土蜘蛛の一団は、黒い波のようにキビツヒコたちを囲んだ。
人間の顔が浮かぶ異形の肢体は、苦悶と憎悪に歪み、眼窩から滴る黒い粘液が地面に落ちるたび、ジュッと小さな煙を上げた。
「我らの神が……アラハバキ様が……お前たちを許さぬ!」
一匹が鋏を振り上げ、叫ぶ。
声は複数の人間のものが重なった、不気味な響きだった。
キビツヒコは鉄塊を地面に突き立て、ゆっくり息を吐いた。
返り血で赤く染まった白衣が、風に揺れる。
瞳には怒りよりも深い悲しみが宿っていた。
「……お前たちの名を、呼んでみたい」
静かな声だった。
しかし、その一言で土蜘蛛たちの動きが一瞬、止まる。
「だが、呼べぬ。
大和が奪ったからだ。お前たちの本当の名を」
シラが小さく息を呑む。
イブキはキビツヒコの裾を強く握りしめ、震えながらも彼を見上げた。
「それでも……お前たちは生きている。
名前を奪われても、誇りを踏みにじられても、まだここに立っている」
キビツヒコは鉄塊を握り直す。
殺すためではなく、守るための、静かな決意の握り。
「だから俺は、お前たちを殺したくない。
だが、イブキを贄にしようとするなら……
それは、許せない」
土蜘蛛たちの間で、ざわめきが広がる。
一匹が震える声で叫んだ。
「ならば……なぜ我らを討つ!
大和の狗め!」
「狗ではない。
かつては皇子だった。
今は……ただの男だ。
愛する者と、共に生きようとした男だ」
その言葉に、シラの瞳が揺れた。
彼女はそっとキビツヒコの背に手を置く。
鬼の王の娘として育てられた彼女にとって、「名前を奪われる」痛みは他人事ではなかった。
「大和は私を鬼の娘と呼んだ。
だが、あなたは違う。
私を……シラと、呼んでくれた」
シラの声は小さく、しかし確かに響いた。
土蜘蛛たちの動きが、再び激しくなる。
だが、その中に迷いが生じていた。
彼らの神・アラハバキが約束した「名を取り戻す」という言葉と、
今、目の前に立つ男の言葉が、胸の中でぶつかり合っていた。
「進めェ! 奴を殺せ!
アラハバキ様の贄を奪うな!」
先頭の一匹が跳躍する。
鋏がキビツヒコの首を狙う。
しかし、その瞬間――
鉄塊が風を切った。
だが、それは殺すための一撃ではなかった。
鋏を叩き折り、土蜘蛛の巨体を地面に叩きつける。
骨が砕ける音が響くが、致命傷ではない。
「これ以上は殺さぬと言ったはずだ」
キビツヒコの声は、低く、重い。
「だが、止まらぬなら……
止まるまで、叩きのめす」
シラは術を重ね、防壁をさらに高く、棘をより鋭くする。
イブキはキビツヒコの背に隠れ、震えながらも彼の白衣を掴み続けた。
戦いは苛烈だった。
土蜘蛛たちは次々と肉片となり、黒い粘液を撒き散らしながら倒れていく。
だが、キビツヒコは決して首を刎ねず、心臓を潰さなかった。
ただ、戦えぬまでに打ち据えるだけ。
やがて、生き残った土蜘蛛たちは膝をつき、鋏を地面に落とした。
「……なぜ、殺さぬ」
リーダー格と思しき、両頬に赤い龍鱗の刺青を持つ女の声が、掠れていた。
キビツヒコは鉄塊を下ろし、ゆっくりと近づく。
「俺は……大和の皇子だった頃から、思っていた。
まつろわぬ民は、悪いわけじゃない。
ただ、名を、誇りを、奪われただけだ」
彼は片膝をつき、女の目線に合わせる。
「お前たちの神は、アラハバキか。
……妾は知っている。あの神の性質を。
力を欲し、血を欲し、贄を欲する。
だが、それはお前たちを救うためではない。
ただ、自分の力を保つためだ」
女の瞳が揺らぐ。
「偽りだ……アラハバキ様は我らに名を……」
「名を返すと言ったか?
なら、なぜ今も『土蜘蛛』と呼ばれている?
なぜ、お前たちの本当の名を、俺は聞けぬ?」
沈黙が落ちる。
キビツヒコは立ち上がり、イブキの手を取った。
「大和が奪った名を、取り戻す手伝いをする。
だが、その代わり……
もう、幼子を贄にするな。
もう、互いを食い合うな」
女は、長い間黙っていた。
やがて、震える声で呟く。
「……我らの名は……もう、誰も覚えていない。
アラハバキ様でさえ……」
「なら、一緒に思い出せばいい」
キビツヒコは静かに言った。
「俺はキビツヒコ。
お前たちは……まだ、名を持たぬ者たち。
だが、いつかまた、名を呼べる日が来る。
その日まで、俺はここにいる」
土蜘蛛たちは、互いに顔を見合わせた。
黒い粘液が、涙のように滴り落ちる。
「……信じられぬ」
「信じなくともいい。
ただ、覚えておけ。
俺は、お前たちを鬼とは呼ばぬ。
お前たちは……民だ」
キビツヒコは背を向け、歩き出す。
シラがそっと寄り添い、イブキが小さな足でついてくる。
イブキは振り返り、倒れた土蜘蛛たちを見つめていた。
「ねえ……あの人たち、いつか笑える?」
キビツヒコは優しく頷く。
「笑えるさ。
俺たちが、笑える世界にする」
遠く、土蜘蛛の集落の奥から、
低い唸り声が聞こえた。
アラハバキの怒りか、 それとも、長い間忘れられていた名を、 ようやく思い出し始めた痛みか。
いずれにせよ、キビツヒコの戦いは、まだ終わっていなかった。
故郷に安寧はなく、
父は愛息子と呼ばず、
母は優しく抱擁せず、
ただの一度も情を感じられず、
陽を与えたのは、いつも人ならざる者。
それでも、
その心は、八百万のユメに満ちていた。