2008年7月某日
薄い雲に遮られ月明りもまばらな夜、都会でも田舎でもない日本の地方都市の狭い路地裏で彼女は足元を見降ろしていた。美しく整った顔に表情はなく、サイドテールの青みがかった長い黒髪が風に揺れ、眼鏡の奥の黒い眼が足元にあるものを見つめていた。
彼女の足元にはーー 死体
初老の身なりのいい外国人男性……外傷はなく、争った様子もない。酔っぱらって路上で寝ていると言われても信じられるような穏やかな表情だ。彼女は死体の鞄から小さな包みを抜き取り呟く。
「あなたのと
包みを懐にしまうと彼女は何事も無かったかのように夜の街へ溶けていった。
7月18日 S県立
連休前の放課後、浮足立つ生徒を横目に男子生徒が教室の掃除をしている。この年頃の男子なら掃除など適当に終わらせてしまうことも多いが、少年はまじめに取り組んでいた。同級生の平均より少し細身で色白、赤みがかった瞳が目立つ。
明らかに軽薄そうな女生徒が彼に声をかける。
「
一方的にそう告げると返事も聞かず女生徒は彼氏と思われる生徒のもとへ駆けて行った。
これまた軽薄そうな彼氏が彼女に聞く。
「おう、早かったじゃん、日直だったんだろ?」
「会津が全部やってくれるってさ! 明日から夏休みなのに日直とかやってらんないっしょ!」
女生徒は悪びれもせず答える。
一方、仕事を押し付けられた男子生徒 会津和希は不満な顔をせず黙々と作業を続けていた。彼は人の役に立つことを信条としている。それは彼が幼いころに死別した両親の教えによるものである。
『人のためになるように全力で行動しなさい』
優しかった両親が唯一和希に固く言い聞かせた言葉である。和希自身、それは正しいことだと思っており、彼は他人のために生きてきた。先ほどの様に利用されることもあるが周りからの評判も良く、平凡だが穏やかな毎日を過ごしている。
夜、和希は家の近くの運動公園を歩いている。そこは彼がよく買い物をする商店街と自宅との間にあり、かなりの広さのある緑の敷地は昼間、市民の憩いの場となっている。
「すっかり遅くなっちゃったな……」
夏休み前ということもあり、教師に頼まれごとをされ帰宅が遅くなってしまった。両親が遺した屋敷に一人暮らしの和希を咎める者は居ないが、真面目な性格ゆえに夜間の外出は何となく居心地悪く感じていた。
歩きなれている公園に和希は違和感を覚えた。夜の公園は暗い場所が多く普段から人は少ないが、今日は不自然なほど人が居ない。ランニングをする人やベンチで語らうカップルなどの姿がまったく見えない。そういうこともあるだろうと自分を無理やり納得させて歩く和希の耳に、聞きなれない音が聞こえた。無人の公園の静寂を切り裂くように金属と金属の激しくぶつかり合う甲高い音が少し離れた場所から何度も響いている。
奇妙な音に耳を傾けていると大きな炸裂音に襲われた。本能的に身がすくみ危険を感じる音だった。
「銃声?」
ドラマやアニメでしか聞いたことないが……和希は恐る恐る銃声の方へ近づいていった。彼は善良であった。先ほどの銃声と、今も聞こえる金属音が何かの事件に関わっているなら通報しなければならない。誰かが襲われているなら自分が声を出すことで救えるかもしれない。そんな事を考えながらたどり着いた先には現実感の薄い光景が広がっていた。
金属音の正体は剣と剣がぶつかり合う音だった。
「コスプレ? 映画か何かの撮影か?」
和希がそう呟くのも無理は無かった。今まさに戦っている二人は明らかに現代の日本ではありえない姿をしていた。
片方の男は銃士の恰好をしている。赤と青という派手な色の服に目立つ羽根の付いた帽子、片手にサーベル、片手にマスケット銃という出で立ちの茶髪碧眼の美青年。
もう一人は全身黒ずくめであった。真っ黒い服にマント、大きな黒いハットを被っている。顔はなぜか黒くぼやけており窺うことができないが、体格からして恐らく成人男性だろう。こちらも片手にサーベルを持っている。
二人から少し離れたところで高校生くらいの少女が立ち、戦いを見守っている。彼女はだぼついた紫のパーカーと赤いチェックのミニスカートを着ており、銀色に美しく輝くアシンメトリーショートボブで左目を隠している。少し陰気そうな独特の雰囲気がある美少女だが、明らかに現代離れしている二人に比べればあまりに普通の少女に見える。
