鬼の少女
見送りもなく大和を出たキビツヒコ一行は、湿った杉の匂いが濃く立ち込める山道を、黙々と下っていた。
先頭を歩くキビツヒコの背は、いつものように硬く、鋼鉄の塊を背負う背中には微かな血の匂いが残っている。
つい先刻、土蜘蛛の斥候を三人、片付けなければならなかったからだ。
「…まだ、追っては来ぬか」
横を歩くクロガネが低い声で呟く。
キビツヒコは答えず、ただ前方の闇を見据えたまま歩を進めた。
その時だった。
道の脇、苔むした岩陰から、かすかな金属音が響いた。
鎖が擦れる音。
「……人ですか?」
シラが構えると、闇が揺れた。
現れたのは、痩せ細った少女だった。
長い黒髪は泥と血で固まり、両手両足には太い鉄の枷が食い込んでいる。
着ているものはぼろ布一枚。だがその肌は、常人とは明らかに違う。
青白く、ところどころに赤黒い鱗のような模様が浮かんでいた。
鬼。
誰もがそう理解した瞬間、少女は力なく膝をつき、顔を上げた。
「……たすけて」
掠れた、ほとんど息だけの声。
キビツヒコは眉をわずかに動かした。
「誰に捧げられていた」
「……アラハバキの、御子に」
少女の答えに、一行の間に重い沈黙が落ちた。
アラハバキ。
この近辺で最も悍ましい土着の神の一つ。生贄を喰らい、力を得るとされる。
「まだ生きているということは……見捨てられたのか? それとも逃げ出したのか?」
少女は首を横に振った。力なく、ただ一度だけ。
「…喰われる前に、鎖が緩んだ。
だから、這って、這って……」
そこで言葉が途切れ、少女は前のめりに倒れた。
鎖が地面を叩く乾いた音が響く。
キビツヒコはしばらく無言で見下ろしていたが、やがてゆっくりと剣を下ろした。
「クロガネ」
「は」
「枷を砕け」
「…よろしいのですか? こやつは鬼ですぞ。まつろわぬものの血を引く者」
「知っている」
キビツヒコは静かに言った。
「だが我らは、大和の名の下に征伐に来たのではないのか。
ならば、土蜘蛛の神に生贄として差し出されるような娘を、このまま見殺しにするのもまた、
まつろわぬものの所業と同じではないか」
タケヒコは一瞬言葉に詰まったが、やがて小さく舌打ちをして、少女のそばに膝をついた。
石斧を振り上げ、鎖を叩き始める。鈍い金属音が山に響いた。
少女は朦朧とした意識の中で、ただ呆然とその音を聞いていた。
「……なぜ」
掠れた声が漏れる。
イサセリヒコは答えなかった。
ただ、夜の闇の中で、静かに言った。
「名は」
「……ない」
少女は、ほとんど聞き取れない声で答えた。
「鬼の、娘」
キビツヒコは小さく頷いた。
「これよりお前は、我らの一行に預かる。
だが覚えておけ。
我らが征く先は血の道だ。
足手まといになるなら切り捨てる。それだけは約束しろ」
鬼の娘は血と泥に塗れた顔をゆっくり上げた。
その瞳は、赤く、まるで燃える炭のようだった。
「……約束、する」
かすかに、唇が動いた。
キビツヒコは初めて、わずかに口角を上げた。
「聞けぬ約束だな。
お前の名はまた考えてやるさ」
鎖が完全に砕け、鉄の枷が地面に落ちる音がした。
一行は、再び歩き始めた。
今度は、四人になっていた。
一行は夜の帳を切り裂くように山道を進み続けた。
鬼の娘――名もなき少女――は、最初のうちはよろめきながらも必死に後を追った。枷が外れた足はまだ震え、血と泥にまみれた裸足が岩や根に傷ついていたが、決して声を上げなかった。ただ、赤い瞳だけが闇の中で静かに燃え続けていた。
クロガネが時折振り返り、舌打ち混じりに呟く。
「足手まといになる前に言えよ。背負ってやるからな」
少女は首を振るだけだった。
やがて、湿った杉林が途切れ、視界が開けた。
眼下に広がるのは、深い谷間に抱かれた集落だった。
