”猫の鼻”に限らず、軍事基地は敵に全容を把握されにくいよう、あえて複雑に造られている。
さらに”猫の鼻”では敷地内に様々な樹木を植えており、四季の巡りも色濃く現れる。在りし日の極東を思わせるその風情は、ここが軍事基地でさえなければC■■地区の観光名所として人々に知れ渡っていただろう。
今年の秋は例年より冷える。日が落ちれば、身震いするような気温が人形たちを宿舎へ追い立てる。出撃するときには、恒温モジュールを冬季標準に設定している人形も既に8割を超えた。
昔からこの季節は、ノアの心を浮つかせた。葉を落とし眠りに就こうとしているハクモクレンたちを頭上に眇めて、ノアは深く息を吸う。
冷たい水のような空気が、服と肌の隙間に流れ込んでくる感触が好きだった。
しかし近頃は、もう一つノアの足取りを軽くする要因がある。
人間職員用宿舎――その名に反して人間は一人もいない――の一室、ノアが使っている部屋のドアを開けようとして、ドアノブから手を放す。
「おかえりなさい」
ノアの気配を察し先んじて扉を開いたのは、副官にして第一強襲部隊のエース、HK416だ。
長い銀髪を後ろで一つに括り、非出撃時に着ている制服、KSKのプリントは紺のエプロンに隠れている。
「ただいま」とノアが応じると、彼女は橄欖石の目をきゅっと細めて微笑んだ。
「夕飯出来てるわよ。お風呂も溜めてあるけど、まずどっちにする?」
「え‥‥っと、じゃあ、ご飯で」
「わかったわ。それじゃあ用意するから、手を洗ってきて」
洗面所の蛇口を捻りながら、思わず呟きが漏れる。
「これじゃまるで新婚だな‥‥うーむ」
いつか404小隊の部屋でご相伴に預かったとき、45にからかわれたことを思い出した。いよいよあの言葉が現実味を帯びてきた気がする。
何しろここ一月ほど、416は404の宿舎に戻っていないのだ。
この事実は既に他の人形たちにも知れ渡っているところであり――主にMDRのせいだが――、近頃はアプローチを掛けてくる人形が少し減った気がする。
それは正直有難いのだが、それよりも四六時中自室に416がいる状況の方が困りものだ。
「わ、今日はアラビアータか。道理でいい匂いがすると思った。
いただきます」
「ふふ。明日も仕事だから、大蒜は少なめだけど。
召し上がれ」
夕食時にはテレビを点けなくなった。なんだかんだでこの二人はずっと他愛もない話を続けるので、点けていても意味が無いことに気が付いたのだ。
食後は少しゆっくりしてから、二人で並ぶには少し狭いキッチンへ。手分けして食器を洗う。
「今日も美味しかったよ」
「そう?よかった。鷹の爪を多くしたから、私には少し辛かったけど。
あ、袖降りてるわよ。捲ってあげる」
「だーんけ。
じゃあ、僕が作るときは辛さ控えめにしようかな」
「あら、ありがと。でも流石に明日じゃないわよね?」
「流石にね。明日は和食にする予定」
「いいわね。こないだ買った蒸籠を使うのかしら」
正解、といってノアは笑った。
広くはないと言っても身動きは取れる程度の空間。しかし、肩が触れ合う距離で手を動かしている。
わざと近寄っているのは、果たしてどちらなのだろう。
「狭くない?」
「まぁ、広くは無いわね」
「もし引っ越すとしたら、次はもっとキッチンが大きな家がいいな。対面の」
「――そうね」
口にして、しまったと思った。
この時間は幸せだ。同時に、この幸せには期限があることも分かっている。
夢を語れば語るほど、その遠さに呼吸が浅くなる気がした。
「週末には、UMP姉妹やG11を呼んでやろうかしら。
最近構え構えって五月蠅いし、コレ以上放置したらもっと鬱陶しくなりそうだから」
「ふふ、ソレは楽しそうだね」
だからこそ、自分が求めているものを相手も求めているという事実は、ノアを安心させる。