剣を持った二人は激しく打ち合っているが銃士の美青年が明らかに優勢だった。一撃、また一撃と黒ずくめを追い詰めている。剣撃を避けるため男が後ろに大きく飛びのいた瞬間を銃士は見逃さず左手に持ったマスケット銃の引き金を引いた。炸裂音と共に撃ちだされた銃弾は黒ずくめの左肩を貫いた。
あまりに現実離れした光景に茫然としていた和希だったが、銃弾が近くに着弾したことで我に返り思わず悲鳴を上げてしまった。
「ひっ!」
その声に反応し、三人が和希の方を向く。銀髪の少女が驚いた顔をして声を出した。
「見られた! 人払いはかけていたはず……」
次に反応したのは黒ずくめだった。撃ち抜かれた肩を気にすることも無く一直線に和希の方へ走ってくる。表情はわからないが殺気を放っていることはわかった。和希は生まれてはじめて明確に向けられた殺意にあてられ一歩も動けない。
それを見た銃士がマスケット銃で黒ずくめの胸を撃つ。男は勢いよく倒れると動かなくなった。
少女が銃士に声をかける。
「アーチャー、もういいよ……」
銃士が答える。
「
「ただの一般人……襲われたのにサーヴァントが助けに来る気配も戦う姿勢も無かった。人払いを抜けたのは気になるけど放っておいて大丈夫だと思う……」
そう伝えると人気のない方へ銃士共々消えていった。
状況をまったく飲み込めていない和希だったが、目の前に倒れている黒ずくめを何とかしようと、警察と救急に電話するため携帯電話を取り出すのとほぼ同時……
それはにわかには信じられない光景であった。和希が見ているだけでも肩と胸を撃たれている。とくに胸は素人目に見ても致命傷のはずだった。しかし目の前の黒い影は血の一滴も流さずにずるり、ずるりと立ち上がり黒くぼやけた顔を和希に向けた。表情は読めないが相変わらず明確に敵意を持っていると感じられた。そしてサーベルを振り上げゆっくりと近づいてくる。
一歩一歩迫る死の気配に精一杯の勇気で抵抗する。和希は走り出した。さっきの二人と会えたら助けてくれるだろうか? 警察に逃げ込んだら助かるだろうか? 実はこれは夢なんじゃないだろうか? 色々なことを考えながらも具体的な行先は無く走る。
この短時間で傷が癒えているのだろうか。黒ずくめの追いかける速度が徐々に上がっている。この調子ではすぐに追いつかれ、手にした凶刃で切りつけられてしまうだろう。
***************
「このコロッケを挟んだパン、おいしいわね」
嬉しそうに美しい黒い目を細めながらコロッケパンをかじり彼女は笑う。彼女はビコ。長い青黒の髪をサイドテールにして揺らしている。歳は20歳前後といったところだろうか。ビコの隣には長身痩躯の美青年が立っている。真夏だというのにインバネスコートを羽織っているが汗1つ流さず、上等なステッキを持っている姿は英国紳士のイメージ通りのような佇まいだ。
紳士は呆れたようにビコに話しかける。
「マスターの目的のため、街の人々に声をかけるのはわかるが……少々寄り道が過ぎると思うのだが」
「いいのよ、これで。残りのパンは座って食べたいわね、あっちの公園のベンチで食べましょう」
ビコはのんびりと答えると運動公園に向かって歩き出した。公園の入り口に差し掛かったところで足を止める。
「ほとんど消えかかってるけど人払いの術式がかけてある……サーヴァント同士の戦いかしら……」
ビコは先ほどまでの余裕を消し、神経を集中する。
「向こうに人の気配がする! 行くわよ、キャスター」
気配のする方へ向かうと、サーベルを持った黒マントが少年を追いかけていた。
和希は人影に気づいた。若い女性と英国風の紳士という妙な組み合わせだがそれどころではない。今まさに殺されようとしているのだから……和希は精一杯叫んだ。心の底から出た叫びが静寂の公園に木霊する。
「逃げろ!」
少年は一瞬で判断した。後ろから追いかけてくる狂人は自分の次にあの二人を襲うだろう。彼女たちを危険にさらすわけにはいかない。半ば諦めたような気持で足を止め、震える足を無理やり動かし黒ずくめの方へ向き直った。ヒーローになりたかったわけでもない。かっこつけたかったわけでもない。ただ他人のために行動するという信念に則った行動だった。
サーベルの鋭い切っ先が真っすぐに迫ってくる。一瞬の後、串刺しになるだろう。そう和希が覚悟した刹那、黒ずくめは後方に数メートルほど吹き飛んでいた。和希の眼前には先ほどの英国紳士が涼しい顔をして立っている。
