吉備の山間を抜け、備前の荒野を越え、キビツヒコの一行は再び北へ向かっていた。
鬼の残党を討つだけではない。
彼らが「まつろわぬ民」として朝廷の目を逃れ、静かに畑を耕し、子を育て、火を囲めるようにするための調伏。
それは討つことよりも遥かに難しい業だった。
「朝廷に知られたら、俺たちはただの謀反人だぞ」
クロガネが低い声で呟く。
今はキビツヒコの最も信頼する右腕だ。
「知られぬよう、為せばよい」
キビツヒコは静かに答えた。
「我らが為すは、鬼を滅ぼすことではない。争いを終わらせ、人が人として生きられる地を残すことだ。たとえそれが、朝廷の定めた『正史』に刻まれぬ道であっても」
クロガネはため息をつき、空を見上げた。
雲一つない青に、太陽が白く燃えている。
「……お前は本当に、大和の皇子か?」
「皇子であったことは、もう過去だ」
キビツヒコは苦笑した。
「今はただの旅人さ」
その言葉を、遠く天の岩戸の奥に座す天照大御神は、確かに聞いていた。
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高天原は静かだった。
いや、静かすぎた。
かつて弟スサノオが暴れまわった頃の喧騒はもうない。
スサノオは出雲に降り、ヤマタノオロチを斬り、草薙の剣を姉に捧げた後、自ら姿を変えてこの世に留まっていた。
今、彼は牛頭天王と名乗り、疫病を司る神として、あるいは鬼の王として、人の世の暗部に根を張っている。
天照は玉座に座したまま、鏡に映る地上の光景を眺めていた。
そこには、疲れ果てた顔で馬を進める青年――吉備津彦の姿があった。
「……あの子は、随分と痩せたのう」
隣に立つ牛頭天王は、角の生えた兜を脱ぎ、長い黒髪を指で梳きながら答えた。
「当たり前だろ。あいつは親からも褒められず、兄弟からも疎まれ、鬼の烙印を背負って生まれたんだ。褒められるような真似など、一つもしてねえよ」
天照は目を細めた。
「褒められぬからこそ、あの子は人の痛みを知ったのではないか」
牛頭天王は鼻で笑った。
「綺麗事だな、姉上。痛みを知ったって、腹は膨れない。傷は癒えない。誰も感謝なんかしてくれやしねえ。あいつがやってるのは、結局、誰にも理解されない自己満足だ」
「自己満足であってもよいではないか」
天照の声は穏やかだった。
「人が為すことの全てが、報われるとは限らぬ。それでも為す。それが人の道であろう」
牛頭天王は黙って、鏡の中のキビツヒコを見つめた。
青年は馬を降り、一人の老いた鬼女に水を差し出していた。
鬼女は最初、牙を剥いて威嚇したが、やがて震える手で椀を受け取り、涙を零した。
「……あんな奴らにまで手を差し伸べるのかよ」
牛頭天王の声に、苛立ちと、どこか羨望のようなものが混じる。
「俺が鬼どもの王だった頃は、そんな甘っちょろい真似は許さなかったぜ」
「だからこそ、お前は鬼の王で終わったのだ」
天照は静かに言った。
「あの子は、鬼をも人として扱う。それが出来るからこそ、あの子は鬼を終わらせられるのかもしれぬ」
牛頭天王はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……あいつ、俺に似てるよな」
天照は驚いて弟を見た。
「似ている?」
「ああ。俺も昔、姉貴に褒められたくて、暴れて、壊して、結局追放された。
あいつも、親に認められたくて、朝廷のために戦って、でも結局『鬼の子』と呼ばれて、誰も褒めてくれねえ。
同じだよ。姉貴にすら、ちゃんと見てもらえなかった」
天照の瞳が揺れた。
「……それは、私の不徳の致すところだ」
「今更だろ」
牛頭天王は肩を竦めた。
「俺はもう、牛頭天王として生きてる。あいつはキビツヒコとして生きてる。それでいいじゃねえか」
鏡の中では、キビツヒコが鬼女の背に布をかけ、夜露から守っていた。
クロガネが呆れたように見つめ、ため息をついている。
「なぁ、姉上」
牛頭天王が珍しく真剣な声を出した。「あいつ、いつか折れると思うか?」
天照はゆっくり首を振った。
「折れぬよ。あの子は、折れることを知らぬ。
なぜなら、あの子は『褒められる』ために生きているのではないからだ。
ただ、人が苦しまぬようにと願う。それだけだ」
牛頭天王は苦笑した。
「馬鹿だな、まったく」
「馬鹿でよい」
天照は優しく微笑んだ。「馬鹿だからこそ、神ですら及ばぬところに手が届くことがある」
その時、鏡の中のキビツヒコがふと空を見上げた。
まるで、誰かに見られていると気づいたかのように。
彼の瞳には、疲労と、しかし確かな光があった。
「……見られているな」
キビツヒコは小さく呟き、苦笑した。
「天照大御神か。それとも……牛頭天王か」
クロガネが怪訝な顔をする。
「何を言ってるんだ?」
「いや、何でもない」
キビツヒコは再び馬に跨り、手綱を握った。「さあ、行くぞ。まだ道は長い」
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高天原に戻った鏡の光が、ゆっくりと翳った。
牛頭天王は兜を被り直し、立ち上がった。
「俺はもう降りるぜ。あいつの旅に、ちょっかい出すつもりはねえ」
天照は静かに頷いた。
「そうか」
「ただ……」
牛頭天王は振り返り、姉の顔をまっすぐ見た。
「もしあいつが本当に折れそうになったら、俺が最後に相手をしてやるよ。
それくらいは、してやってもいいだろ?」
天照は目を伏せ、優しく笑った。
「……弟らしいことを言うようになったものだ」
「うるせえな」
牛頭天王は照れ隠しに背を向け、闇の中へ消えていった。
一人残された天照は、再び鏡に向き直った。
そこには、もうキビツヒコの姿はなかった。
ただ、果てしない旅路が、朝日を受けて続いているだけだった。
「長い長い旅路だな……」
天照大御神は、誰に言うでもなく呟いた。「だが、その先にこそ、光があることを、信じているよ」
鏡の向こうで、キビツヒコの背中が小さくなっていく。
誰も褒めぬ道を、ただひたすらに歩む青年の姿を、
天照は、静かに、長い間、見つめ続けていた。