『行動終了。15分以内に帰投します』
「お疲れ様。帰りも気を付けてね」
世界の様相が激変しても、季節が一つ消えるなんてことはない。太陽系が健在である以上、今年も地軸は太陽側に傾く。
段々と近づいてくる夏の気配が、熱として日差しに乗り空気を焦がす今日この頃。
冷房の効いた執務室で、ノアは通信機を外して深く息を吐いた。
「ふぅっ‥‥今日も何事もなく完勝だね。よかった」
「素晴らしい指揮でした。ご主人様」
G36が冷たいレモンティーを差し出す。
「Danke. やっぱり夏はさっぱりした飲み物が一番だよね」
「Bitte schoen. 本当なら、冷たい人血をお出ししたいのですが」
「あっは‥‥冷えたら固まっちゃうからね。多分美味しくないよ」
この場に416がいれば、「そういう問題?」とツッコまれただろう。
そんなやりとりをしながら、事務仕事を捌き始めた。デスクに積まれた書類の山が、ノアの手許を経て別の山に移っていく。紙束たちはテンポよく流れていくが、その速度がこころなしかいつもより遅いことに、G36は気付いた。
実はここ最近ずっとそうなのだ。彼が目を覚ましてからというもの、以前と比べて仕事がほんの少しだけ遅い。ミスが増えたというわけでもないし、指摘するほどのことではないかもしれないが。
「ご気分が優れませんか」
しかし、ノアには絶大な不調を限界まで隠していた前科がある。全ての書類に目を通すのを待ってから、G36は彼の顔を覗き込んだ。
「ん?どこも悪くないよ。むしろ最近は体調いいし。ほら、隈隠しのメイクも薄いでしょ」
そう言って笑ったノアの視線が、時計とドアを行き来している。
G36も釣られて時刻を確認した。そこで思い至る。
「ご主人様。416が戻るにはもう少しかかるでしょう」
「んえっ」
シャツの肩が跳ねる。珍妙な声を上げたノアは、レモンティーを一口飲んでからG36を見返した。
「どうして急に416のことを」
「視線が時計とドアを往復していましたから。
そろそろ15分経ちますが、彼女がここへ来るにはもう10分ほど必要かと」
「そう言えば最近帰り遅いよね。いや遅いって言ってもほんのちょっとだけどさ」
どうして遅いのかはノアも分かっている。シャワーを浴びているのだ。
執務室は基地の本棟にあり、シャワー室は宿舎にある。正門と宿舎は本棟を挟むような位置関係にあり、汗を流してから執務室へ向かうと必然的に遠回りすることになる。
それゆえ以前の416は、出撃後真っ直ぐ執務室へ戻っていた。余程汚れてしまったときはその限りではないが、“絶火”を習得した彼女には泥跳ねや砂埃も追いつかない。
しかし最近は、毎回シャワーを経るようになっている。
ノアは少しだけカーテンを開けた。瞬間射し込む強烈な日差しに、思わず目を細める。
「そろそろ夏だもんね」
「その通りです。
さぁ、どれだけ楽しみにされても時間の流れは遅くなる一方でしょう。
肩の力を抜かれてはいかがですか?」
「そうだね‥‥そうする」
カーテンを閉めて、椅子にぽすんと腰を下ろす。
「――って、楽しみ?」
「違うのですか?」
ばっと振り返って訊ねると、質問が返ってきた。ノアは椅子に背を深く預けて腕を組む。「うーん‥‥」
帰ってきてほしいか否かでいえば当然前者だ。ここに戻ってきた彼女の顔を見て、彼女が生きているという事実を噛み締める。
さらに近頃は、416が傍にいるだけで安心している自分がいた。彼女の声や影を知覚するだけで、加速していた意識がふっと今に帰ってくる。
「何なんだろうなぁ‥‥」
「HK416、ただいま戻りました」
物思いに耽っていたらあっという間に時間は過ぎる。ノアは反射的に声を上げた。「おかえり!」
416は目をぱちくりさせて、首を傾げた。少し声が大きかっただろうか。
「えっ、えぇ。ただいま。
何かいいことでもあったの?」
「ん、なんで?」
「だって、今凄く嬉しそうな顔してるわよ。貴方」
今度はノアが目をしばたたかせて、G36を振り返る。
「そんな顔してた?」
「後ろからでは分かりませんが、はい。
少なくとも声音はクリスマスプレゼントをもらったART556のようでしたよ」
「そっかぁ。なんか恥ずかしいな、あっは」
ノアは赤くなった頬を掻いた。
