【完結】真約・桃太郎伝説   作:ふくつのこころ

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残響

 

 

 夜の闇が吉備の山々を覆い尽くす頃、集落の外れに設けられた粗末な祭壇の火が、ぱちぱちと音を立てていた。

 

キビツヒコは、昼間の歓待の余韻を残したまま、わずかな供の者たちとともに馬を進めていた。

村人たちは彼を「皇子様」と呼び、酒と粟飯を振る舞い、その瞳には畏れと期待が混じっていた。

 

「牛鬼がまた出たんです」

 

古老が震える声で語ったのは、つい三日前のこと。

山の奥、滝の近くに棲むという異形の鬼。

体は黒く、頭に二本の角を生やし、牛のような巨体で村の牛や馬を攫い、

時には人をもさらうという。

 

「我らが神々に祈っても効かぬ。

どうか、皇子よ……調伏を」

 

キビツヒコは静かに頷いた。

大和の命を受け、この地を平定しに来た身。

鬼を討つことこそが、自らの存在意義だと知っていた。

 

夜更け。

一行は松明を掲げ、獣道を登る。

風が冷たく、木々の間を唸りながら通り抜ける。

 

「……聞こえるか」

 

キビツヒコが馬を止めた。

低い、苦しげな唸り声。

それは牛のものとも、人のものともつかぬ、湿った響きだった。

 

一行が滝壺へと近づくと、そこにいた。

 

巨体が、岩の上に崩れ落ちている。

黒い毛皮は血でべっとりと濡れ、

二本の角の一本は折れ、鋭い先端が欠けていた。

目は半開きで、白目を剥きながらも、

まだ息はある。

腹部に深い裂傷。

明らかに、誰かに——あるいは何かに——やられた傷だった。

 

「牛鬼……か」

 

キビツヒコは馬から降り、ゆっくりと近づいた。

供の者たちは槍を構え、息を呑む。

 

だが、牛鬼は襲いかかってこなかった。

代わりに、巨体がわずかに震え、

低い声で呻いた。

 

「……来たな……大和の……子よ……」

 

声は意外に澄んでいた。

鬼というより、古い神の残響のように。

 

キビツヒコは剣の柄に手をかけながらも、抜かずに問うた。

 

「誰にやられた。お前をここまで追い詰めたのは」

 

牛鬼は苦しげに鼻を鳴らし、血を吐くように言葉を絞り出した。

 

「影……黒い影だ……

温羅の残党……いや、もっと古い……怨念の塊……

あれは俺を……喰らおうと……」

 

その言葉に、キビツヒコの眉がわずかに動いた。

温羅——すでに討ち果たしたはずの鬼の名が、ここで再び上がるとは。

 

牛鬼は力を振り絞るように首を上げ、

濁った瞳で皇子を見据えた。

 

「俺は……もう長くはない。

だが……このままでは……あの影が村を……」

 

キビツヒコは一瞬沈黙した後、静かに言った。

 

「ならば、苦しみを終わらせてやろう。

それとも、まだ何か言うことはあるか」

 

牛鬼はゆっくりと目を閉じた。

そして、最後の力を振り絞って呟いた。

 

「……俺の角を……持っていけ……

それが……影を祓う鍵……になる……かもしれない……」

 

キビツヒコは無言で折れた角に手を伸ばし、

慎重に引き抜いた。

牛鬼の体は、その瞬間、力が抜けたように大きく沈んだ。

 

「……礼を言う……大和の皇子よ……」

 

最後の息とともに、巨体は黒い霧のように溶け始め、

やがて夜風に散っていった。

 

残されたのは、血の染みた岩と、

一本の折れた黒い角だけだった。

 

「あなた様、それは牛鬼の?」

 

キビツヒコはそれを布に包み、懐に収めた。

そして振り返り、シラたちに短く告げた。

 

「そうだ。戻るぞ。

まだ、終わっていない」

 

