桜が芽吹く縹の空に   作:楠富 つかさ

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#4

「いっち! にーっ! いっちにーっ!」

「「「そーれっ!!」」」

「いっち! にーっ! いっちにーっ!」

「「「そーれっ!!」」」

 

 ジャージを着込んだソフトボール部員たちが威勢のいい掛け声とともに二列縦隊を作って学園敷地内を走り回っている。

 

 先頭で掛け声をリードしているのは下村紀香。一年生ながら四番打者を務めており、その長打力は超高校級を誇る。さらに言えば声の大きさも超高校級である。そのためランニングでは掛け声のリード役をよく任されている。

 

「いっち!」

「「「そーれっ!!」」」

「にーっ!」

「「「そーれっ!!」」」

「さんっ!」

「「「そーれっ!!」」」

「しーっ!」

「「「そーれっ!!」」」

「「「いち、にっ、さんっ、しーっ、にーっ、にっ、さん、しーっ!!」」」

 

「ブヒィィィィィィッ!!!! ブヒヒッ!!」

 

 紀香は体勢を崩して転んでしまい、隊列までもがガタガタと崩れて、たちまちランニングは中断された。

 

「な、何だ今の間抜けた音は……」

 

 紀香は地面に這いつくばったまま、音がした方を見た。そこには茶道部と華道部と書道部が部室として使用している離れがある。

 

「紀香ちゃん、大丈夫?」

 

 同級生の有原はじめが紀香を抱え起こした。

 

「ああ。はじめも聞いたろ? すんごい間抜けな音」

「音というか、イノシシの鳴き声じゃない……?」

「「「イノシシぃ!?」」」

 

 紀香とチームメイトの声が一致した。

 

「うん。わたし、昔イノシシに出くわしたことがあるんだ。ちょうどあんな鳴き声だったよ」

 

 空の宮市の北部はあまり栄えてない土地なのでイノシシが出ることがある。しかし学園周辺でイノシシが出るという話は全く聞いたことがない。

 

 だが実際イノシシだとしたら危険だ。突進されたら間違いなくケガを負う。部員たちは練習よりも身の安全確保を優先した。近くにいた教師に事の次第を報告すると、直ちに教職員総出でイノシシ捜索が始まり、外にいた生徒たちは校舎内に避難させられた。

 

 このとき、一台の白塗りの高級車がひっそりと学園を後にしていたことは誰も知らない。そして実際にはイノシシではなく豚であったことも、イノシシよりも危険な存在が学園に存在していることも。

 

 * * *

 

「いきなり目が覚めて鳴き出したからびっくりしましたわ。爺やが来るのがもう少し遅かったら見つかるところでした」

 

 白髪の長身の少女、橘桜芽は大きくため息をついた。その隣には銀縁眼鏡の少女、紙居縹が、うつむき加減で居心地悪そうに後部座席に座っていた。

 

 後ろのトランクには豚が積み込まれている。覚醒して大声で鳴き出したものだから、すかさず桜芽がゲンコツを頭に落として再び気絶させてから積み込んだ。

 

 だが縹の居心地の悪さの原因は後ろのブタではなく、初対面の少女が隣の席に座っていることである。縹は人見知りが激しかった。

 

「あの……その……」

 

 次の言葉がなかなか出てこない。

 

「豚さんのことが気になりますか?」

 

 桜芽の方から聞いてきた。

 

「え、あ、はい……」

「可哀想ですが、仕方ないことなのです。人間は他の生き物の生命を犠牲にしなければ生きていけないのですから、いちいち気にしていられません」

 

 桜芽はもっともらしいことを言った。

 

 こちらも何か言葉を返さないといけない、と縹は強迫観念にかられた。しかし何をしゃべっていいのかわからず、口をモゴモゴと動かすだけであった。

 

「そういえば自己紹介がまだでしたわね」

 

 桜芽が縹の方に体を向けた。

 

「私は橘桜芽と申します。桜の芽と書いて桜芽です。中等部二年二組、部活は柔道部ですわ」

「えっ」

 

 背が高く大人びているからか、縹は勝手に先輩だと思いこんでいたが、確かにタイの色は中等部二年生を示す黄緑色である。

 

