脳髄が鉛のように重くて、体の中で吐き気がぐるぐると渦巻いている。
呼吸にすら難儀しながら、ノアは身を起こした。息をするたびに肺が痛む。
どうしてこんなに辛いのだろう、と疑問に思ったのは一瞬のこと。毎朝隣にあったはずの、チューベローズの温もりが欠けている。
睡眠時に体温の維持を止めてしまうこの体は、一人で眠ると低体温症を引き起こす。慣れ親しんだはずの不快感が、随分と重篤な病のように思える。
416が面倒を見てくれる前は、どうやって朝を過ごしていたんだったか。
数分思考を巡らせて、ようやく以前のルーチンを思い出した。
シャワーを浴びて体温を元に戻し、ホットココアと冷蔵庫にあるゼリーを飲む。
「‥‥あれ」
このゼリーは、ノアが自分の体質に合わせて作ったものだ。味も自分の好みに沿わせてあったはずだが――
「こんなに不味かったっけ」
そう呟く声も、無音のダイニングに吸い込まれて消える。寒さには強いはずの体が、ぶるりと震えた。
きっと、ゼリーの冷やし過ぎだ。そう思い込んで、ノアは残りを嚥下した。
***
ブーツの底が、踏み砕くように巌の如き肌を蹴り抜いた。意味を持たない呻き声と共に倒れ伏す体を避けて、ノアは既に死体を増やしている。“
E.L.I.Dの外殻には尋常の刃物が通用せず、つまり“烈火”以外の攻撃手段をノアは持たない。したがって先程から彼の足は、四万八百ニュートンを優に超える衝撃で以て、主砲としての役割を果たし続けていた。
崩壊液によって変異した生命体が定期的に雪崩れ込む、C■■地区南部戦線。以前は正規軍の自律兵器部隊が常駐していたため無視できたが、彼らがクレンザーによって灰燼に帰した以上、これからはここも“猫の鼻”の戦力で守っていく必要があった。
目につく全てのE.L.I.Dを、手当たり次第に文字通り蹴散らしていく。普段とはかけ離れた粗野な足運びに合わせて、ポニーテールが靡いた。
「“
コイツらを切れるナイフを都合する?うぅん、寸を詰めた単分子振動刀なんてあるのかな。
仕方ない。一人でやるときは、大人しく蹴り殺すしかないや」
面倒そうな台詞とは裏腹に、その表情は活き活きとしている。
‥‥実のところ、体を動かしていないと気が狂ってしまいそうだった。
ここへ足を運んでいる最大の理由は、416を突き放した罪悪感やら何やらから目を背けるためだ。ここを担当していたAUGには第一強襲部隊の攻撃役を任せ、“猫の鼻”へ帰還してもらっている。
インカム越しに、自分を呼ぶ声が聞こえた。目の前のE.L.I.Dを思いきり蹴飛ばして応答する。
『指揮官、ご無事ですか?』
「うん、こっちは平気だよシュタイアー。
それで、“ガニメデ”の準備はどう?」
IWSは「よかった」と安堵の息を零して、すぐに言葉を続けた。
『充電よし、装填よし、発射地点よし、トリガーの感触よし。
‥‥はい、こちらの準備は完了しました!“ガニメデ”、いつでも発射できます!』
「じゃあ僕は下がるよ。僕が殺傷圏内から外れ次第、連中を一番巻き込める場所にぶっ放しちゃって」
『了解しました』
通話が終わるや否や“絶火”。後ろへ落ちている最中に身を翻し、その後は基地へ向かって疾走する。これが、ノアがここにいる最大ではない理由。
“ガニメデ”は、鉄血工造の“Jupitar”や正規軍の“Typhon”を基に、ノアが設計した大型兵器だ。両者の設計データを盗んで突き合わせて、双方のいいとこどりをしようと試みたわけである。
その結果完成したのは「Typhonのような配備の簡単さを持ち、Jupitarと同様に実弾を用いる大型のレールガン」だった。ただし放つのは
今日は、その試運転の日だった。
乱雑な色の線が流れていく景色の中、IWSの声が告げる。
『“ガニメデ”、第一射いきます』
もう充分距離は離した。砂埃を上げながら立ち止まり、振り返る。数百の子爆弾を孕んだ母体が、頭上の空気を突き抜けていく。砂埃は一瞬でどこかに消えた。
暴れる髪を押さえたとき、前方で怒涛の爆発が起こる。衝撃波がここまで押し寄せてきて、ノアは思わず「ひゃあ」と声を上げた。
『指揮官!?今とても可愛らしい悲鳴が聞こえましたが!』
「‥‥気のせいだと思うよ。どう?着弾後の様子は」
訊ねると、少し沈黙してからIWSは明るい声音で報告した。
『まぁ、凄い!目視で確認していた百九体、全て木端微塵です!
