土蜘蛛たちの集落の奥、岩肌が剥き出しになった洞窟の最深部。
そこに、アラハバキはいた。
黒々とした鉄の塊のような神体。
いや、鉄ですらない。
それは凝固した血と、絶え間なく蠢く無数の細い触手と、ところどころに浮かぶ人間の顔のような瘤でできていた。
瘤の一つ一つが、かつて贄として捧げられた者たちの最期の表情を刻み込んでいる。
滴る黒い粘液は、まるで神の涙のようだったが、それは涙ではなく、貪り尽くせなかった命の残滓だった。
「……来たな、皇子」
声は地底から響くようだった。
複数の喉が同時に震え、言葉を紡ぐ。
低く、粘つく。
空気そのものが重くなり、イブキの小さな体がびくりと震えた。
キビツヒコは鉄塊を構えたまま、一歩踏み出す。
「アラハバキ。お前がこの者たちの名を奪ったのか」
神体が蠢く。
触手が無数に伸び、洞窟の壁を這う。
その先端には、かつての土蜘蛛たちの鋏と同じ、鋭い鉤爪が光っていた。
「名など、最初から無かった。
我が贄として捧げられることで、初めて意味を持つ。
お前も知っているはずだ、皇子よ。
大和の神々は、名を奪うことで民を従わせた。
我も同じことをしたまで」
シラが前に出る。
彼女の周囲に、青白い鬼火が灯る。
「嘘だ。
あなたは力を欲しただけ。
名を返す約束をして、誰も返さなかった。
土蜘蛛たちは、あなたに騙された」
アラハバキの瘤の一つが、ゆっくりと笑う。
人間の顔が、口を裂くように歪む。
「騙した?
違う。
約束は果たした。
我は彼らに『土蜘蛛』という名を与えたではないか。
それで十分だ。
名とは、支配されるための烙印だ」
キビツヒコの瞳が細まる。
「……なら、お前を倒せば、彼らは本当の名を思い出せるのか」
神体が震えた。
笑いとも、怒りともつかない音が洞窟に反響する。
「試してみるがいい。
だが、覚えておけ。
我を殺せば、お前もまた名を失う。
キビツヒコという名を、俺が奪ってやる」
その瞬間――
触手が一斉に襲いかかった。
黒い波が、洞窟全体を埋め尽くす。
キビツヒコは鉄塊を振り上げ、弧を描く。
風を切り裂く音とともに、触手が数本、根元から叩き斬られる。
黒い粘液が噴き出し、地面に落ちるや否や、ジュッと煙を上げた。
シラが両手を広げる。
彼女の周囲に、無数の棘が浮かび上がる。
鬼の王の血が脈打つ。
「イブキ、下がって!」
イブキは頷き、岩陰に身を寄せる。
だが、その小さな手は、キビツヒコの白衣の裾を離さない。
触手が再び迫る。
今度はより太く、より速く。
キビツヒコは身を翻し、鉄塊で叩きつける。
だが、一本が彼の肩をかすめ、白衣が裂けた。
赤い血が滲む。
「皇子!」
シラが叫ぶ。
彼女の棘が触手を貫き、動きを止める。
しかし、アラハバキの神体は痛みなど感じていないようだった。
瘤の一つが開き、そこから新たな触手が生えてくる。
「血を……もっと血を……!」
神の声が狂気を帯びる。
洞窟の天井から、黒い雨のように粘液が降り注ぐ。
触れた地面が溶け始め、石が泡立つ。
キビツヒコは歯を食いしばる。
「俺の血はやる。
だが、お前の贄にはさせん」
彼は鉄塊を地面に突き立て、両手で握る。
そして、静かに息を吐いた。
「――来い」
その言葉を合図に、アラハバキの神体が一気に膨張した。
触手が数百、数千。
洞窟全体が黒い海と化す。
キビツヒコは走った。
いや、飛んだ。
鉄塊を振り回し、触手の嵐を切り裂きながら、神体へと迫る。
肩の傷口から血が滴るたび、触手がその血を吸い取ろうと群がる。
だが、彼は止まらない。
シラが援護する。
彼女の鬼火が触手を焼き、棘が貫く。
しかし、神の再生は速い。
焼かれた触手はすぐに新しいものに取って代わられる。
「無駄だ……皇子よ。
お前は疲弊する。
だが、我は尽きぬ」
キビツヒコは答えない。
ただ、鉄塊を振り下ろす。
神体の中心――瘤の密集した部分に、強烈な一撃を叩き込む。
ゴオオオオッ!
