どうしても叶えたい願いの為にその気になる綾小路と、別にどうでもいい願いでなんとなくいるオリ主   作:a0o

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愛が・・・

 

 三月二十二日--試験当日。

 

 用意された部屋で対峙する坂柳有栖と綾小路清隆--向かい合う坂柳は笑みを浮かべ戦意高揚が伝わり、綾小路は一切の感情を読み取れないポーカーフェイス。

 

 試験一戦目、二人の対決種目はチェス。互いの得意分野であり、坂柳が綾小路といつか戦いたいと思い始めた競技。

 それが正式な勝負の場にて一対一で行われる--興奮が抑えきれず、鼓動が高まり、始まりの合図を今か今かと待ち遠しい。

 

「ついにこの時が来ましたね」

 

 坂柳の短いひと言--されど、込められた感情はただならぬ物を感じさせた。

 

「ああ、なんとも長かったな」

 

 対する綾小路は全てが無機質--裏返せばペースを一切崩さない姿勢とも取れ、坂柳有栖を喜ばせる。

 

『お二方。感慨に浸りたいのも分かるけど、試験なのを忘れないでね』

 

 スピーカーから一之瀬の声--それはAクラス対Ⅾクラスの裁定役の代表としての言葉。そのニュアンスには多分に呆れがある--いつも通りと言えばそれまでだが、今はそんな場面ではない。

 

 私情を挟んでいい訳が無いとの注意に当人たちは、

 

「ご心配なく」

 

「やるからには全力で勝ちに行くさ」

 

 非の打ち所がない程に息が合っている--だからこそ逆に信じ切れない。

 

 二人はお互いしか見ていない--いつも通りと言えばそれまでだが、一年の締めくくりを自分たちの物として扱われるのは裁定役でなくとも認められない。

 何より、クラスでの戦いだけでなく既に学校全体を巻き込んでの事態--坂柳有栖に関しては、より面倒を背負い込んだ当事者の一人。最低限の体裁ぐらいは保って貰わければ困る。

 綾小路にしても大切な幼馴染が困っているのだから格好つける演出でも見せて貰いたいのが一之瀬の感想。

 

 モニター越しで見ている各クラスも大一番が始まるにしては気の抜ける様相に余り好意的とは言えない--特にⅮクラスはそれが顕著。

 

「おいおい。ホントに大丈夫か?」

「情に曇ってワザと負けたりとか?」

 

「いやいや、そんなことしたら逆に嫌われるって」

「そうだよ。綾小路くんが一番嫌がってたじゃん」

 

「って言うか、寧ろそれならお嫁さんの方が?」

「うん。乙女心に引きずられてポカしたり」

「それかいっそ。旦那の為とか思って――――」

「有り得そう」

 

 心配から恋バナに変化して盛り上がっていく--緊張感を持てと言いたくなるのも居たが、同じくらいに気持ちも分かるので何も言わない。

 

 もっと言えば、話に混ざって更に盛り上がりたい--これもある種のジレンマか?

 

 そして音声が遮断、映像も二人から盤面のみ切り替わり、内外とも情報は入って来ない--されど、

 

「今現在の時点で盛り上がってるでしょうね」

 

「だろうな」

 

 外の様子が容易に想像出来てしまい、坂柳は満面の笑みを綾小路は満更でも無い表情で着席--向かい合って据わる二人の間にはチェス盤が置かれ、綾小路は白と黒のポーンを隠して両手に握り差し出した。

 

「右手で」

 

 開かれ現れたのは黒の駒。

 

「オレが先攻か。悪いな」

 

「いいえ。全く」

 

 言いながら坂柳から笑顔が消えた。

 

 求めているのは真剣勝負--牛井嬰児との戦いを超えた戦い。

 

 長い年月をかけての願いが、僅か一年足らずの出会いに負けるなど許せない。

 

(当然、彼も見ている--興味があるかは分かりませんが)

 

「有栖……今、嬰児の事を考えてたろ」

 

「……さあ、何のことでしょうか」

 

「そうか。なら余計な事は考えるな--オレだけを見ていればいい」

 

『ちょっと!サラッと惚気ないで!今から始めるんだよ!!』

 

 情報遮断の唯一の例外からスピーカー越しの見事な突っ込み--もし音声が繋がったままなら学校中が同じ事を言っていただろう。

 やはり真っ当に進むのかどうか不安--その思いは拭いきれない。

 したくもない確信を抱かされて、それでも自分だけは役割を全うしなければと気を取り直す。

 