無数の窟――岩をくり抜いた住居が、まるで巨大な蜘蛛の巣のように谷壁にへばりついている。松明の火が点々と揺れ、赤黒い影が蠢いていた。土蜘蛛たちの集落。
アラハバキの御子に捧げられるはずだった生贄の少女が逃げ出した場所であり、一行が討つべき「まつろわぬ者」たちの本拠。
キビツヒコは立ち止まり、静かに息を吐いた。
「…ここか」
シラが弓を構え、弦を軽く鳴らす。
「数は五十……いや、六十はいるな。窟の奥にも潜んでいる」
クロガネ――が石斧を握り直し、ニヤリと笑った。
「ようやく本番だな。鬼の娘、お前はどうする? ここで逃げるか?」
少女は答えず、ただキビツヒコの背を見ていた。その瞳に、初めて明確な光が宿った。憎しみか、決意か。
キビツヒコは剣を抜き、ゆっくりと歩を進めた。
「行くぞ。生け捕りは要らん。だが、女と子は斬るな。……それだけだ」
一行は音もなく谷へ降り立った。
最初に気付いたのは、見張りの土蜘蛛だった。
奇怪な刺青を全身に施し、長い髪を結い上げた戦士が、窟の入口で槍を構えた瞬間――
シラの矢が闇を裂いた。
矢は正確に喉を貫き、男は声も出せずに倒れた。
それが合図だった。
土蜘蛛たちは一斉に吠え、窟から飛び出してきた。
棍棒、骨の槍、石の投擲武器。異様な咆哮を上げながら、四方から殺到する。
クロガネが真っ先に躍り出た。
「来いよ、蜘蛛ども!」
石斧が唸りを上げ、最初の一人を頭から真っ二つに割った。血飛沫が霧のように舞う。
キビツヒコは静かに、しかし確実に動いた。
剣が弧を描くたび、敵の首が飛んだ。血の匂いが濃くなる。鋼の刃が骨を砕く音、肉を裂く音、絶叫が谷に反響した。
シラは高台に陣取り、霊力の矢を放ち続ける。
一本一本が急所を射抜き、土蜘蛛の数を確実に減らしていった。
少女は――最初はただ立っていた。
だが、土蜘蛛の一人が彼女に気付き、槍を振り上げて襲いかかってきた瞬間、
少女の体が動いた。
赤い瞳が燃え上がり、爪が伸びたように見えた。
鬼の血が目覚めた。
少女は槍を素手で掴み、力任せにねじ曲げた。
男の腕が折れ、悲鳴が上がる。少女はさらにその首を掴み、地面に叩きつけた。骨の砕ける音が響く。
「……お前たちも、アラハバキに捧げられた」
掠れた声で呟き、少女は次々と襲い来る土蜘蛛たちに飛びかかった。
鱗のような模様が浮かび上がり、まるで鬼そのものが顕現したかのようだった。爪が肉を裂き、牙が喉を噛みちぎる。血に塗れながらも、少女は止まらなかった。
キビツヒコは一瞬だけ少女を見たが、何も言わなかった。ただ剣を振るい続けた。
戦いは熾烈だった。
土蜘蛛たちは窟の奥深くから援軍を呼び、罠を仕掛け、岩を転がし、毒矢を放った。
だが、一行の連携は完璧だった。
クロガネの剛力、シラの射撃、キビツヒコの剣技。そして、鬼の娘の狂気的な戦闘力。
やがて、谷は静かになった。
血の川が流れ、屍が転がり、松明の火だけがぱちぱちと音を立てていた。
キビツヒコは剣の血を払い、ゆっくりと息を吐いた。
「…終わったか」
クロガネが肩で息をしながら笑う。
「随分と派手にやったな。鬼の娘、なかなかやるじゃねえか」
少女は血まみれで立っていた。
赤い瞳が、初めて穏やかだった。
「……これで、アラハバキの御子は、もう誰も喰えない」
キビツヒコは少女に近づき、静かに言った。
「お前はよく戦った。
名を付けてやろうと思ったが……どうだ、イブキでいいか?
鬼の娘ではなく、ただの娘として」
少女――イブキはゆっくりと頷いた。
「……はい」
一行は再び歩き始めた。
背後で燃え始めた集落の炎が、夜空を赤く染めていた。
アラハバキの影は、まだ完全に消えたわけではなかった。
だが、今宵は――血の道は、もう少しだけ先へ続いていく。