初めは、ただ眠っているだけだと思った。
翌日の朝になっても目を覚まさないのは、日頃の激務と戦闘で疲れているからだろうと。
その日の夜になって、とうとう不安を抑えられなくなった。
ノアが眠る医務室のベッド、その脇のスツールへ腰かけた416の背に、呆れたような声がかかる。
「まだいたの、416」
「あぁ‥‥45。どうしたの?もうとっくに寝る時間でしょ」
「その言葉、そっくりそのまま貴女に返すよ」
壁時計の針は、既に深夜の2時を指している。
隣に座った45には視線を寄越さず、416が呟いた。
「仕事が残ってるの?今日の分は終わらせたはずだけど」
「明日と明後日の仕事は終わってないけどね」
自分でもおかしいこと言ってると思うけど、と45は苦笑する。
ノアが健在の頃は、常に三日四日先の仕事まで粗方片付いていた。狂ったような業務処理スピードと、正確無比な情報処理のなせる業だったのだろう。
もちろん、ノアと共に仕事をしていた416の処理スピードも目を見張るものがある。しかし、五日後に一企業の重役が腹痛になっていることまで予想できるような頭脳は、いずれの人形も持ち合わせていなかった。
現在はここにいる二人とG36、合わせて三人で分担して業務をこなしている。
416は薄っすらと笑みを浮かべた。
「よかったわ。明日‥‥今日は私も出撃があるから、問題があっても手伝えないもの」
「私がミスしたことなんてあったっけ?」
「鉄血の襲撃に遭った、西側貧民街の修復工事」
「アレは現場の不手際ですー、私はちゃんとしてたもん。
‥‥ノアの作ってくれてたマニュアルが無かったら、対応できなかったと思うけど」
「‥‥そうね」
マニュアルという単語に反応して、ノアの手を握る416の拳に力が籠る。
ノアが倒れた翌日、G36が「ご主人様からの伝言があります」といって鍵を渡してきた。それは執務室にある大きな棚に対応していて、そしてその中には、千に届かんという書類の束が詰め込まれていた。
『自分に何かあったらこれでそこの棚を開けるよう、仰せつかっていたのです』
そこに記されていたのは、“猫の鼻”とアンバーズヒルに関する全業務の一覧と処理フロー、有事の対処法などだった。
つまり、彼はいつか自分がこうなることを知っていた。分かった上で、それを回避しようとしなかったのだ。
それは、ノアが遺した指令書の内容からも分かる。
一つ、ノア=クランプスが再起不能となった場合、その事実をヘリアントス上級代行官及びG&K本部に対し隠蔽すること。
二つ、人間の指揮官を採用することなく、人形だけで全ての業務を執り行うこと。
三つ、他の業務よりノア=クランプスの治療を優先
この内二つ目に関して、始めは416たちも困惑した。
戦術人形――ひいては自律人形に至るまで、人間による承認なしに仕事をすることはできない。結果に対するあらゆる責任の在処を明示する人物がいて初めて、人形はその性能を発揮できる。
したがってI.O.P.製の戦術人形には、人間による承認がなければ行動できないようプロテクトが施されている。例外は、AR小隊や404小隊くらいのものだった。
しかし、“猫の鼻”の人形は違う。新しく製造された人形や他の基地から移籍してきた人形全てのメンタルモデルから、ノアはそのプロテクトを取り除いていた。
つまり理論上、この基地の運営に人間は一人も必要ない。極端な話、こちらから人間相手に戦争を仕掛けることさえ可能なのだ。
もちろん、この事実は本部に対して伏せられている。当然だろう、このような処置、G&KとI.O.Pのあらゆる規約に違反している。一つ目の指令は、二つ目の指令を守るためにあると言って間違いないだろう。
そこまで思い返し、416は絞り出すような声で呟いた。
「‥‥どうして、自分を大切にしてくれないのかしら。客観的に見て、ノアがここに不可欠な存在ってことぐらい一目瞭然のはずなのに。
どうして、まるで自分に
「416‥‥」
珍しく本気で困ったように眉根を下げた45に向かって、416はひらひらと手を振った。
「ごめんなさい、45。貴女に言っても仕方のないことだわ。
本題は何?その手に持ってるファイルで間違いないわよね」
「うん。ノアのカルテだよ。
‥‥随分時間が掛かったよね、検査」
「人間用の大型検査機器なんてここには無いけど、病院に搬送すればノアのことが街に知れ渡る。
そうなると人々が混乱すること請け合いだから、医者の方を内密に呼ぶしかないわ」
