そんな横顔を見て、思わず呟きが零れた。

 

「やっぱり、好きなんじゃないですか」

「んぇっ、違うよ。そうじゃなくて‥‥こう‥‥なんというか‥‥」

 

 人差し指を立ててぐりんぐりんと手を回す。視線は右往左往して、半開きになった口からは小さな呻き声しか漏れない。どんなに言葉を繕おうと、その態度は百の弁に勝るというものだ。

 どうやら彼は、ようやく歩むべき恋路を見つけたらしい。それが恋路であることには、まだ気付いていないようだけれど。

 IWSは胸中を満たす喜びと、ほんの一滴の寂しさを抱えて、歩調を速めた。

 

「まぁいいです。さぁ、早く帰りましょう。ゆっくり休んで、明日からも頑張りますよ」

「‥‥そうだね。明日からもよろしく」

 

 二人とも、相手が本当の幸せに至っていないことからは目を逸らして、互いの笑顔に満足しているふりをする。自分ではその幸せを与えられないことを知っているから、願うことしかできないけれど。

 銀と紫の長い髪が、柔らかな夜風に靡く。

 靴音がよく響く石畳の向こうへと、二つの可憐な影は溶けていった。




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