 柔道部所属というのは納得がいった。空から降ってきた豚を片手で軽々と受け止め、不審者をいとも簡単に投げ飛ばす。よほどの力が無いと出来ない芸当だから、それを活かす部活に入るのは当然の流れであろう。

 

「あっ! そうだ!」

 

 縹はついに声らしい声を出した。肝心なことを思い出したからである。

 

「けっ、けっ、警察を呼ばないと……! あの不審者、殺人鬼をどうにかしないと……!」

「そんなこと、豚さんを頂いた後でも遅くありませんわ」

「そんなことって……私、刺し殺されかけたんですよ!? それに、放っておいたら他の生徒が狙われるかもしれないのに!」

「その心配はありません。()()は明らかにあなた個人を狙っていました」

「何でそう言い切れるんです?」

「眼でわかります」

「……?」

「同じ殺人鬼でも強盗目的や快楽目的だと獲物を狙う肉食獣のような目つきをしています。怨恨絡みだと怒りが眼に宿っています。『ムシャクシャしたからやった。誰でも良かった』というようなタイプだと目の光が弱々しく虚無的ですね」

 

 桜芽は実際にさまざまな殺人鬼を見てきたかのように、立て板に水といった感じでスラスラと語るが、縹は全く理解が追いついていなかった。

 

「しかしあの不審者は目が座っていました。殺しを仕事にしている人間、殺し屋の目です。つまり、あなたのことを疎ましく思っている第三者が殺しを依頼した、ということが考えられますね」

「……」

 

 物腰の柔らかい態度と裏腹に、言葉には圧迫感があった。それこそ的外れな推理だと言わせないような。

 

 だが縹には誰かの恨みを買うようなことをした覚えはない。敢えて上げるなら、学園駅前商店街のパン屋でメロンパンをごっそり買い占めたことがあって他の客から冷たい視線を浴びせられたことがあるが、その程度で殺されるのは食べ物の恨みは怖いとはいえ、あまりにも理不尽ではないか。

 

「何で私が……一体誰が……」

「大雑把ですが犯人の目星はついています。確実に学園内の人間ですわ」

「えっ!?」

「あんな怪しい格好をして学校の中に入ろうものなら、たちまち警備の人に取り押さえられていたことでしょう。なので、内部の人間の仕業と考えるのが妥当です」

 

 脳をぐちゃぐちゃにかき回されたような感覚が縹を襲ってきた。殺し屋が学園の中にいるなら、一大事どころではない。

 

 殺人鬼の体型は線が細く身長も自分と変わらなかった。ということは生徒なのか。

 

 一体誰が……猜疑心が縹の心を蝕んでいき、脂汗が彼女の額に滲み出した。

 

 一方、桜芽は縹の心中なぞ知らぬといった感じで、縹に言った。

 

「ところで、まだあなた様のお名前をお聞きしていませんわね。タイの色から高等部二年の先輩とお見受けしますが」

 

 *

 

 橘家は一言で言えば武家屋敷のような造りをしていた。瓦屋根つきの木製の大きな門は高級感と威圧感を与え、縹はつい歩みをためらった。

 

「橘さんって物凄いお嬢様なんですね……」

「一応、祖先は武家でこの辺りを統べていた大名の家臣でしたから。あと、そこをしばらく動かないでくれませんか。危ないですから」

「はい?」

 

 縹はとりあえず、言われた通り立ち止まった。

 

 桜芽が重量感たっぷりの門をゆっくりと開けた。その瞬間であった。

 

「キィエエエーーーーーーーッ!!!!!!」

 

 猿の鳴き声のような甲高い奇声とともに、門から人影が飛び出してきて何かを振り下ろしたが、桜芽はすんでのところでかわした。

 

 人影の正体を知った縹はまたもや戦慄した。

 

 血の如き真紅の鎧兜で身をまとい、両手には日本刀が握られている。西日を受けて禍々しい光を放つそれは、間違いなく真剣だと縹は断定した。

 

 まるで戦国時代の武将が現世にタイムスリップしてきたかのようである。

 

「な、何なのこれ……」

「キィエエエーーーーーーーッ!!!!!!」

 

 武将が桜芽に向かってやたらめったら斬りつける。が、桜芽はそれを簡単に蝶が舞うようにヒラリヒラリとかわしていく。

 

「キィエエエーーーーーーーッ!!!!!!」

 

