吸血鬼であるノアには、これといって生物的な弱点が存在しない。
下位個体である死徒なら、急所の破壊や日光による細胞崩壊によって殺すことができる。しかしそれらも彼にとっては脅威となりえず、ノア=クランプスは誇張抜きで完成された生命体と表現できるだろう。
さらに過去300年という月日を多様な勉学と修練に費やした彼は、戦闘以外の芸術や学問にも秀でている。
しかしそんな最強生物にも一つだけ、決定的な弱点があった。
「だから泳げないって言ってるだろ!嫌だ嫌だ絶対に入らないからな!」
「まぁまぁまぁまぁまぁそう言わずにさ!
とりあえず足だけでもつけてみなよホラホラホラ!」
アンバーズヒル都市部につい先日オープンしたばかりの、大型アクアパーク。
かつてハワイと呼ばれた島の植生を再現した人口植物に、最新鋭のプロジェクションマッピングと小型の人工太陽を用いて再現された炎天。22種類のプールはビーチを模した通路で繋がれており、ただ眺めるだけでも目が楽しい。
そんな娯楽施設ができたとあっては、”猫の鼻”の精鋭たちが「行ってみたい」と宣うのも当然のこと。早速、何人かの人形たちがこの施設へ足を運んだ次第である。
ノアは経営者と挨拶(という名のプチ会議)を終えてから入場したので、既に人形たちは各自行きたい場所に散っていた。
一方で彼を待ち構えていた人形もいる。その一人が、2丁の水鉄砲を腿のホルスターに提げたビキニ姿のスコーピオンだった。
絶対に泳ぐつもりのない――泳げないノアと、何が何でも彼と水遊びに興じたいスコーピオン。
人工の陽光が照り返す砂浜の上で、決して相容れない二人は目にも止まらない速度の追いかけっこを繰り広げていた。
当然周囲には他の人形も、一般市民もいる。他の来場者たちにぶつからないよう、二人は極めて狭い範囲で器用にステップを踏む。
その異様な光景は野次馬を呼び、ギャラリーを遠ざけて安全を確保しようとする人形を呼ぶ。
「止めるんだスコーピオン!指揮官は嫌がってるじゃないか!」コンテンダーが声を上げる。嗚呼、何て良識のあるいい子なのだろう。
「だって滅多に見られない指揮官のガチビビリだよ!?この先を確かめずに帰るなんてありえな——」
がしり。
猛獣のような顔つきで叫んだスコーピオンの後頭部が、白くて細い指に掴まれる。
エスカレートした攻防の果てに音速へ踏み込んでいた彼女を捕らえる——さらに片手で易々とそれをやってのけるほどの実力者はそういない。
そんな実力を持つ人形にしてノアの副官であるHK416が、こめかみと手の甲に青筋を浮かべて微笑んだ。
「ノアもスコーピオンも、一般人がいる場所で”絶火”を乱発しないの。
万が一にも制御を誤れば、ソニックブームで死傷者が出るわよ」
「は、はぁいたたた痛い痛い!」
「ほら、あっちにG36cとかいるから、遊んでもらいなさい」
「はぁーい。いてて‥‥」
頭をさすりながらその場から去るスコーピオンを尻目に、ノアが溜息を吐く。
「ふぅーっ‥‥。ごめん416、助かった」
「全く、ノアは甘すぎるのよ。
さっさと掴んで水面へ投げ飛ばしてしまえばよかったのに」
「いやいや‥‥」
「‥‥」
そのまま、二人は黙り込む。
制御を誤れば、という彼女の指摘は全くもって正しい。実際416が姿を見せたとき、ノアは”絶火”後の着地をしくじりかけたのだから。
416がその身を包んでいたのは、深い藍のビキニ。普段はあまり主張するような服を着ないから意識せずに済むが、こうして露出の激しい恰好をされてしまうと、彼女がメリハリのついたプロポーションであることを理解してしまう。肩紐とバスト部の接続は金属の輪が務めており、強い陽光を鋭く返すせいで胸元の主張から逃げられない。白磁の肌と濃い色の水着が生むコントラストも、ノアの意識を奪う一因だろう。薄紫のパレオから覗く太腿も危うい。
しかし今上げた光景のどれよりも彼の脳漿をぐつぐつと加熱するのは、何かを言いたげに――あるいは聞きたげに髪を指で梳く416の表情だ。チラチラと隠す気があるのかないのか分からない頻度でこちらの様子を窺って、その頬は目元のタトゥーが霞むほどに赤くなっている。