「マスター、この弱さはサーヴァントではない、使い魔か何かだろう」
ビコがサイドテールを揺らしながら追いつく。
「あ、ありがとうございます……」
目の前で起こったことを理解しきれないまま和希は反射的に礼を言う。しかしすぐに黒ずくめの異常性を思い出し忠告した。
「そうだ! アイツはすぐにまた襲ってきます! さっきも変な恰好をした外国人に撃たれたのにすぐ立ち上がって襲ってきたんです!」
「すでにサーヴァントと交戦していたのか、撃たれたということは恐らくアーチャーだろう」
冷静に分析するキャスターにビコが告げる。
「そういうことならキッチリ消しておきましょう、キャスター、お願い」
「あまり荒事は得意ではないのだが……あの程度なら問題ないか」
そう言って黒ずくめを一瞥するとキャスターは胸の前で両手の指先を合わせた。キャスターのコルセットから6本の細い真鍮製の腕が伸びる。鈍く輝くそれの先にはレンズが付いており、さながら6本の自在に動く虫眼鏡だ。チキチキとせわしなく動く虫眼鏡たちのレンズが黒ずくめの方へ集中すると、レンズから放たれた青白い光の奔流が黒ずくめを照らす。その瞬間、黒ずくめの敵意に満ちた姿を跡形もなく消し去った。
「おつかれさま、キャスター」
ビコはそうねぎらいの言葉をかけると和希を下から上へ観察し、決意を込めた眼差しで和希の赤い瞳を見つめて言った。
「世界のため、私に協力してくれませんか?」
普通に考えたらおおよそありえないセリフを大真面目に言い放った。和希は感じ取る、彼女は決して冗談でこんなバカげたことを言っているのではないと。人の頼みに答えるのが信条の彼だが、さすがに理性がブレーキをかけてしまう。
「世界のため……ですか? スケールが大きすぎてよくわからないんですけど……具体的には何をするんですか?」
当然の疑問にビコは答える。
「私たちは聖杯戦争と呼ばれる戦いをしています。あなたにも参加してもらって、勝ち抜いて欲しいんです。ちなみにさっきの黒ずくめ、それと戦ってた外国人ってのも参加者だと思います」
「聖杯……戦争?」
疑問がさらに増えていく。
「詳しい話はここじゃまずいです。誰かに聞かれるかもしれないし、黒ずくめを仕掛けた本人が来るかもしれません、あなた、このあたりの高校の制服を着ているということは近くに住んでいますよね? お邪魔してもいいですか?」
話を聞かないことには始まらない、と気持ちを前向きに切り替えた和希はにこやかに答える。
「ええ、助けてもらったお礼もしたいですし、ウチに来てください。俺は会津和希です」
「私のことはビコと呼んでください。こっちのはキャスター」
歩いて数分、運動公園を抜け、住宅街から離れた林の先に会津和希の住む屋敷が立っている。外観は古いが立派なレンガづくりで、2階建ての洋館だ。キャスターが珍し気に口を開く。
「これは……レプリカではないな、1900年代初頭の建築様式だ。文化財とはいかぬとも観光地くらいにはなるんじゃないか」
予想外の屋敷の登場にビコは感心する。
「なかなか良いところに住んでいるんですね、もしかしてお坊ちゃんですか?」
和希は否定する。
「古いだけですよ詳しいことは知りませんが、もともと明治ごろに外国の資産家か何かが住むために作った家を曾祖父が譲り受けたらしいです。残念ながら俺は貧乏ですよ。今日もスーパーで値引きされたものを選んで買ってきました。さっきのでほとんどダメになっちゃいましたけど……」
和希が自嘲気味に笑う。
「あら、そうなんですね。ところで、今更だけどこんな夜にお邪魔して大丈夫ですか? 親御さんに詮索されるのはちょっとまずいのですが……」
「両親は俺が小学生の時に亡くなりました、今は一人暮らしなんで気にせず上がってください」
「ごめんなさいね……」
「気にしないでください、お茶を持ってきます、座っててください。」
そういうと和希はエアコンの電源を入れ、居間を出てキッチンへ向かう。残されたビコはソファーに座り、キャスターは調度品を眺めながら歩き回っている。和希は貧乏だと言ったものの、歴史を感じるアンティーク類が部屋に置かれている。ビコがキャスターに話しかける。
「良い趣味の家具がそろってるわよね、この木のテーブルとか好きだわ」
「ああ……ところで、マスターは彼を協力者に選ぶのかい?」
「ええ、あの状況で自分を犠牲にして私たちを逃がそうとした……その自己犠牲の心を信じたいの」