「無論だ。始めてくれ」

「準備はとっくに出来ています」

 

『………………』

 

 そんな決意など全く無関係、どこ吹く風の如くの息の合った宣言にまた一之瀬は調子を狂わされる--しかしモチベーションが高まっているのは伝わったので水は差さない。

 

『んんっ』

 

 気を取り直す演出に緊張が高まり、二人の目--特に坂柳には戦意が表に出る。

 綾小路もそれに応えるように気を入れ直しす--本当に長かった待ちわびた時間。

 

『それじゃ。試験開始』

 

 宣言と共に綾小路は白のポーンをⅮ3--即座に坂柳は黒のポーンをE3に。

 

 ポーン、ナイト、ポーン、ビショップ、互いに駒を配置--中央を固め、相手の出方を窺う。

 

 様子見の序盤に僅かでもチェスをかじっている者達は面白味がない--プロ顔負けの高次元の対局を期待していたが、所詮は高校生か。

 

 それとも既に高速で思考が回転し見えない攻防が繰り広げられて--これからそれが見れるのか?

 

 そんな期待とは裏腹に淡々と駒を動かし陣形を変化--されど双方守りの一手の連続で攻めに転じる気が感じられない。

 

焦らして隙を生じさせよう言う戦略なのか--とも思ったが、

 

「攻めたくなるような隙を何故?」

「実は誘いの隙と言うやつでは?」

「いや、あの一手でのアドバンテージは明らか」

 

 立会人として対局を見ている生徒たち……ではなく回線を通して更に外側から見ている月城とその関係者達は納得がいかない。

 彼らは二人の経歴を知っており、この程度の実力である筈がなく最新のコンピュータを駆使してまで状況把握を務めようとも準備していた。

 にも拘らず実際は面白味どころか玄人には理解出来ない展開--何か企みがあるのかと勘繰る。

 

「あなたはどう思いますか?」

 

 月城が背後に目を向けて訊くと、ドゥデキャプルは微笑む--形式的には完全な部外者であるが、実際の立ち位置は上の存在。それも比較するのも馬鹿らしい程。

 

 だからこその問い。

 

 月城も十二大戦を知っており、その審判役である者ならプレイヤーたちの狙いや今後の予測も十二分に立てられると言う期待--それを読み切ってか、素なのか、しばし考えたポーズの後で割と真面目に見える態度で答えた。

 

「勝つ気がないかどうかはまだ分かりません。ただ、もしそうだと仮定しますとチェスと言うゲーム、この試験での特性上からして」

 

「引き分け狙いですか」

 

 チェスは引き分けが認められるゲームであり、代表的なのはチェックがかかっていない状態で動かせる駒が無くなる『ステイルメイト』。

 三度同じ駒の配置が現れる『スリーフォールドレペティション』。

 戦力不足によりチェックメイトが不可能な場合。

 一方が相手に対して引き分けを提案し、相手がそれを了承する両者合意による引き分け。

 

 そして今試験では引き分けは防衛側の勝利にカウントされる--消極的だが、大きな目で見れば悪くない狙い。

 

 となれば連合側は焦って攻めるとするのが妥当--そこを狙ってのものだとしたら、さっきの隙を逃したのは性質が悪く見えた。

 

 チェスに限らず戦いとは攻める方が有利--しかし引き分けも勝利とするルールは存外な枷。

 

 絶対にキングを取らなければならないのと、キングを取る必要が無いのとではまるで違う--残るは当人たちの気持ち(プライド)の問題だが、二人の勝負はあくまで学校の試験。

 

 純粋なチェスの勝負ではない。

 

 これを念頭に置くと中々に見応えのある勝負と言えなくもない。

 

 ただそこまで考察できるほどの者は早々居ない--単純に勝つことを思うと理解不能な一手の連続。

 

「おい。あそこで取っちまえばクイーンが行けるだろ」

「バカ。それをしたらナイトであっさり取られるだろ」

「浅はか--守りに穴が開いて一気に責め立てられて終わりよ」

「だな。キングが追い回されるのが目に浮かぶぜ」

 

 学生たちも我が物顔で二人の対局に見解を述べた--全くの素人なものから、遊び程度の経験と観客の談笑としては和やか。

 

 ただどちらにせよ面白味のない展開であることは変わらない--キングを取れば勝利である為、その周辺へ目が行き自分ならもう取りに行くか、それとも先を読んで確実に囲っていくのか?

