影が一斉に襲いかかった瞬間、古い社の空気が歪んだ。
黒い靄は無数の触手のように伸び、キビツヒコの周囲を包囲する。
口が開閉するたび、 「大和……大和……大和……」 という呪詛のような囁きが重なり、 耳を劈く。
「来い!」
キビツヒコは剣を振り上げ、一閃。
刃が靄を切り裂くと、黒い血のようなものが飛び散り、地面に落ちてジュウッと煙を上げた。
だが、切られた部分はすぐに再生し、さらに勢いを増して迫る。
供の若者たちが弓を放ち、槍を突き立てるが、影は実体を持たぬ霧のようにすり抜け、逆に彼らの体に絡みつき始めた。
「ぐあっ……!」
一人が膝をつき、顔が青ざめ、目から血の涙を流す。
「心を……喰らわれている……!」
キビツヒコは歯を食いしばり、 懐から取り出した折れた牛鬼の角を握りしめた。
角が熱を帯び、青白い光を放ち始める。
「牛頭の……力か」
彼は角を剣の鍔に押し当て、強く念じた。
——古き神の残魂よ。
力を貸せ。
その瞬間、角から迸る光がキビツヒコの体を包み、剣全体が青い炎に変わった。
「これで……終わりだ!」
彼は跳躍し、影の中心—— 最も濃い闇の塊に向かって斬り込んだ。
剣が闇を貫通した瞬間、 影全体が悲鳴のような咆哮を上げた。
「ぎゃあああああああ——!!」
黒い靄が渦を巻き、 無数の口が一斉に開き、最後の抵抗のようにキビツヒコを飲み込もうとする。
だが、青い炎がそれを焼き払う。
靄が薄れ、徐々に形を失っていく中、影の中心から一つの「顔」が浮かび上がった。
それは——
人間の顔ではなかった。
古い土偶のような、しかし歪んだ表情の縄文の土偶を思わせる異形の面。
目はない。
ただ、深い窪みがあり、そこから無数の小さな赤い光が覗いている。
口だけが異様に大きく裂け、歯が無数に並んでいる。
「……アラ……ハバキ……」
その声は、複数の時代、複数の死者のものが混じり合った、地獄の底から響くようなものだった。
キビツヒコの瞳が鋭く細まった。
「アラハバキ……か」
影——いや、怨霊の塊は、
最後の力を振り絞って言葉を紡いだ。
「我は……古き神の……忘れられた名……
大和が……天つ神を……押し立て……
我ら在地の神を……踏み潰した……
その恨み……怨念……
すべてを……この地に……封じ込め……
牛鬼すら……喰らって……力を……
だが……お前は……また……我を……」
キビツヒコは静かに剣を構え直した。
「俺は大和の皇子だ。
だが、鬼の子と呼ばれた身でもある。
お前の恨みも、わかる。
だが……この地を乱すなら、俺はそれを討つ。それだけだ」
アラハバキの残響は、最後に嘲るように笑った。
「ならば……討て……
だが……忘れるな……
神は……滅びぬ……
ただ……形を変える……だけ……」
その言葉を最後に影は完全に崩壊した。
青い炎が残響を焼き尽くし、社の中心に、黒い灰のようなものが残っただけ。
キビツヒコは剣を収め、角を握ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
供の者たちが、よろよろと立ち上がり、彼の周りに集まる。
「……終わったのか?」
古老の声にキビツヒコは静かに頷いた。
「影は消えた。
だが……奴の言う通りだ。
神は滅びぬ。ただ、形を変える」
彼は灰となった残骸を見下ろし、小さく呟いた。
「だからこそ……俺たちは、
この地を守り続けねばならない」
朝日が、社の隙間から差し込み始めた。
古い牛頭の石像は、ただ静かにすべてを見守るように佇んでいた。
朝日が社の隙間から差し込み、古い牛頭の石像を優しく照らし始めた頃、
キビツヒコの背後で、静かな足音が響いた。
「あなた……無事でよかった」
白い長髪を朝霧に濡らした美しい女性——妻のシラが、
鬼の紅い角をわずかに覗かせながら、そっと近づいてきた。
彼女の瞳には、安堵と、しかし拭いきれない心配が混じっている。
キビツヒコは振り返り、わずかに微笑んだ。
「シラ……来ていたのか」
「ええ。あなたが一人でこんな場所へ向かうと聞いたら、
放っておけるわけがないでしょう?」
彼女の背後には、二つの影。
一頭は漆黒の巨狼——クロガネ。
鉄のような鱗をまとい、棘の生えた背を低く構え、
低く唸りながら周囲を警戒している。
その赤い瞳は、影の残滓すら焼き払うかのように鋭い。
もう一人は、小柄な鬼の少女——イブキ。
頭巾の下からツノが覗き、大きな瞳を輝かせながら、
キビツヒコの裾をぎゅっと掴んでいる。
手に握った短槍は、まだ血の匂いを残していた。
「パパ……怖かった?」
イブキの声は幼く、しかしどこか強い。
キビツヒコは少女の頭を優しく撫で、
静かに答えた。
「怖くはなかった。
だが……危うく、心を喰らわれそうになったところだ」
シラが目を細め、社の中心に残る黒い灰を見下ろした。
「アラハバキの残響……
古い在地の神の、忘れられた怨みね。
大和が天つ神を押し立て、この地の古神を封じ込めた恨み……
それが、こんな形で蘇るとは」
クロガネが鼻を鳴らし、低く唸った。
「……まだ、匂いが残っている。
完全に消えたわけではないですよ、キビツヒコ様」
キビツヒコは頷き、握りしめた牛鬼の角を掲げた。
角は今も、微かに青白い光を放っている。
「奴の最後の言葉だ。
神は滅びぬ。ただ、形を変える……と」
イブキが槍を握り直し、決意のこもった声で言った。
「じゃあ、イブキたちが守るよ。
守りたいこの地を、みんなで」
シラは夫の横に並び、双剣を抜いた。
刃に、風の呪詛が渦巻く。
「わたしも、ずっとそばにいる。
あなたが鬼の子と呼ばれようと、
皇子であろうと……わたしにとっては、ただの『あなた』だけ」
クロガネが体を低くし、牙を剥いた。
「俺の牙は、まだ折れていない。
再び影が現れるなら、喰いちぎってやる」
その時、灰の山がわずかに震えた。
微かだが、確かに——
赤い光の点が、一瞬だけ浮かび上がった。
キビツヒコの目が鋭くなる。
「……まだ、終わっていない」
シラが風を呼び、クロガネが吼え、イブキが槍を構える。
四者の視線が、灰の中心に集中した。
「来るなら、来い」
キビツヒコの声は静かだが、揺るぎない。
「俺たちは、この地を——
この国を、守り続ける」
朝日が完全に昇り、社の全体を照らし出した。
牛頭の石像は、無言で彼らを見守っている。