杳として先の見えない闇の中。左手には温かな感触があって、それだけが僕をここに繋ぎ止めていた。
聞き覚えのある声なのだけど、誰だったろうか。
考えているうちに、声はすすり泣きへと変わった。
どうしたんだろう?泣いていることは分かるのに、肝心の内容が聞こえない。
この声の主は、絶対に泣かせちゃいけないと心に決めた相手だった気がする。
何とかして話を聞いてあげたいけど、体が重いし痛い。重症のまま放っておいた全身の各所が、我慢の限界だと怒鳴っているような感じ。
抵抗する間もなく、僕の意識は真下に自由落下していった。
「G36。頼みがあるのだけれど」
「伺いましょう」
執務室には、ここ最近馴染みの顔ぶれ――416、45、G36の三人が集まっていた。
他の姿は無く、以前のような安心感に満ちた空気は影も形もない。ノアが起きていた頃は様々な人形が遊びに来たが、今では各部隊長が作戦終了時の報告に立ち寄る程度。
彼が眠りについて、そろそろ二ヶ月が経とうとしている。416たち三人の仕事量は相変わらず膨大で、人形たちのモチベーションは低いまま。作戦に失敗することこそないが、集中力を欠いて重傷を負う人形や、三人の作戦立案が及ばず撤退を余儀なくされることも少なくない。
この基地におけるノアの存在は彼自身の思惑と裏腹に、取り返しのつかないほど大きくなっていたのだ——そう痛感する。
そんな現状を憂えての、416の発言だった。
「ノアを目覚めさせる方法を探しに行きたいの」
「‥‥承知しかねます。ご主人様からの指令をお忘れですか?」
G36は目を逸らした。416が首を振る。
「分かってるわよ。でも、このままじゃ基地の運営は破綻する。それは貴女も分かるでしょ、G36。
あの人なしじゃ、”猫の鼻”を存続させることは難しいわ」
「‥‥それは」
「あの人の願いを叶えられるほど、私たちは独り立ちできてない。
ここそのものがなくなってしまうよりは、彼にもう少し頑張ってもらう方がマシよ」
その言葉を耳にしたG36の目つきが鋭くなった。語気が少しばかり荒くなる。
「ご主人様に、これ以上のご苦労を強いるわけにはいきません!
ただでさえあの方は今までずっと、尋常でない苦痛を堪えていらしたのです。
最高練度の体術が無ければ動くことすらままならないお体で、あの笑顔を保つことがどれだけ——」
「やっぱり。G36貴女、ノアの体のこと、知ってたんだ?」
その口ぶりで見抜いた45に指摘され、G36ははっと口をつぐんだ。自らの失言を悔いて、エプロンの裾を握りしめる。
416は衝撃に目を見開いて、俯いたG36に詰め寄った。
「貴女っ、知ってて黙っていたの!?
知っていたなら、治療を受けさせることだって‥‥」
「416」
G36に掴み掛ろうと伸ばした手を、45に掴まれる。
何のつもりかと45に目を向ける。悲しそうに伏せられた瞼を見て、416は自分の行いの無意味さを理解した。
——自分より長くノアの傍にいて、彼のことを慕っていて、彼のために誠心誠意尽くしてきたG36が、ただの怠慢で彼に迫る死を見過ごすはずがないのだから。
気まずさに手を下した416に代わって、G36がか細い声で語り始めた。
「ご主人様の具合がよろしくないことは、初めから‥‥ご主人様が着任されて間もない頃から、存じていたのです」
例えば、他の誰も見ていないふとした瞬間。整った顔が激痛に歪む刹那を、目にしたことがある。
四つある脳を常に全力で動かし続ける反動は、どれほどのものだったのだろう。
例えば、自分が執務室の戸を叩く直前。肺からこみ上げるような重い咳の音を、耳にしたことがある。
片方の肺が機能停止するまで放置された炎症は、どれほどの苦痛をもたらすのだろう。
例えば、涙が出るほど大笑いしたとき。涙を拭った後に決まって目元を確認する姿を、いつも見ていた。
自分の苦労を悟られないために施していたメイクが崩れていないか、確かめていたのだろう。
「ですが、ご主人様の日頃の振る舞いは貴女も知っているでしょう?とても、病人だとは思われなかったのです。
それに、ご主人様が何も仰らないのは「関知しないでほしい」というご意向の現れでしょう。
——ですから、せめてご主人様に何かあったときは、全力でお助けしたいと思っていただけです」
そう言いながら、G36はポケットから小さな外部記憶媒体を取り出した。
差し出されるままに受け取って、416は首を傾げる。
「‥‥コレは?」
「ご主人様の古巣にまつわる情報です。
具体的には、”遺存生命特務分室”という、正規軍が擁する研究施設の所在です。
現在は破壊された場所ですが、ご主人様のお体に関する手掛かりは、これくらいしかありません」
「これだけでも有難い情報だけど‥‥どうして貴女がこんなものを持ってるの?」
45の問いに、G36は恥ずかしそうな苦笑を浮かべた。
「昔ね、いたのですよ。
ここに来たばかりの貴女のようにご主人様のことを疑って、こそこそと嗅ぎ回っていた人形が」
***
こうして、ノアを目覚めさせるための手掛かりを探す部隊が編成された。
アサインされたメンバーは416を部隊長として、MDR、G28、Super-Shorty、64式消音短機関銃。
ノアの生命維持装置は動いているが、事態は一刻を争う。任務に許された期間は二週間。
基地の運営をG36と45、M950Aの三人に任せ、416たちは”猫の鼻”を発った。