そしてノアは、彼女が今もこの場を離れない理由に見当がついていた。
この状況下で何も言えないほど、彼は女心に無頓着な生き物ではないのだから。
上手く吸えなくなっていた夏の空気を吸い込んで、口を開く。
「‥‥その」
「な、何よ」
嗚呼、416が妙に強張った声を出すものだから、こっちまで緊張してきたではないか。内心で愚痴る。
二人の間に横たわる甘ったるい沈黙に耐えかねたか、周囲の人々が散っていく。
「水着、似合ってるね。凄く綺麗」
「――そ、そう?まぁ私が3時間かけて選んだんだから、当然でしょうけど」
「あっは、そりゃ長期戦だったんだね」
「折角の水着だもの、貴方には一番綺麗な私を見てほしいじゃない」
眩暈がした。
勘弁してくれ、と心の中で悲鳴を上げる。実際に喉も少し引きつった。
何なのだそのいじらしさは。
こっちはつい先日に自分の感情の輪郭を掴んでしまったところなのだ。すでに自分を誤魔化すのも難しいところまで来ているというのに、これ以上この気持ちに形を与えられたら堪らない。
自分は今、どんな顔をしているのだろう。自身の体を細胞単位で把握し続けることが当たり前の生き物でありながら、今のノアは自分の佇まいを見失いかけていた。
目の前の彼女に対して熱っぽい視線を送ってしまっていたらどうしよう。脈アリだと416に期待を持たせてしまったらどうしよう。
一時的に管理および指揮権を移譲されているとはいえ、そもそも彼女は404小隊の人形だ。“欠落組”の件が片付いたら、ここを去ってしまう。
1ヶ月後の再会も確約できないこの世界で、ずっと傍で守ることを許されない相手を想い続けるのは、辛い。
「そ、それじゃあ、私は他の人形たちの様子を見てくるわ!
リベロールはあっちでG11を見てくれてるから、行ってあげて」
言葉に詰まったノアが再び口を開くより先に、416が声を上げる。少し裏返っていた。
そこでようやく呼吸の仕方を思い出せた。いつもと同じ、人当たりのいい笑顔を作る。
「うん、よろしくね。416も楽しんで」
「えぇ。貴方もね」
そうして416と別れ、売店でジュースを買ってから、ノアはリベロールのもとへやって来た。
パラソルの陰に腰を下ろし、深く息を吐く。人工太陽によって生み出される疑似的な晴天は、ノアには中々堪える代物だ。もっとも、それはここにいる二人にとっても同じだ。
水着姿で眠りこけているG11――これが彼女なりの海の楽しみ方なのだろう――に配慮して、小声で謝罪した。「ごめんねリベ、遅くなって。コレ飲みな」
小さな両手で持っていたパインジュースを置いて、リベロールはレモネードを受け取る。
「ありがとう、ございます。ちょうど、これを、飲み終わったところなので‥‥。
でも、意外でした。指揮官にも、苦手なこと、あるんですね」
リベロールの発言に片眉を上げる。
「あぁ、あの騒ぎも聞こえてたんだ。
ま、そりゃあるよ。むしろ苦手なことの方が多いくらいさ」
驚かれるのも無理はないのだが、自分を完璧超人と思われるのは心外だ。
何しろノアは特別器用なわけでもない。ただ不滅の命に物を言わせて、目についた技能を片端から修めていっただけなのだから。
そう答えると、リベロールは首を振った。
「多分、自分には時間があると、分かっている人は‥‥頑張ることを、どこかで止めてしまうと、思います。
何かを学び、続けるのは‥‥大変でしょう、から」
「そういうものかなぁ」
「ふふ。そうですよ、きっと」
命の足元が覚束ない日々を知る彼女がそう言うなら、そうなのだろう。
リベロールが微笑みながらストローに口をつけたタイミングで、端末のバイブレーションがメッセージの着信を伝えた。送り主はアンジェリア。
嫌な予感を抱きつつ開く。さっと目を通し、特に表情を変えることなく端末を仕舞い込んだ。
「お仕事の連絡、ですか?」
「そう。アンジェリアたちが“猫の鼻”の修復施設を借りたから、事後承諾してねってさ」
この言葉に嘘はないが、全てを語ったわけでもない。
アンジェリアからのメッセージは、フローラ研究所で彼女たちが見舞われた災難の顛末だった。