 

 願望が錯綜するも当事者でない以上、予想した展開にはならない--文句や疑問符を浮かべ、狙いを考察するも次の一手で否定される進行に訳が分からないと頭を搔く。

 

 駆け引きの経験も乏しい彼らからすれば妥当な光景--だからか深い考察や理解があるかも知れない者への意見も求めたくなるのも必然。

 

「嬰児くんはどう思う?」

 

「悪いが、分からん」

 

 予想していなかった訳ではないが、期待は見事に肩透かし。元より外からの介入など不可能、やはり結果を持って判断するしかない--それでも形勢を正確に判断し、ヤキモキする状態から脱却したい心情は捨てられない。

 

「そう」

 

 期待に応えられなかった--別に嬰児に落ち度がある訳ではないが、他にも実のある解説を聞けると思い聞き耳を立てていたクラスメイトたちの心は釈然としない。

 

 それが面白くないか、それともまだまだ機嫌が悪いのか嬰児からも質問が出る。

 

「堀北は分かるか?」

 

 

 

 ***

 

 

「いいえ。私もチェスは簡単なルールくらいしか知らないわ」

 

「そうか」

 

 そのまま分からないなりに画面を見てるが、白黒の駒が動く意味は何ひとつ汲み取れない。

 

 当人たちには凄まじい駆け引きや先の読み合いが展開されてるんだろうが素人にはさっぱりだ。

 

 分からない所で事が進むか--どうしても戦場がよぎる。

 

 上の命令、匙加減で生死を分かたれ明日の運命が決められる--いや現実には主導した立場でも知らない所からの介入で一気に…………。

 

 って何をセンチになってる--これは戦争じゃない。

 

 分かってはいるんだが……こんな気持ちにさせることも目的なら効果的面だぞ。気が昂るのを強引に抑え込む。

 

 少しだが気を落ち着けると、それとなく俺を見てる櫛田に気付く--拭いきることの出来ない恐怖がぶり返したのは察するが、それを己が欲の為に我慢してるか。

 

 立派だと褒めてやれば、気も和らぐか?それとも深読みして悪化するか?

 

 いやそれよりも気になるのは別にある。

 

 周囲の気配を探るが()の気配はない--別室にでも居るのか、そもそも来てないのか?

 

「嬰児くん。気分が優れないなら無理に見てる必要は――――」

 

「気遣いは有り難いが大丈夫だ」

 

「おい!折角鈴音が――――」

 

「須藤くん。話を遮らないで」

 

 柔らかく言ってるが、邪魔するなら許さんと顔に書いてあるぞ--それで何が言いたい?

 

 須藤が渋々引き下がって改めてそんな顔を向けられる。

 

「綾小路くんが負けると思ってる?」

 

「いいや。そもそも勝敗なんて考えてもない--ただ、そうだな。独立を勝ち取る名目なら負けることは許されない」

 

 いやこれも『申』の意図したことからして違うか--目的はあくまで不毛な戦いを停めて和平に持って行くこと。

 

 …………これを念頭に置くと、あの二人が戦ってるのは何の皮肉かと思ってしまうな。

 

 互いを思ってどちらとも譲る--建前はあっても現実にはあり得ない。

 

 だけどそれこそが『申』が求めていた理想--みんなで仲良くしたい、みんなで幸せになりたい。

 

 現実にぶち壊した『亥』でさえ嫌いにならなかった綺麗事--改めて完全にぶち壊した戦犯共に苛立ちが湧く。

 

「安い言葉だけど、戦いは悲惨ね」

 

 何を取り違えたか、同情された。

 

「本当にな」

 

 安い--苛立ちを通り越して眩暈がする程に。

 

 ちなみにそっちはどんな感じななんだ?

 

 思いっきり楽しんでたりしてるのか、それとも逆に不満を募らせたりとか?

 

 特に綾小路はまた余計なこと言ったり思ったりして、お嫁さんの機嫌を損ねてそうなのも十二分に有り得る--巡り巡って俺の方に来なきゃいいが。

 

 

 ***

 

 

 外側の思惑や感想とは関係なく坂柳と綾小路(プレーヤーたち)は互いの駒を縦横無尽に放つ--素人目には手堅く、時に隙が生じたと思う場面も多々出た。

 

 ここでクイーンを取りに行けば俄然、有利。

 

 されどそれをやれば駒の取り合いが始まる--ひとつ間違えれば、等と言うレベルではない。

 相手を上回る一手を出し続けなければ戦力を全て失う--最悪は負け、よくてステイルメイト。

 

