チューベローズの香りと自分のものではない体温が、ノアの意識を浮上させる。乾いた眼球に張りつく瞼を瞬かせて、無理矢理涙を
眼前には、こちらを見返す少女の顔がある。
「おはよう、指揮官。気分はどう?」
「おはよ、416。うん、大丈夫だよ」
416が先に起き上がって、背に腕を回してくる。ノアは厚意に甘えて、体重を支えてもらいながら起床した。
添えていた手を放して、416が立ち上がる。その装いは特殊作戦コマンドのそれではなく、手合わせのとき身に着けているトレーニングウェアだ。その恰好で今までくっつかれていた事実に、少し遅れて恥ずかしくなる。
「朝食はもう出来てるから、ちゃんと食べるのよ。
私は朝練に行くわ。それじゃ、
「あ、うん。頑張って‥‥」
早口で言い残し、そそくさと部屋を後にする416の背中を見送って。ノアは数秒の間ぼーっとして、それから思わず溜息を吐いた。
「やっぱり怒ってるよねー‥‥」
IWSのアドバイスに従い、昨夜416に改めて話をした。その内容は「申し訳ないが、これからも自分は戦場に出る。しかし新型エクスキューショナーの相手は、416たちに任せたい」といったところだ。しかし、言葉こそ尽くしたものの所詮はただの約束、416の反応は素っ気ないものだった。
416が自分から言い出したことだからか、今日もノアの世話はしてくれる。けれども、その後の態度は明らかに冷たい。きっと、ノアのあまりに自分勝手な振る舞いに、愛想を尽かしてしまったのだろう。近日中――早ければ今日中にでも、副官を降りたいと言ってくるかもしれない。
のそのそと着替えて、ダイニングに出る。ノアの好みに合わせてカーテンを閉められた薄暗い部屋、テーブルの上にはクルトン入りのサラダとオムレツ、いちごジャムの塗られたトーストが用意されていた。ココアの注がれたカップからは、うっすらと湯気が上っている。
「いただきます」
一口ずつ順番に
416が来るまでは滅多に見なかったテレビを点けてみても、ただ煩いだけ。
彼女の用意してくれた食事は、いつもと変わらず美味しく温かいはずなのに。何故だか今日は酷く冷たく、無味に感じる。
「‥‥ご馳走様でした」
416に支えてもらう以前と比べたら、遥かに体調は良い。けれど今は、体の真芯がどうしようもなく寒かった。
「何を甘えてるんだ、ノア=クランプス。しっかりしろ」
自分の頬を両手で強く張る。ピシィッという音と痛みで、いくらか頭はすっきりした。
食器を始末して、歯を磨く。姿見を見ずに自分の装いを確認しながら、ノアは今日するべきことを脳内で確認した。
(今日約束をしてるのは、M200とエンフィールド、64式。最初の約束が
あぁ、新型エクスキューショナーとの交戦にも備えないと)
最後が目下最大の課題と言える。新型エクスキューショナー――モデル・ミョルニルは、その攻撃範囲と速度、そして強靭さで以て“猫の鼻”に対する大きな脅威となるだろう。
幸い先日の撃破から今日まで、彼女が出現したという情報は無い。あの機体に中々のコストが掛かることは想像に難くないので、現在は再生産と調整の最中と見ていい。ノアはこの再調整に掛かる時間を、最長で七日と予想している。
そして次に見えるときのエクスキューショナーは、前回以上の強敵となっていること請け合いだ。通常の戦力では対応が難しいだろう。なので、彼女が現れ次第直ちに迎撃できるよう、一襲とノアは基地で待機。それまで一襲のメンバーには、対エクスキューショナーを想定した零~近距離の乱戦訓練を行うつもりでいる。
「‥‥行かせたくないなぁ」
本当は、自分が敵を狩りに行くべきなのだ。たとえ416から嫌われてしまったとしても、彼女たちが傷つく未来など潰した方がいいに決まっている。
それに、あのエクスキューショナーならば、叶えてくれるかもしれない。たった一つの、ノア自身の願いを。
けれど今は、それすらも噛み殺して。彼女たち自身が戦いを望むなら、せめて必ず生き残ることができるよう、できる限り手を尽くそう。
「うん、今日も頑張ろう」
隈を隠すメイクよし、人懐っこい笑顔の準備よし。
ノアはあえて軽快な足運びを意識しながら、部屋の鍵を手に取った。
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