「別に何かあったわけじゃないよ。なんとなく嬉しかっただけ」
「?そう。ならいいけど」
不思議そうな顔でこちらに歩いてくる。デスクの上にはノアが捌いた後の書類がある。
416は3つに分かれた山を見て、迷わず一番手前の紙束を手に取った。
「新しい畜産プラントの事業計画書と設計書ね。方向性の確認はもう終わってるの?」
「うん、終わってるけど‥‥キミは戻ってきたばかりでしょ。もう少し休んでていいんだよ?」
416は首を振る。洗い立ての髪から香るチューベローズが、いやにノアの気を引いた。
「午前の仕事はこれで終わりでしょ。さっさと終わらせて昼休憩に入った方が気持ちいいわ。
今日のお昼はどうするの?」
「えっと‥‥まだ決めてないかな」
「そ。じゃあどこか行きましょう」
「おっけ」
ソファに腰を下ろして足を組んだ416が、ペラペラとページを捲っていく。彼女に頼もうと思っていたのは予算面のチェックなのだが、もはやそう言った内容は明言せずとも伝わるようになっていた。ノアは孤児院から送られてきた報告書への返電をしたためる。
しかし指がキーボードを叩く一方で、気付かないうちにノアの視線は画面ではなく416に向かっていた。時折重力に負けてさらりと流れ落ちる銀髪や紙面を走る緑色の視線を、何の気なしに眺める。
怪しい記述を見つけたのか、きゅっと連山の眉が谷を作る。端末を操作し画面と書類を見比べて、ふっと力が抜けた。杞憂だったらしい。
白磁の肌に一滴落ちた涙のタトゥーは、その鮮やかな色ゆえとても目立つ。しかしそこに目をつけると、そのまま橄欖石のような瞳に意識を誘導されて――
「私の顔に何かついてる?」
見られていることには気付いていた416が、堪えかねたように声を上げた。わずかに紅潮してこちらを窺うその表情を見て、ノアは加速した血流の音を聞いた。
(やばっ、制御ミスった)
落ち着いて心拍を元に戻しながら、ノアはにこりと笑う。「ううん。いつも通り可愛いよ」
ノアは普段から、人形たちに対して「可愛い」や「綺麗」といった褒め言葉を多用する。それは紛れもない本心だし、毎度毎度心を込めて放っている。
とはいえ人形たちからすれば、いつも同じ言葉をかけられているわけで。慣れてしまったのか、416は出会ったばかりの頃のような鮮やかな赤面を見せてくれなくなっていた。
しかし今日は。
「‥‥そ」
416はぼぼぼぼと耳まで真っ赤に染めて、そっぽを向き呟いた。その手はスカートの裾をきゅっと握り締めている。
そんなに嫌だったのかと衝撃を受け、思わず謝ろうとしたノアをG36が手で制した。耳元で囁かれる。
「ご安心ください、ご主人様。彼女は嫌がっているわけではありませんから」
「そ、そうなの‥‥?」
何しろあんな反応は初めて見たのだ。
多大な困惑を抱えつつ返電を送信しようとしたとき、ノアの聴覚が遠雷のような音を捉えた。しかし今度は自分の体内ではなく、外――ずっと遠く、正規軍本部のある方角からだ。
窓の外を見やる。景色には何の異常もない。モニタを確認するが、基地周辺を監視する妖精たちの視界にもおかしなものは映っていない。
「二人とも。今の聞こえた?」
「いえ。取り立てておかしな音は聞いておりませんが」
「私も。そもそも何の話?」
顎に手を当てて考える。そんなノアを二人が見つめる。G36はあくまで指示待ちという面持ちだが、心なしか416からの視線がいつもと違うように思われる。まぁ気のせいだろう。
顔を上げる。
「G36、二偵の子たちとアンジェリアを呼んできてくれる?
416、ランチは少し後にずらそう。多分緊急事態だ」
恋符!!!!!!!!!!(違う)
今回は洗い髪の香りにドキッとしてしまうようなお話でした。むっつりめ
3話くらい前のあとがきで「次回正規軍出す」みたいなことを書いた気がします。すっかり忘れてた。
裏話。今までにもノアくんがしれっとドイツ語を話している描写はありますが、彼は日中英独仏伊くらいなら喋ります。作中で描写することは‥‥ないかな‥‥。筆者が日英独しか読み書きできないので。
次は今度こそ正規軍が出ます。結構目立つ感じで。お楽しみに
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