 大人たちの見立て通り、意地の悪い狙いが透けて見える--単純に楽しみたい側としては腹が立つが、勝利に対しては甘い。

 

 己が有利を活かすのは戦いの鉄則--同時に相手の弱点を徹底的に突くのも。

 

 通常の対局でも心理戦による揺さぶりは当たり前--何十手先まで読み切る戦いなら、戦意を乱し悪手を指させるのは常。

 

 尚更、冷静にまた心理を読まれないように努めなければならない--そんな心理的負荷(プレッシャー)も感じ、それは時に戦意高揚にも転じる。

 

 そしてこの二人に関しては、それは直ぐに伝わった。

 

(楽しそうで何よりだ。有栖)

 

(ええ、やはり清隆くんは凄い)

 

 だからこそ倒し甲斐がある--お互いに見たかった、辿り着きたかった場面に快感が高まっていく。

 

 ただ、だからこそ詰まらない、不完全燃焼で終わらせるなど勿体ない--正と負の両方の感情が極限まで高まりで生涯最大で思考が回転。

 

 誰もが予想してなかった一手に静寂が訪れた。

 

 息を吞み、冷や汗をかく--ただ単に二人だけの勝負ならあったかも知れない。

 

(嬰児との戦いを先にしたのは良かったのか、悪かったのか)

 

 綾小路清隆にして人生最大の戦い--比較対象との差に感情の動きが鈍い。

 

 坂柳有栖は優秀、チェスの腕前もプロと遜色なし--今まで対局してきた誰よりも強い。

 

 ただ今まで戦って(・・・)きた相手、完全勝利したい敵と比べると。

 

 急速に冷えていく心に思わず口が出た。

 

「有栖。これが終わったらオレに望むものはあるか?」

 

「……いいえ。貴方との最高の戦い以外はありません」

 

 それを感じ取った坂柳のニュアンスは鋭く不快--二人の思い出に土足で踏み入られた気分。

 

「そうか。気に障ったか、失礼した」

 

「何ひとつ誠意がないです」

 

「ああ、だからその感情をストレートにぶつけないか?」

 

「なんですか、それ?」

 

「オレと一緒に嬰児と戦ってくれ--協力して奴とその背後も倒そう」

 

 予想通りの申し出に不快感が増していく--単純に言えば怒りで顔が赤い。

 

 これもまた心理戦かと思い直そうとして、出来る訳がなかった。

 

 綾小路は冷めた目で白のクイーンを取り、次の一手を。

 

「!!?」

 

 坂柳は驚愕に目を見開く。

 

 これを取れば勝てる--しかし示すのは勝ちを譲るからと言う情けにも似たもの。

 

 坂柳有栖のプライドが許せるものでは無い--その程度の事を分からないほど鈍感な男ではないの知っている。

 

 つまりは、

 

(オレの申し出を受けろ。その為なら、こんな所での勝ちなどいらん--そしてお前もプライドを捨ててオレの為に戦ってくれ)

 

 そんな挑発を受けた--と受け取り、怒りに続いて悔しさで顔どころか全身が赤くなっていく。

 

(ズルいですよ)

 

 男のプライドの為に乙女心を利用し、長年の悲願に泥を塗る締めにするとは。

 

 どうにかなりそうな頭は殺意を生み出す…………ことはなかった。

 

 どんな毒が心に駆け巡っても、綾小路清隆を嫌いになれない。

 

 本当に性質の悪い一手。

 

 ならばせめて対局に集中しようと盤面に目を落とす--このクイーンを取れば、もう坂柳の勝ちは確定。

 

 しかしそれは勝ち取ったのでなく譲って貰っただけ--そんな真似しなくとも申し出自体は検討する(?)のに。

 

 いや、この心情を見越してのものなら番外戦術での一手--屈辱に負けて逃せば、この試験は綾小路の勝ち。

 

 なんとかギリギリの所で思考を保っているが、昂っていただけに一度湧いた感情を消し去るまでは出来ない--増してや持ち時間と言う制限まである。

 

(一体どちらが本心なのですか?)

 

 流石に分からならくなって来てしまい訊いてみたいが、まともに答えてくれる訳がない。

 

 それでも容赦なく時間は過ぎて行く。

 

 置時計を見ながらの考え事は更にストレスを増す--全てが坂柳の敵になっている状況。

 

 そう、敵--坂柳有栖にとって最大の敵は、牛井嬰児。

 

 あの男が居なければ--と明確な恨みの対象が定まり、僅かながら思考を纏める一助に。

 

 そして決断し、黒の駒を手に取った--どこに指すか、今度は綾小路清隆が注目する。

 

(オレの申し出を受けて勝ちに来るか--それとも断って勝ちを捨てるか?)