コレ、本当に私がやったんですか?』
「破壊力が大きすぎると現実感が無くなるのは、ヒトも人形も変わんないんだね。
これからはちょくちょく撃つことになると思うから、慣れておくれよ」
『了解しました!』
通話終了。南部基地へ足を進める道すがら、端末を確認する。
アンバーズヒルの企業や、孤児院からの連絡がいくつかある。それぞれにさっと目を通し、返信していく。
45からの着信が一件。基地に着いてからかけ直そう。
そして、416からのメッセージが‥‥五十五件。言い方こそ変化しているものの、内容は全て同じ。
あの作戦が終わってから、一週間が経つ。彼女からの怒涛のメッセージは、未だにその勢いを失わない。
『何がいけなかったの?教えてよ』『お願いだから返事をして頂戴』『どうして何も言ってくれないの』『ごめんなさい』
罪悪感で胃ごと吐き出しそうになる。キーボードをフリックしそうになる自分を、それでも何とか食い止めた。
ここで彼女の言葉に応えてしまえば、元の木阿弥。ゆえに返信するわけにはいかない。たとえ彼女に嫌われようと――
ずきん。
「‥‥あれ?」
心臓が激しく収縮するような痛みに、思わず胸を押さえた。心臓の動かし方を間違えたのだろうか?いや、悩み事で心拍の制御をし損ねるほど、この脳は不器用ではない。
言いようのない苦い感情を思考の隅へ追いやるように、ノアは端末をポケットに押し込んだ。
***
南部基地に着くとすぐ、IWSが満面の笑みで出迎えてくれた。
「お疲れ様です、指揮官!砂埃すら付いていませんね。流石です!」
「ありがと、シュタイアーもお疲れ様。早速で悪いけど、“ガニメデ”のレポートをお願い」
加害範囲の予測と実範囲のズレや照準の合わせやすさ、演算時の砲手への負担など、細かい部分までヒアリングを行う。
ノアにとって大型兵器の設計は初めてということもあり、完璧とは言えない出来だった。使用している弾種が一定以上のランダム性を持っているため、加害範囲を広げるほど単位面積当たりの攻撃性能が指数関数的に低下するのだ。今回はIWS2000という最優秀クラスのRF人形による操作ゆえ素晴らしい結果となったが、完全自律化は難しい。
「あと、普段使っている銃とトリガーの感覚が違うのは、少し気になりました。
仕方のないことだとは思うんですけど、人形によっては射撃のタイミングがズレる可能性もありますから‥‥」
「わかった、トリガーの引き心地を調節できるように改良する。それくらいなら僕一人でもできるかな。
あと、砲手の人形を識別して、その子なりのカスタマイズを呼び出せるプリセット機能も追加しよう」
話し合いが一段落したところで、ノアは端末を取り出した。45に通話をかける。IWSは休むのだろう、こちらに一礼して部屋を去った。
『もしも~し、UMP45です』
「ノアだよ。さっきはごめんね、戦闘中だったんだ。今大丈夫?」
『うん、大丈夫。
っていうかホントに化け物共と戦ってたの?やっぱりノアはおかしいね』
心外である。頬を掻いて先の連絡要件を訊ねると、45の声の調子がうんざりとしたものに変わった。
『訊かなくても分かるでしょ?416のこと。あの子、今日もずぅっと部屋に引き籠ってるの。
目も虚ろだし、声かけてもほとんど返事しないし。