キャスターは考えを巡らせながら答える。
「マスターの判断に異論はないよ。だがあの少年には何かが引っかかる」
ビコが眉をひそめる。
「どういうこと?」
「いや、今はまだ言うべきじゃない……推理はあるが披露するには根拠に乏しいものでね。だがあの少年が善良だというのには同意しよう」
ビコは半ばあきらめたように吐き捨てる
「またそれ? まあいいわ」
二人がそんな会話をしているうちに、和希が冷えた緑茶の入ったポットと氷の入ったコップを持ってきた。
「すいません、来客のための用意が無くて……」
謝りながら鮮やかな緑色のお茶をコップに注ぐ。カランカランと氷が小気味良い音をたてる。
「あらきれい、この辺りの名物なんですよね」
和希が嬉しそうに答える。
「ええ、色だけじゃなく味もいいですよ。どうぞ」
「ふむ、いい香りと味だ。私はコーヒー派だがたまには
キャスターが茶の感想を言った後、ビコが切り出した。
緊張した面持ちの和希をよそに、ビコは話しはじめる。
「まずは聖杯戦争とは何かを説明します。どんな願いでもかなえるという"聖杯"を奪い合い、7人のマスターと、彼らと契約した7騎のサーヴァントで争う事を聖杯戦争と呼びます」
ビコの言葉に集中していた和希が一瞬安堵する。
「戦争なんていうから軍隊レベルの戦いかと思ったけど、7人だけで戦うんですね。良かった、御島がめちゃくちゃになるかと思ってましたよ」
ビコは一瞬眉を動かし、険しい表情を作り反論する。
「聖杯戦争は甘くない、この街が焼け野原になる可能性は十分にあります。冬木大災害は知っていますね? あれは聖杯戦争の影響で起きたものです。さらに最悪なことに、今回この街で行われる聖杯戦争はとある事情から、大惨事に繋がる可能性が高いです」
和希は事の重大さに青ざめる。
「そんな……なんとかすることはできないんですか! なんでですか!」
「落ち着いて、これから話します。まず、あなたにやって欲しい事ですが、あなたにはマスターの一人としてサーヴァントを召喚し、聖杯戦争を戦ってもらいたいんです。はっきり言って死ぬ危険性が高い。もっと言えばあなたに見返りはなにもない。私の目的が聖杯の破壊だからです。あなたには断る権利があります、こんなの最初から取引ではなく、あなたの善意につけ込んだ提案なんです」
ビコは申し訳なさそうに説明した。和希は難しい顔をしながら考えを巡らせる……実際にはさほど長くない沈黙がビコにはとても長く長く思えた。
和希が口を開く。
「ぜひ協力させてください! でも、見返りなしに命を捨てられそうだって理由で頼まれたのは分かったんですけど、考えてもわからないのが、俺は魔術師じゃないんでサーヴァントは召喚できないと思うんです……」
心底意外そうな顔をしたビコだったが、嬉しそうに伝える。
「ありがとう! 正直言って提案を請けてくれると思ってなかった……でも間違えないでください、命を捨てるなんて言わないで。命懸けになりますが、あなたも私も生き残るために戦うんです。それと、あなたが魔術師でなくても問題ない理由ですが、それが今回の聖杯戦争が特殊な理由です。これまで冬木で行われていた聖杯戦争は一応ちゃんとした監督役がいてルールがあり、主催者がいる儀式だった。でも今回は違う、冬木の聖杯の残骸がこの国最大級の龍脈である富士山に流れ着き、勝手に発現した歪んだ聖杯を求めて争う聖杯戦争なんです。そして、その聖杯がこの辺り全域に無尽蔵に魔力を垂れ流すおかげで、本来魔術師しか呼べないサーヴァントを一般人でも召喚できます」
和希がさらに疑問を問いかける。
「魔力が流れていても問題ないんですか? あと冬木の教会とか主催者の人は助けてくれないんですか?」
「答えはどちらもNOです、魔力の流出はすぐには問題ないけれど、いつどんな影響が出るか分からない。教会はだんまり、御三家と呼ばれた主催者は聖杯のことを諦めたから参加はしていないはずです。要するに見捨てられたんですよ、歪んだ聖杯とこの街は……そんな聖杯に群がる魔術師なんてろくな人間じゃない。結局のところ、聖杯は私たちでなんとかするしかないんですよ」
ビコの説明に合点がいった和希は改めて申し出る。彼の赤い瞳は決意に満ちていた。
「分かりました。俺が協力することで救われる人がいるなら……聖杯戦争で戦います」
