小さな集落は、山と川に抱かれた谷間にひっそりとあった。
人家は二十軒にも満たず、畑は急斜面に細長く刻まれ、朝靄が毎日のように里を白く塗り潰す。
ここを「小さな小さな国」と呼ぶのは、キビツヒコただ一人だった。
彼は今、妻のシラと二人で暮らしている。
シラはいつも柔らかい笑みを浮かべ、朝になると土間で黙々と杵を振るう。
その音が響くたび、キビツヒコは胸の奥で何かが小さく溶けるのを感じた。
溶ける、けれど決して無くなることはない。
何か黒い、冷たいものが、いつもそこに残る。
二人の間に子ができたのは、集落に桜が咲き乱れた年の暮れだった。
シラのお腹は少しずつ丸くなり、彼女はそれを両手で大切に抱えるようになった。
「男の子かな、女の子かな」
シラがそう呟くたび、キビツヒコは笑おうとして、途中で表情を凍らせる。
父・フトニ大王の声が、脳裏の奥底から這い上がってくるからだ。
「お前は鬼の子だ」
あの言葉は、幼い頃から何度も繰り返された。
母の顔を知らず、父の膝で育ったキビツヒコにとって、それは呪いでもあり、唯一の真実でもあった。
だから彼は戦った。
まつろわぬ民を討ち、鬼を斬り、災いを鎮めた。
それが自分の存在を正当化する唯一の方法だと信じて。
シラはそんな彼の過去を知らないわけではなかった。
知っていながら、なお優しく触れてくる。
夜、寝床で彼の背中にそっと額を寄せ、
「あなたはここにいてくれるだけでいいのよ」と囁く。
その声は甘く、温かく、桃の花の香りがするようだった。
なのに、どうしてだろう。
どれだけシラが愛を注いでも、胸の渇きは消えない。
まるで底の見えない井戸のように、どんな水を注いでも飲み干してしまう。
子が生まれた。
女の子だった。
小さな手足をばたつかせ、泣き声は意外に力強い。
シラは涙をこぼしながら「桃みたい」と笑った。
キビツヒコは娘を抱き上げた瞬間、初めて自分の指先が震えていることに気づいた。
この子にまで「お前は鬼の子だ」と言ってしまう日が来るのではないか。
その恐怖が、喜びを半分に削いでしまう。
集落には、もう二人いた。
イブキとクロガネ。
イブキはいつも山の奥で一人、笛を吹いていた。
その音色は、時として人の心を抉るほど鋭く、時として川のせせらぎのように優しい。
クロガネは寡黙で、ただ鍛冶場で鉄を叩き続けている。
彼らの存在が、この集落を「国」たらしめていたのかもしれない。
ある秋の夕暮れ。
イブキが姿を消した。
誰も見ていない時間に、ただふっと消えた。
キビツヒコが最後に見たイブキの顔は、悲しみに濡れていた。
そして――わずかに、鬼の角が透けて見えた気がした。
「キビツヒコの言葉、愛するもののために生きることを知りにいく」
イブキはそう言った。
声は小さく、風に溶けるようだった。
その瞳の奥には、かつて水害を呼んだ大蛇の影が揺れていた。
八岐のそれに似た、深く、冷たく、しかしどこか哀しげな光。
「さようなら。優しい桃のような人、桃太郎」
最後に残した言葉は、まるで別れの歌のようだった。
キビツヒコはその夜、眠れなかった。
シラは隣で静かに寝息を立て、娘は小さな布団の中で丸まっている。
なのに彼は、胸を押さえて息を詰まらせた。
イブキの言葉が、頭の中で反響する。
桃のような人。
桃太郎。
それは、かつて自分が忌み嫌っていた呼び名だった。
鬼を退治し、村を救い、英雄と呼ばれた頃の名。
でも今は違う。
今はただ、シラと娘と、この小さな集落と一緒に生きている男だ。
それなのに、どうしてイブキはそんな呼び方で別れを告げたのか。
翌朝、キビツヒコは山へ向かった。
イブキがいつも笛を吹いていた岩場へ。
そこにはまだ、微かに草の匂いと湿った土の気配が残っていた。
彼は膝をつき、額を岩に押し当てた。
「……俺は、何のために生きてきたんだ」
答えは返ってこない。
ただ風が吹き、木々がざわめくだけだ。
それから月日が流れた。
娘は歩き始め、言葉を覚え、シラに似て柔らかい笑顔を見せるようになった。
クロガネは相変わらず鍛冶を続け、時折キビツヒコに酒を勧め、黙って盃を傾ける。
集落は変わらず静かで、季節だけが巡る。
だがキビツヒコの胸の渇きは、消えなかった。
いや、むしろ深くなった。
イブキが消えた日から、何かが決定的に欠けたままになっている。
それは愛ではない。
憎しみでもない。
ただ、底知れぬ空白だった。
ある冬の夜。
雪が降り積もり、集落全体が白く沈黙した。
シラは娘を抱いて眠り、キビツヒコは一人、囲炉裏の前に座っていた。
火は小さく揺れ、時折ぱちんと爆ぜる。
彼はふと立ち上がり、戸を開けた。
冷気が頬を刺す。
外は真っ白で、何もかもが隠されている。
その雪の中に、イブキの姿を見た気がした。
いや、幻だ。
分かっている。
なのに、足は勝手に雪の中へ踏み出していた。
「イブキ……」
呼びかけても、返事はない。
ただ雪が降り続ける。
キビツヒコは歩いた。
どれだけ歩いたか分からない。
やがて、深い森の奥、かつて水害が村を襲ったあの川辺に出た。
水は凍り、鏡のように月を映している。
そこで彼は立ち止まった。
そして、初めて自分の口から出た言葉を、自分でも驚いて聞いた。
「……俺は、鬼の子でもいい」
声は震えていた。
けれど、どこか軽やかでもあった。
「お前は鬼の子だ」と言われた日から、ずっと否定してきた。
戦い、斬り、救い、証明しようとしてきた。
でももう、いい。
シラは鬼の子でも愛してくれる。
娘は鬼の子でも笑ってくれる。
クロガネは鬼の子でも酒を酌み交わしてくれる。
そしてイブキは――
イブキは、そんな俺を見て、どこかへ旅立った。
「愛するもののために生きることを知りにいく」
その言葉は、呪いでもなく、赦しでもなかった。
ただ、真実だったのかもしれない。
キビツヒコは膝をつき、凍った川面に額を押し当てた。
冷たさが骨まで染みる。
それでも、胸の奥の渇きが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
「……ありがとう、イブキ」
雪は降り続く。
やがて彼は立ち上がり、来た道を引き返す。
集落の灯りが、遠くに小さく揺れている。
そこにはシラが、娘が、待っている。
桃のような人、と呼ばれた男は、
もう一度、静かに歩き始めた。
さようなら、と別れを告げた声は、もう聞こえない。
けれどその響きは、ずっと彼の胸の奥に残り続けるだろう。
優しい桃のような人。
桃太郎。
――そして鬼の子。
二つの名を両方抱えたまま、
キビツヒコは、雪の降る夜道を、ただ家へと向かった。