本を読んでるように見せかけてもずっと同じページで止まってたり、ご飯用意してる最中に突然座り込んで泣き出したり‥‥もう酷いんだから』
想像以上に悪化している。
手段を誤っただろうか。しかし、416にはこれを乗り越えてほしい。でないと‥‥
『あんなに落ち込んでる416、初めて見たよ。M16がああなったって知ったときでも、行動に支障は無かったんだから。
ねぇノア、もう許してあげたら?毎日私か9に様子を訊いてるんだもん、気にしてはいるんでしょ?』
「それは‥‥そうだけど」
『まぁ、貴方が何を考えてるかは想像つくけど。
でもね、ノア。416は貴方が願うほど、強くなれないと思う。多分、このままじゃ耐えられないよ』
「‥‥うん」
『416の空気に当てられて9まで落ち込んじゃったら、私怒るからね。
具体的に言うと、MDRに協力して貴方の盗撮写真ラインナップを増やすよ。
じゃあ、精々頑張ってね。ノア』
端末をテーブルの上に放って、壁に凭れかかる。深い溜め息が零れた。
HK416という戦術人形は、とても優秀な人形だ。堅実かつ充実した機体性能ももちろんだが、常に成長を求める貪欲さは尊敬に値する。
しかし彼女の向上心の先には、いつも『他の誰か』がいる。先程45が口にしたM16もそうだろうし、ノア自身も――恥ずかしいことに――そこに含まれているのだろう。
M16A1は鉄血の尖兵となった。
ノア=クランプスは、この世から退場できることを願い続けている。
目指す背中が自分を置いて消えたとき。残された者がどんな心情になるか、ノアは痛いほど知っていた。416は既にあの絶望感を経験している。きっと、二度目には耐えられない。
少なくとも自分ならば、耐えられない。
だから、416には強くなってほしい。敵に対してではなく、孤独に対して。誰かの背を追うことなく、自分だけの強さを見つけてほしいのだ。
「流石、45は察しがいいなぁ‥‥」
さて、いつまでもこうしているわけにはいかない。416を副官から外したことで、以前の忙しさが戻ってきている。気合を入れて仕事を熟さなければ、人形たちの頼みを聞く時間が無くなってしまう。
「次の予定は何だっけ――あ」
今、ノアは傍にいるはずの相手に訊ねていた。しかし、彼女はここにいない。自分から突き放したのだから当然だ。
振り返った先に彼女の姿は無くて。澄ましているくせに、その実褒められるのを待っている顔がいやに懐かしい。
再び、胸の奥がずきんと痛んだ。ゴブレット細胞や涙腺が勝手に涙を用意し始めるので、慌てて瞼を閉じた。
「あれ?え、何、何だこれ」
――本当のノアはすっごい泣き虫なのよ。私、分かるんだから。
遠い過去に失った姉の声が、不意に頭の奥で再生された。
両手で瞼を押さえて、幻聴を追い払わんと頭を振る。
「うるさい、僕がアンタの目の前で泣いたのは一回だけだろ‥‥!」
――まぁちょっぴり変だけど、いつものへらへらした顔よりそっちの方が可愛いと思うわ。
いつか、416にかけられた言葉が泡沫のように浮かび上がる。「男の泣き顔が可愛いわけないじゃん」と苦笑いが零れる。
このままじゃ耐えられないのは、どうやら416だけではないらしい。それに、結局は全て正直に話す方が早いのかもしれない。
ノアは意を決して、端末を手に取った。
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