霧が一気に濃くなり、谷間全体が病の気配に包まれた瞬間――
「来るぞ!」
キビツヒコが叫んだと同時に、三つの影が彼の傍らから飛び出した。
まず動いたのは、妻のシラだった。
白い長髪をなびかせ、鬼の紅い角を露わにした美しい女。
温羅の血を引く彼女は、呪詛を唱え、風の刃を従える。
「あなた。わたしが道を拓く!」
その声は凛として、しかしどこか甘く響く。
シラの剣が霧を切り裂き、牛頭天王の足元を狙う。
次に吼えたのは、魔獣クロガネ。
漆黒の毛並みに鉄のような鱗をまとった巨大な狼の姿。
背中に生えた棘がキラキラと光り、牙は山刀よりも鋭い。
「ガアアアアッ!」
地を蹴り、牛頭の巨体に飛びかかる。
その爪の一撃で、牛頭の左の前脚に深い傷を刻んだ。
そして、最後に飛び出したのは鬼の少女イブキ。
まだ十歳ほどに見える小柄な体躯に、ツノの生えた頭巾を被り、大きな瞳を輝かせた少女。
だがその手には、キビツヒコから授かった短槍が握られ、鬼の力が宿っている。
「イブキも戦うよ」
少女は軽やかに跳び、牛頭の膝を狙って槍を突き刺す。
幼い声とは裏腹に、槍先は岩をも砕く勢いだった。
牛頭天王の咆哮が谷を震わせた。
「フハハハハッ!
面白い!
まつろわぬ者どもを味方につけるとは……父上はなんと言うかな?」
巨体が回転し、赤く燃える角が弧を描く。
一振りで風圧が生まれ、シラが吹き飛ばされ、木々に激突した。
「シラ!」
キビツヒコが叫ぶと、妻は血を拭いながら立ち上がった。
「心配無用……この程度、夫の前では見せられぬわ」
彼女の双剣が再び閃き、牛頭の脇腹を深く切り裂く。
黒い血が噴き出し、霧が一瞬薄れた。
クロガネがその隙を突く。
魔獣は低く構え、全身の棘を逆立てて突進。
「グルルルゥゥゥ!」
鉄のような体当たりが牛頭の胸に直撃し、巨体を数歩後退させた。
だが牛頭天王は笑う。
「その獣の力、悪くない。
だが――疫は止まらぬ!」
牛頭の口から、黒い瘴気が噴き出した。
谷間に一気に病の臭いが広がり、クロガネの動きがわずかに鈍る。
イブキが咳き込みながらも槍を構え直す。
「イブキ、退がれ!」
キビツヒコが叫ぶが、少女は首を振った。
「ダメ。キビツヒコの役に立ちたい。
シラも、クロガネも、みんなで戦う」
イブキの槍が光を帯び、鬼の少女の力が全開になる。
一突きが牛頭の脛を貫き、巨体が膝をついた。
その瞬間、キビツヒコが剣を高く掲げた。
「牛頭天王!
お前の言う通りだ!
俺は鬼の妻を愛し、魔獣を友とし、鬼の娘を娘のように思う!
まつろわぬ者どもを、力で従わせるんじゃない!
共に生きる道を示すために、剣を振るう!」
牛頭天王の目が大きく見開かれた。
「……ほう?
父上は『道具として磨く』と言ったはず。
お前はそれを、超えると言うのか?」
「超える!
父の道を継ぎながら、俺は俺の道を拓く!
鬼も人も、疫も祈りも、全部抱きしめて生きる道を!」
キビツヒコの剣が白光を放つ。
シラが横から双剣で援護し、クロガネが喉元に飛びつき、イブキが足を封じる。
四者の連携が完璧だった。
牛頭天王は大笑した。
その笑いは、谷を震わせ、しかしどこか満足げだった。
「見事だ、若き王よ!
我は……認めよう!
お前はただの道具ではない!
だが、疫は尽きぬ。
我は去る……しかし、また会おう。
その時、お前の『共に生きる道』が本物か、試してやる!」
巨体が霧に溶け始め、赤い角の炎が弱まる。
最後に牛頭天王はキビツヒコを真っ直ぐ見つめ、静かに言った。
「妻と、臣下と、娘を守れ。
それがお前の……本当の力だ」
牛頭天王の姿が完全に消えた。
残ったのは、血と瘴気の跡、そして静まり返った谷。
シラがキビツヒコに寄り添い、傷を気遣う。
「あなた様、おつかれさまです」
クロガネが低く喉を鳴らし、イブキが駆け寄って抱きついた。
「キビツヒコ、イブキ、頑張った」
キビツヒコは剣を収め、三人を抱き寄せた。
「……まだ、終わっていない。
だが、俺たちは一人じゃない」
風が、四者の髪と毛並みを優しく揺らした。
遠く、備後の山の向こうで、次の「まつろわぬもの」が息を潜めている気配がした。