RPK−16という戦力を失ったことは残念だったが、アンジェリアたちに大きな怪我がないことは不幸中の幸いと言える。
しかし何よりも重要なのは、謎の魔竜と氷結攻撃。
前者については情報があまりにも少ないので何とも言えないが、後者はほぼ間違いなくトーチャラーの仕業だろう。精密に対象を選択した上で、広範囲を高速で凍らせることができるというのは想像以上だ。
トーチャラーがなぜアンジェリアたちを助けたのかは分からないが、少なくとも欠落組を味方だと考えるのは早計だろう。
(常識的に考えて、長期的な視点での罠なんだろうな。警戒しないと――)
ばしゃんと水面を破る音と楽しげな悲鳴に、視線を上げる。
どうやらMDRがプールサイドから飛び込んだらしい。UMP9がけらけら笑い、45が顔にかかった水を拭う。‥‥義手を完全防水にしておいてよかった。
少し離れた場所では、416とRFBとIWSが水鉄砲を撃ち合い、三つ巴の様相を呈している。AUGは戦場の中心にいながら、泰然と水面に浮かんでぼうっと天蓋を見つめているようだ。
そんな彼女たちの様子を眺めて、リベロールが薄く微笑んでいる。
思い思いに水飛沫を上げる人形たちが見せる、戦場では見ることのできない笑顔。これだけで、今日ここにやって来た甲斐があるというものだ。
トーチャラーが何を企もうが関係ない。この景色を守るためなら、彼はG&Kも正規軍も鉄血も――彼自身さえも、使い捨てられる。
「あ!ノア、来てたんだ」
彼の姿を認めた45が、ぱしゃりと陸に上がって駆け寄ってくる。「どう?私の水着姿。似合ってるかな」
たくさんのフリルをあしらった、あざといデザインの水着だ。髪をかき上げながらこちらを窺う表情は自信と悪戯っぽさに満ちていて、つまりはこの所作の印象込みで計算して選んだ水着なのだろう。
「うん、似合ってる。可愛いよ」
「‥‥ダメだぁ。全然ドキドキしてないよこの人」
リベロールが濡れないように距離を取ってパラソルの陰に座り込みながら、45が腕をついて上目遣いですり寄ってくる。「もっと何かないの?ドキドキしない?」
そこに、銃撃戦を終えた416たちもやってくる。勝ち負けの基準は分からないが、各々の表情からして、おそらく416が勝者となったのだろう。
RFBが45の脇腹をつつく。
「だからー、指揮官にエロで攻めるのが無理ゲーなんだって。この人そこら辺の自制心半端ないもん」
「端からそんなつもりじゃないし。別にエッチじゃないでしょ。ねぇノア?」
「いや煽情的だとは思うけど‥‥?」
「――へ」
一瞬、45が驚愕の表情で固まった。その面が、じんわりと赤く染まっていく。
ノアが意外な光景に対する驚きの言葉を口にするより早く、416が水鉄砲をこめかみに押し付けてくる。「‥‥ノア‥‥?」
「ただの客観的事実だから!何でそんなに怒るの!」
タンクは空だというのに、なぜか頭を打ち抜かれそうな恐怖が襲ってきた。そんな場合ではないが、416もいい殺気を放つようになったものだと感心する。
「修羅場だ修羅場だー!コレはいいネタになるぞ~」
「よかったね45姉!」「うん‥‥」
「お、落ち着いて、ください、416」「リベロール、下がってて。危ないから」
「うぅん、何騒いでるのぉ‥‥?」「あ、G11が起きた」
人形たちに囲まれていると、その姦しさに目が回る。この喧騒は、彼が生きてきた過去300年の人生には無かったものだ。
けれどこの時間――片時でも人形たちが戦いを忘れて己の情緒に生きられるこの時間こそが、ノア=クランプスが手に入れたくて、そして守りたいもの。
彼が”猫の鼻”にやってきて、2つの季節が過ぎ去った。
やがて次の夏がやってくる頃にも、この子たちがまたこうして笑えますように。
ノアは心の中で、自分を見送った仲間たちに向かって願いを掛けた。
お久し振りです。ことまちです。
最近FANBOXを始めたりイラストのモチベーションが上がったりで、執筆が滞ってしまいました。すみません。
そのせいで水着回です。季節外れもいいところです。まぁいいか。
感想や高評価などお待ちしております。好きな動物の鳴き声でも構いません。