夜の山は、再び静寂に包まれた。

だが、その静けさの奥に新たな影が蠢いていることをキビツヒコは確かに感じ取っていた。

 

集落に戻ったキビツヒコ一行を、夜明け前の冷たい霧が迎えた。

 

村の入り口では、松明を持った数人の若者が不安げに待っていた。

皇子が無事に戻ったのを見て、ほっと息をつく者もいれば、

まだ何か恐ろしいものが残っているのではないかと、目を泳がせる者もいた。

 

「皇子様……牛鬼は?」

 

古老が杖をつきながら近づいてきた。

キビツヒコは懐から布に包んだ折れた角を取り出した。

 

「もう、この世のものではない。

だが、奴は最後に言葉を残した」

 

古老の顔が青ざめた。

 

「言葉……? まさか、呪いの言葉では……」

 

「違う」

キビツヒコは静かに首を振った。

 

「影だと言った。

温羅の残党ではない。もっと古い、怨念の塊だと。

そして、この角がそれを祓う鍵になるかもしれない、と」

 

周囲の村人たちがざわついた。

温羅の名はすでに遠い過去のもののはずだった。

キビツヒコ自身がその首を討ち、吉備の地を平定したと語り継がれている。

なのに、なぜ今さらその残滓が?

 

古老は角を恐る恐る見つめ、

やがて震える手で触れた。

 

「……確かに、古い。

この感触……牛頭の神のものに似ている。

だが、穢れている。

いや、穢れを吸い取った痕跡か……」

 

キビツヒコは目を細めた。

 

「ならば、どうすればよい」

 

「祓わねばなりません。

しかし、ただの祈りでは足りぬ。

この角を、かつての神々の祭壇——

山の奥、牛頭天王が祀られていた古い社に持っていかねば」

 

「そこは……」

 

「鬼の棲み処だった場所です。

今は誰も近づかぬ。

ですが、影がそこに根を張っているやもしれぬ」

 

キビツヒコは一瞬、沈黙した。

供の者たちも息を呑む。

 

「……わかった。

日が昇ったら、出発する。

お前たちも、村を守れ。

何か異変があれば、すぐに知らせろ」

 

古老は深く頭を下げた。

 

「皇子よ……どうか、お気をつけて。

影は、人の心の隙を喰らうもの。

誇りも、慈悲も、すべてを」

 

キビツヒコは答えず、ただ角を握りしめた。

 

——

 

翌朝。

朝霧がまだ残る中、再び一行は山道を登った。

今度は村の若者数名も加わり、槍と弓を携えている。

 

道中、異様な静けさが続いた。

鳥の声すら聞こえない。

 

やがて、古い社の前に辿り着いた。

 

苔むした石段。

朽ちかけた鳥居。

本殿は半壊し、屋根は落ち、

中央に据えられた牛頭の石像だけが、

無言で一行を見下ろしていた。

 

キビツヒコは角を掲げ、石像の前に進み出た。

 

「牛頭天王よ。

あるいは、その残魂よ。

この角は、お前の眷属が最後に託したものだ。

影を祓う鍵となるという」

 

風が、急に強くなった。

 

石像の目が——一瞬、赤く光ったように見えた。

 

「……来たか」

 

低い、複数の声が重なるように響いた。

 

社の奥、闇の奥から黒い靄がゆっくりと這い出してきた。

人の形を模し、しかし顔はなく、 ただ無数の口が開閉している。

 

「大和の……子……

温羅を殺した……皇子……

その血も、その誇りも……

すべて、喰らってやる……」

 

影は笑った。

無数の口が同時に笑った。

 

キビツヒコは剣を抜いた。

 

「ならば、来い。

俺はまだ、終わっていない」

 

影が、一斉に襲いかかった。

 

角が、キビツヒコの手の中で熱を帯び始めた。

 

——古い神の残響と大和の皇子の意志が、 今、交錯する。

 

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