「人間用‥‥まぁ、そうね。一応そう考えておいてもいいのかな」
「どういうこと?」
416の問いに、45は逡巡するような顔のままファイルだけを渡してきた。
もう中は見たかと訊ねると、45は頷いた。その表情は、今までに見たことがない種類のもの。
受け取って、ファイルを開く。開いてすぐ、416の手は止まった。
「‥‥何、コレ」
倒れた原因自体は単純、「過労」の一言で片付けられる。他所の基地とは比べ物にならないほどの激務に加えて、人形たちの用事にもできる限り付き合っていたことを考えれば、当然とさえ言える。
しかし問題はそこに無い。416の視線は、全身ドックの結果に釘付けになっていた。
肺の片方は、ほぼ完全に機能を停止している。
胃は小さく収縮し、消化機能は常人の二割程度まで低下。
同様に肝臓や腸も衰弱しきっており、通常の食事で栄養を摂取できる状態ではない。
全身の筋肉は所々裂け、なおかつ出鱈目に修復されている。
骨に至っては五十本以上、欠けたまま放置されていた。
そんな中、脳や心臓、血管だけが無傷。
カルテには、こうした損傷の全てがとても古いものであることも記されている。
最低でも五年は、この状態で生活していたはずだと。
「人間って、こんな状態で生きていられるの?」
「そんなわけないよ。医学の知識がなくても分かる――これじゃあ、検査というより検死だね」
416はノアの手を取った。冷たく、細い指。カルテを見た後だと、まるで死人のように思えてくる。思わず、両手で摩る。そうすれば温度が戻るのではないか――いや、そんなことに意味はないと、当然理解はしていたが。
「ねぇ、45」
「何?」
「もし、こんな状態でも生きていられるとして。
ソレって、どのくらい辛いのかしらね」
「‥‥分かんないよ、そんなの。
でも、コレを隠して普通を装うのは、文字通り死にそうなくらい痛かったとは思う」
「‥‥そうね。そうよね。ははは‥‥」
気付けば、416の眦からは大粒の涙が溢れていた。
どうして、一言「辛い」と言ってくれなかったのか。
これまで何度も繰り返してきた「一人で抱え込むな」という諫言は、ついぞ彼には届かなかったわけだ。抱えた負担を自分たちに分配しているように見せかけて、より重要で致命的な苦難を、戦術人形に背負わせることを良しとしなかった。
いっそ身勝手とも言えるノアの過剰な遠慮に、怒りすら覚える。
――いいや、そうではない。そうではないだろう、HK416。
自分はノアの副官なのだ。一番近くで彼の振る舞いを見ていたはず。その背に追いつき追い越すために、つぶさに観察していたはずだ。
にも関わらず、何故気づけなかった?そんな自分の迂闊さのせいで、彼は倒れてしまった。花畑での喧嘩のことを考えれば、止めを刺したのは自分と言っても過言ではない。
結局、自分は彼をろくに支えることもできなかった。
湧き上がる雑多な感情データに抵抗することもできず、416はノアの手に縋りつきながらしゃくりあげる。
45が、気まずそうに口を開いた。
「‥‥416、その先も読んで。
多分、ノアが今まで普通を装えてた理由も、そこにあると思うから」
45の前で号泣した事実から目を逸らしつつ、ぐずる鼻を抑えてカルテを
一瞬、そこに書いてある内容を読み取り損ね、416は大いに困惑した。
「コレは‥‥脳のレントゲン?でもこの写真は‥‥」
「そう。大脳新皮質の作りがおかしいの。普通の人間と比べて明らかに層が多い。
私にはよく分からないけど、要するに
45が解説すればするほど、416の困惑は加速した。もっとも45自身、自分の言っている言葉の意味を掴みかねているような面持ちをしているが。
「あとおかしいのは血ね。どの血液型にも当てはまらなくて、赤血球の作りが普通と違うとか、血小板が無いとか‥‥」
45の言葉に合わせて、416はカルテを捲る。
その後に続くいずれのページにも、ノア=クランプスの体がいかに異常であるかが詳細に記述されていた。
416は呆然とカルテを閉じて、眠り続けるノアの顔を見つめる。
「‥‥そもそも、こんな状態でまだ生きてること自体、不思議なことよね」
「うん。前は私の冗談ってことで流したけど、これだけ証拠が集まったら流石に否定しようがない――」
月明りに半分だけ照らされたUMP45の唇が、決定的な言葉を紡ぐ。
「――416。ノアは、人間じゃない。もっと別の生き物だよ」