ノアの
その噂は瞬く間に”猫の鼻”を駆け抜け、遍く人形たちの耳に入ることとなった。
ある人形はノアからの告白に備えて美容室へ走り、ある人形は今からでも遅くないとアプローチの計画を練り、またある人形は諦めて自室でしょげていた。
何しろ誓約の証だ。指揮官に恋愛感情を抱く人形はもちろん、純粋に強化を望む者や他者にマウントを取りたい者など、それを求める人形は枚挙に暇がない。
しかもノアは徹底的な恋愛回避主義者。全基地で最も指輪に縁の無い彼がそれを手に入れたとなれば、彼女たちの関心を引くのは当然だった。
というわけで“猫の鼻”の執務室は、人形たちの声でいつにも増して賑わっている。
「ねぇねぇ指揮官!都市部に美味しいイスタンブール料理のお店ができたんだって!一緒に行こうよ!」
「それより指揮官、映画に行かない?貴方が好きって言ってた監督の新作、上映してるわよ」
「ねぇ指揮官〜、ちょっと装備の点検に付き合って欲しいんだけどぉ」
「バスケしようよ!」
「私の血を飲んで、ダーリン♡」
かれこれ3時間ほど、人形たちからの誘いに揉まれていた。あまりの攻勢に、流石のノアも作り笑いが引き攣っている。
「みんな、ちょっと待って‥‥。
僕は一人しかいないから、一日にできることには限りがあるから‥‥待って‥‥」
仕事こそいつも通り終わらせたものの、彼がここまで疲労を滲ませているのは珍しい。
視線で助けを求めてくるノアに、416は瞬き信号で応じる。
(今まで八方美人にしてきたツケね。精々もみくちゃにされなさい)
目を見開いたノアに、416は小さく舌を出した。
ドアを半開きにしているとはいえ、廊下に出ると喧騒は随分マシになる。代わりに416の聴覚に届いた音は、
「いいの?助けなくて」
「45か、はぁ‥‥」
思わず嘆息すると、「ひどい」と壁にもたれていた45が頬を膨らませる。
(うっざ)
「出てる出てる。顔に出てるよ」
「日頃の行いでしょ。
で、ノアのことだけど。私がどうこう言ったって、誰も納得しないもの」
そのまま銀髪を靡かせて歩き出す416の背を、45の声が追う。
「どこ行くの?」
「買い物よ」
416が素っ気なく答えたとき、執務室のドアから勢いよく赤黒い霧が吹き出した。
45の目の前で体を再構成したノアが、悲鳴じみた声を上げる。
「とにかく!誰かに指輪を渡すつもりはないから!Tchuess!」
「あっ、逃げた!」
「逃がさないわよ指揮官!」
「待って!下心はないの!ほんとに!」
「エッチしてくれるだけでいいから!」
執務室の中から追ってくる声を背に、ノアが青白い顔で駆け出す。
しかし416の隣で立ち止まり、
「416はおでかけ?気をつけてね!」
「えぇ。貴方も頑張って」
そんなやりとりににこりと笑い、再び“幽世潜”で姿を消した。
何かを察した様子の45が、開いたままのドアを見ながら意地の悪い笑みを浮かべる。
「なーんだ。416ったら、ノアが逃げ出せるように手助けしてたんじゃないの」
「何のことかしら」
416は肩を竦めて、今度こそ廊下を後にした。
本棟の屋上のフェンスに両腕と顎を乗せて、ノアは深く溜息を吐いた。
「困ったなぁ‥‥。
指輪を渡す相手はいないって言っても、全然信じてくれないんだもん」
一つに括った鳩羽色の髪が、緩やかな風に遊ぶ。何の気なしに梳いてみる。いつかVectorの止血で生じた欠落は、とうに埋まっていた。
そういえば416は、この髪のことを結構気にかけていた気がする。
(あの子の髪の方が、ずっと綺麗だと思うけど)
すっかり夏らしく勢いづいた日射しが、肌をチリチリと刺激する。
死なないとはいえ暑いものは暑い。ノアは日陰に移動して座り込んだ。
きっとここに416がいたなら、燦々と照る日をこれでもかと浴びて、彼女の髪は水面のように輝きを放つのだろう。想像するだけでも眩しいが、見てみたい気持ちもある。
そんなことを考えて一人にやついていたノアだが、下から聞こえる人形たちの声で、現在進行形の問題に連れ戻される。
「――多分、誰に相談しても贅沢な悩みって言われるんだろうな」
戦術人形は、共にいる時間に応じて自動的に指揮官を愛するように作られる。
しかし“猫の鼻”に所属する人形はその限りではない。ノア個人による改造でその機能は失われており、404小隊と同じく確固たる自由意思を持っている。
つまり彼女たちは、明確に自分の意思でノアを愛してくれているのだろう。それはとても嬉しいことだが、
「未亡人にするわけには、いかないもんね」
正規軍から基地を守り、この身の真性を受け入れられたあの日。自分は彼女たちにとって必要な存在なのだと、ノアは確かに理解した。
しかし、己の死を希求する気持ちがなくなったわけでは、ない。以前のような自損前提の戦い方はもうしないが、後腐れなく命を捨てられる機会が来れば、自分は間違いなく飛びつくだろう。
だからこそ、ノア=クランプスという一個人を拠り所にさせるわけにはいかないと。
「あれ?」
違和感。
いつも自分に言い聞かせていた戒めの言葉が、なぜか今は他人行儀に感じた。
まるで、自分で自分に嘘を吐いているような――
「おかしいな‥‥」
じゃあ本当の理由は何だと自問しても、答えは出ない。
糠に釘を打つような感覚にうーんうーんと唸っていると、ポケットの端末がブーンと唸った。
「‥‥グローザ?」
”猫の鼻”が誇る二大宝塚系美女。その一翼から送られてきたのは、短いメッセージだった。
『今夜飲みましょ。ちゃんと来なさいよ、お店予約しちゃったから。』
続けて添付された住所を確認しながら、ノアは空を仰ぐ。
もし自分が誘いに応じなければ、グローザは店で待ちぼうけを食うことになる。当然傷つくだろう。恥もかく。
彼が良心を人質にとった誘い方に弱いということを、彼女は理解しているわけだ。
ノアは苦虫を嚙み潰すような表情で、「了解」の二文字を返信した。
前回のあとがきで、次は飲みの話とかほざいていた気がします。届かなかったよ(懺悔)
プロットを作らないからこういうことになるんですよね。
しかも薄味になりました。自分を甘やかした描き方すると起承転結がお留守になってしまいますね。
次こそ飲み会。密です