***
ノアの部屋――人間職員用宿舎の各部屋は、一人部屋だ。
そこに男女が二人で暮らすとなれば、当然浮上する問題がある。
そう――プライバシーである。
脱衣所にて。服を脱いで洗濯籠に放り込む瞬間、未だ見慣れないものが視界に映る。
ノアは咄嗟に目を背けたが、遅かった。
一瞬の視認で網膜に焼き付けられたのは――416の下着だった。
(最近はあの子くらいのサイズでも、可愛いのあるんだなぁ‥‥。
‥‥記憶を消したい‥‥)
***
今までは、午前5時頃に416が部屋へやって来て、ベッドに潜り込んでいた。
逆に言えば彼女が来るギリギリまで起きていても、彼女に気づかれる前に就寝すれば叱られなかったのだ。
それが今では、時計の針が11を指すが否や寝室へ追い立てられる。まだやりたいことがあるのにと申し立てようが、聞かん坊な子供を見る目で布団を掛けられてしまう。
「こら、ベッドでまで資料読まないの。観念して眠りなさい」
「頼むよ。僕が上がってから返信が来たから、まだ確認できてないんだ」
「‥‥仕方ないわね。私も見るわ」
肘をついてこちらの端末を覗き込んでくる。416の頭がノアの肩に乗り、長い髪がくすぐったい。
「あぁ、今度こっちに移送されてくる捕虜ね」
「そう。マホーレンって名前らしいけど、上級のNYTOだと思う」
「は!?そんな奴の受け入れを承諾したの?」
「先方からはただの捕虜としか言われてないしね。断る理由も特に見当たらないよ」
どうやら戦闘向きではないということも分かっている。医療技術や話術に通じ、パラデウスの窓口兼宣教師の役回りを担っていたらしい。
わざわざ”猫の鼻”に保護させるあたり、表向きは捕虜となっているがその実亡命なのかもしれない。
「また資料を盗み見たの?」
「S09の指揮官とか、僕に情報すっぱ抜かれてる前提で話進めるんだよね。
情報共有しなくても全部知ってるから楽なんだと」
「セキュリティの概念が死んでる‥‥PMCにあるまじき姿勢じゃない?」
「だよねぇ。もうちょっと自覚を持って情報を管理してほしいね」
「貴方が引き起こした事態なんだけど」
何も言えないので、微笑んで誤魔化しておく。「誤魔化されないわよ」
マホーレンがここに護送されてくるのは明後日。十中八九、彼女の身柄を狙う他NYTOが攻めてくるだろう。
「対NYTOの戦力として、僕も出るからね」
「‥‥まぁ、仕方ないわね」
「めっちゃ不服そうじゃん」
むくれた頬をつつくと、その手を掴まれた。両手でぎゅっと握り締められる。
「当たり前でしょ。貴方が戦場に立つ必要なんて、本当はないんだから」
「単純に相性の問題さ」
タブレットをサイドテーブルに置いて、仰向けになる。416も倣って姿勢を変えた。
真っ暗な天井を見上げて呟く。
「本来、吸血鬼は人類に対して絶対的優位を誇る。
鉄血や正規軍は機械だからそうでもないけど、NYTOがヒトに似せて作られている以上、連中の相手は僕が一番向いている。
それに、僕一人でどうにかするつもりもないし」
隣に視線を向けると、416は真剣な面持ちでノアをじっと見つめていた。
薄桃色の唇が動く。
「任せて。貴方の背中は私が守るから」
「うん。よろしくね」
ノアが小指を差し出すと、416も小指を絡めてくる。
指から伝わる微熱を感じながら、二人は目を閉じた。
「おやすみ、416」
「おやすみなさい、ノア」
お久し振りです。
拙者、416とノアには慎ましくも温かいイチャイチャ新婚生活を永遠に続けてほしい侍、義によって更新いたした。
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好きなポケモンの種族値でもいいです。