洞窟が揺れた。
瘤が砕け、黒い血が噴き出す。
アラハバキの声が初めて、苦痛に歪む。
「ぐ……あぁぁ……!」
だが、それでも神は倒れない。
逆に、砕けた瘤から、無数の人間の顔が浮かび上がる。
それらは一斉に叫んだ。
「名を……返せ……!」
「我らの名を……!」
「アラハバキ……我らを……解放しろ……!」
キビツヒコの瞳が揺れる。
それは土蜘蛛たちの声だった。
いや、それだけではない。
古来よりアラハバキに贄として捧げられた、無数の魂の叫びだった。
「……お前は、名を奪ったんじゃない」
キビツヒコは呟く。
「名を、食ったんだ」
鉄塊を握る手に力がこもる。
「なら、吐き出させてもらう」
彼は跳んだ。
神体の中心へ。
触手が彼を絡め取ろうとするが、シラの棘がそれを阻む。
イブキが小さな声で叫ぶ。
「お兄ちゃん……!」
キビツヒコは神体の核――黒い鉄の心臓のような塊――に鉄塊を叩き込んだ。
ズドン!
衝撃が洞窟全体を震わせる。
神体がひび割れ、黒い血が滝のように流れ落ちる。
心臓の表面に、無数の亀裂が走る。
そして、その亀裂から、光が漏れた。
淡く、青白い光。
それは、長い間閉じ込められていた「名」の欠片だった。
「……思い出した……」
一つの瘤が呟く。
「我の名は……タケ……」
「私は……ヒナ……」
「アラ……ハ……」
次々と、名が蘇る。
土蜘蛛たちの本当の名。
古い言葉。
忘れ去られた響き。
アラハバキの声が、初めて恐怖に震えた。
「やめろ……!
名など……いらぬ!
我に力を……!」
だが、遅かった。
キビツヒコは鉄塊を引き抜き、再び振り上げる。
「もう、誰もお前に食わせない」
最後の、最大の一撃。
鉄塊が、神体の核を真っ二つに砕いた。
ゴオオオオオオオオオオッ!!
爆音。
洞窟が崩れ落ちる。
黒い血が四方に飛び散り、触手が萎れていく。
アラハバキの神体は、ゆっくりと崩壊を始めた。
「……なぜ……我を……殺さぬと言いながら……」
最後の瘤が、掠れた声で問う。
キビツヒコは静かに答えた。
「殺したんじゃない。
お前の中から、奪われた名を解放しただけだ」
神体が完全に崩れ落ちる。
残ったのは、黒い鉄の欠片と、無数の光の欠片。
それらはゆっくりと浮かび上がり、洞窟の外へと流れていった。
外では、土蜘蛛たちが膝をついていた。
彼らの眼窩から滴っていた黒い粘液が、止まっていた。
代わりに、涙が流れている。
「……名が……戻ってきた……」
一人が呟く。
そして、もう一人。
「タケ……俺は、タケだ……」
「ヒナ……私は、ヒナ……」
名が、次々と蘇る。
長い間忘れられていた、自分自身の響き。
キビツヒコは洞窟の入り口に立ち、静かに見守った。
シラが彼の隣に寄り添う。
イブキが駆け寄り、強く抱きつく。
「終わった……?」
キビツヒコは頷く。
「ああ。
終わった」
だが、彼は知っていた。
アラハバキは完全に消えたわけではない。
名を奪う力は、どこか別の形で、また現れるかもしれない。
大和も、他の神々も、また新たな贄を求めるかもしれない。
それでも。
「俺たちは、ここにいる」
彼は土蜘蛛たち――いや、もう土蜘蛛ではない者たち――に向き直る。
「お前たちの名を、俺は覚えておく。
そして、呼ぶ。
いつか、お前たちが自分で胸を張って名乗れる日まで」
一人の男――タケと名乗った者が、ゆっくり立ち上がる。
彼の瞳には、もう憎悪はなかった。
代わりに、静かな決意が宿っていた。
「……ありがとう、キビツヒコ」
キビツヒコは小さく笑う。
「礼はいらん。
ただ、これからは……互いに、名を呼び合おう」
風が吹いた。
洞窟の奥から、光の欠片が舞い上がり、空へと昇っていく。
それは、長い間閉じ込められていた魂たちが、ようやく自由になった証だった。
遠くで、低い唸り声が聞こえた。
それは、もうアラハバキの怒りではなかった。
忘れられていた名が、ようやく自分の声を取り戻した、最初の叫びだった。
キビツヒコは三人で歩き出す。
シラが手を握り、イブキが小さな足でついてくる。
「ねえ……みんな、笑えるよね?」
イブキの問いに、キビツヒコは優しく答える。
「笑えるさ。
俺たちが、笑える世界にする」