 

 流石に坂柳有栖がどんな決断をするかまでは分からない--それもまた面白いと、遊び心も込めた一手。

 負の感情にコロコロと表情を変えるお嫁さん(さかやなぎ)を見ているのも愉しい--言えば必ず激昂するし、悟られないようポーカーフェイスを徹底的にするが、

 

(やっぱりもう少し見ていたかったな)

 

 無意識に湧いて来る感情--今までにない本心は新鮮。

 

 そして決着の時。

 

 黒のルークが白のクイーンを取った--坂柳がプライドよりも恋を選んだ瞬間。

 

 綾小路は試合には負けた--しかし勝負には勝った。

 

 それは客観的に見ればクラスへの裏切りだが敵になる事など、ずっと前から考えていたこと--糾弾を受けても言い訳はたつが、そんな真似をするつもりはない。

 

 普通の高校生としての青春を全うするのが全てだった。

 

人生の目標と肩を並べて同じ道を歩んでくれる伴侶(パートナー)--想像もしていなかったものを得られたのは誤算。

 

 ある意味で不覚の極みだったが、こんなにも嬉しいと言う気持ちを知ることが出来た--有り体に言って幸せと言うものを実感した。

 

 

 

 と、心の冷めた部分が言っている。

 

(オレは今、どんな顔してるんだろうな?)

 

 坂柳有栖は不満顔で言う。

 

「物凄く冷めた顔ですが、私に勝った程度では満足出来ませんか?」

 

「そうか。オレはそんな顔してるのか……なら、まだまだ得られるものがありそうだ」

 

「そうですか……それじゃ、お昼にしましょう。勿論、清隆くんの奢りで」

 

「いや、有栖の方がポイント持ってるだろ」

 

「もう!こう言う時は任せろと見栄を張るのが殿方の嗜みです」

 

「それは初耳だ--そうなるとオレは、ヒモって奴か?」

 

「胸張って言わないで下さい!」

 

 やはりコロコロと表情を変えて行くのは見応えがあり、出来ればもう少し続けたいが、

 

(これ以上は止しておくか……)

 

『あのさ。貴方たち何時でも何処でもイチャつくのは直した方がいいよ--と言うか、良かったね。聞いてるのは私だけで』

 

 ずっと聞かされていた一之瀬の声は辟易としていた--対局中の会話も然り。

 

 そして幸か不幸か、外のモニターに映るのは盤面だけなので二人の遣り取りは誰も知らない--チェスに明るくないのもそうでないのも綾小路が勝負を放棄したとは分かる者は居ない。

 

 居るとすれば、それは常識ではありえない手段の持ち主--牛井嬰児ならばと、綾小路はそれとなく部屋を見渡す。

 

(ずっと聞いてるか、聞いてなくても知る手段はあるのか?訊ねてみる価値はあるか?)

 

「彼もお食事に誘うつもりですか?」

 

「いや、別に、そこまでは思ってないが」

 

「だったら早く行きましょう--色々と考え過ぎて、お腹空いちゃいました」

 

 綾小路の腕を引っ張って催促する姿は愛らしく、引っ張られた当人としては困る仕種はするものの悪い気もしない。

 

 と言うか、もっと突き詰めてみたい--そんな悪戯心が無意識に湧いて来る。

 

「そう言うことなら、また堀北か軽井沢に何か作って貰うか?」

 

「…………清隆くん。それ以上は本気で怒りますよ」

 

 出来ればもっと色んな顔を見てみたい--そう言いたかったが、どうにか呑み込む。

 

「……何を思いました?」

 

 ジト目が重くなり、またもや珍しく貴重な体験に何も言えない……状態を続ける訳にもいかないので無理矢理に口を開く。

 

「んん。ランチは何がいいかなとな」

 

「嘘が下手ですね」

 

「本音だ。極上のおかずに合うメニューを思案しててな」

 

「訳が分かりません--そして分からないままがいいと直感が言ってるんですが」

 

「正しい判断だ」

 

「むぅ」

 

 憚らず痴話喧嘩(イチャイチャ)しながら部屋を出る--そこには月城が居る場合は想定していたのだが、

 

「どうも、はじめまして--中々に見応えのある勝負でした」

 

 見たことない初老の男性--見るからに教師とも職員でもない紳士風な服装とお辞儀に意表を突かれた。

 

 

 

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