ビコは整った顔をほころばせながら右手を出す。
「そうと決まれば私達はパートナーよ、面倒な敬語も抜き、よろしくね、和希君!」
和希は緊張しながらその手を握ると、同時に責任の重さを噛みしめる。
「よろしく、ビコさん」
和希にとってついさっきまでは想像もしなかった展開、世界の命運がこの二人の手に懸かっているのを自覚した。
「さて、そしたらさっそくサーヴァントを召喚しましょう。ここでやるのもなんだし……このお屋敷に地下室はある?」
「使ってないワインセラーが地下にあるよ」
会話をしながら地下に移動した三人、和希が最低限の手入れをしているとはいえ薄暗く陰気でジメっとした空間だ。その部屋を見渡したビコは満足そうに言う。
「結構いいじゃない、なんならここに魔術工房を構えようかしら。ねえキャスター」
話しかけられたキャスターは一瞬間をおいて答える。
「そうだな……少なくとも今のホテルよりはよっぽど優れている」
テキパキと地下室の床に陣を敷いていくビコ、キャスターは手伝わずに辺りをぶらついている。和希が尋ねる。
「そういえばキャスターさんの本当の名前は教えてもらえないんですか?」
ビコが答える。
「真名は聖杯戦争において非常に重要な情報なの、たとえば真名があの有名なアキレウスって分かったらみんなアキレス腱を攻撃するでしょ? 和希君を信用してないわけじゃないけど、自白の魔術とか、拷問とかにかけられた場合お互いに厄介だから秘密にさせて」
そうこうしている間に陣が敷き終わり、ビコは紙に召喚の呪文を書く。そして小さな包みを取り出した。
「これで準備完了、あとはこの包みを持って、この紙に書いてある呪文を唱えればサーヴァントが召喚できる」
早速召喚を、と思ったそのとき、和希の腹が小さく鳴った。一気に緊張感が薄れ、ビコは小さく笑いをこぼし和希は謝った。
「す、すいませんこんな時に……昼からずっと動いてたのになにも食べてなくて……」
ビコは笑いながら言った。
「あなた大物になるわ、ここまで準備しておいてだけど、続きは明日にしましょう。私も疲れたし、明日、ホテルに置いてある荷物も持ってきてより万全の儀式を行った方が良いかも。そうだ! さっきの戦いで夕飯ダメになっちゃったんでしょ? 冷めちゃったけどこれあげるわ、お近づきの印」
そう言って鞄からコロッケパンを差し出す。
「あ、商店街のコロッケパン! よく食べます。すいません、そういうことなら儀式は明日に持ち越しで」
和希はホッとしたようにパンを受け取る。実際緊張の連続で本人も気づかないうちに消耗していたのだろう。ドッと疲れがのしかかる。
「それじゃあ明日の朝に迎えにくるわ、これ私の携帯番号、和希くんのも教えて」
連絡先を交換すると、ビコとキャスターは和希に見送られ屋敷を後にした。
宿泊しているホテルに向かって歩く二人、月明りは雲に遮られ薄暗い。キャスターが口を開く。
「あの少年の家、とくに地下室に魔術の痕跡があった。巧妙に隠蔽されてはいたが、恐らく10年ほど前まであの屋敷は魔術工房として機能していたはずだ」
ビコは驚く。
「彼が魔術師の家系ってこと? それなら尚更都合がいいじゃない。今回の聖杯戦争は一般人でもマスターになれるとはいえ、魔術の素養があれば有利なのは事実、これはツキが向いてきたわ!」
「そううまくいくと良いのだが……」
キャスターは含みのある言い方をしながらゆっくりと振り向く。
「君たちもそうは思わないか?」
キャスターの視線の先、10メートルほど離れた場所に、目を見張るほど美しい黒髪の女性と、金髪で褐色の肌色をした小太りの中年男性が立っていた。男は本能的に人を苛つかせるような笑みを浮かべながら言った。
「お早いお気づきで、ムッシュ、早速ですがあなた方には死んでもらう。女の方は泣いて許しを請えば飼ってやらんこともないがな! やれ、ライダー!」
ライダーと呼ばれた女は不機嫌そうに答える。
「ワタシに命令するなって言ったでしょ! そもそもなにカッコつけてんの? 買い物に付き合わせてやったらたまたまサーヴァントに遭遇しただけのくせに!」
「チッ、いいから頼む、こんな序盤で令呪を使わせるな、お前なら簡単だろ?」
そう言われて渋々ビコたちの方を見るライダー、すべてを魅了するような美しい黒い瞳をしている。艶やかな長い黒髪を、7月のぬるい風になびかせながら言った。
「そういうわけだから、さっさと消えて」