 武将が顔をめがけて突きを放った。桜芽は頭だけ動かしてひょいと避けると、武将に突進してその体を持ち上げた。その動きは素早すぎて、縹の目には桜芽が瞬間移動したようにしか見えなかった。

 

 武将は刀を落としていて、手足をばたつかせた。

 

「ま、参った! 参ったから下ろしてちょうだい!」

「はい、わかりました」

 

 桜芽は丁寧に武将を下ろした。

 

「娘が久しぶりにお客様を連れて帰宅するというのに、なかなかのお出迎えではありませんか? お母様」

「お、おかあさま!?」

 

 武将は兜を脱ぐと、桜芽と同じ白い髪が垂れ落ちた。さらに面頬を脱ぐと、整った女性の顔が顕になった。

 

「驚かせて申し訳ありませんでした」

 

 女性は縹に向かってにっこりと微笑んだ。さっきまでかぶっていたいかつい面頬とは大違いの柔らかい笑みであった。

 

「私が桜芽の母です。今のは気にしないくださいね。橘家独特の親子のコミュニケーションですから」

「は、はあ……」

 

 もう何がなんだか、である。娘も娘なら母も母だ。

 

「では、お入りください」

 

 桜芽に促されて、縹は処刑台に登るような気持ちで門をくぐった。

 

 *

 

 客間は質素であり外観ほどに威圧感を与えてはいないのだが、縹は緊張のあまり正座したままでほとんど身動きが取れなくなっていた。それでも出された緑茶と茶菓子の饅頭はきっちりと頂いたが。

 

「結局、こっちは食いっぱぐれちゃったな……」

 

 カバンの中にはメロンパンが入ったままである。

 

「でも、二度と食べられなくなる寸前だったことを思えば、ね……」

 

 そのとき、スーッとふすまが開いた。

 

「お待たせしました」

「!?」

 

 一瞬、誰かと思った。鮮やかな紫の生地に、舞い散る桜の花びらの模様をあしらった着物。着ている者が白髪であることで、桜芽だとわかった。その白髪もうなじが見えるぐらいに後ろでまとめられている。

 

 綺麗だ。縹は率直にそう感じた。紫と桜と白の組み合わせがこれ程合うとは。

 

「紙居先輩、どうされましたか?」

「いえ、そのっ、着物姿がよく似合っているな、と。普段から着物を着られていのですか?」

「いいえ。今日は客人たる先輩と一緒に食事を共にするのですから、特別です」

 

 縹は急に恥ずかしさを覚えた。自分のことを特別扱いしてくれるのは良いとして、自分の制服と着物では釣りあってない気がしたからである。

 

「さあさあ、豚さんがお待ちかねですわよっ」

 

 桜芽の声は、少し上ずっているような気がした。

 

 食堂に通された縹はまたもや身を震わせた。その原因は、部屋の四方に飾られているいかめしい装飾品の数々である。

 

 縹の席の後ろには、戦国時代に使われていたであろう古い長槍が。

 

 左側には、自分の身長の倍程度はあると思われるヒグマの剥製が。

 

 右側には大きな窓があるものの、その左右に阿吽一対の仁王像が。

 

 正面には『見敵必殺』と、力強く荒々しい文字が書かれた額縁が。

 

 とても気分良く食事をする場所とは思えず、一歩まかり間違えれば暴力団の事務所のようであった。

 

「紙居さん、本日はようこそいらっしゃいました」

 

 正面の桜芽の母が丁寧に頭を下げた。彼女もまた紫の着物を着ていたが、こちらは梅の花の模様があしらわれている。

 

「さて、諸々の事情は桜芽から聞いています。すでに学校を通して警察の方には通報しておりますので」

「学校はどうなったのでしょうか。他の生徒は無事なのでしょうか」

「特に危害はないと聞いております。ただ今学校には警察が捜査に入っていて、今しがたこちらにも刑事さんが事情聴取に来られましたが、桜芽が代わりに対応致しました。また日を改めて紙居さんに話しを聞きに来ると思いますが、今はここで心身をお休めになってください」

「つまりは、今日はお泊りして頂くことになります」

 

 左側の席にいる桜芽が言った。

 

「え、あの……」

「すでにご両親にも連絡して許可を取ってあります。ご心配をかけてはいけないので今日のことは黙っておりますけど。あとご自宅が襲撃されぬよう、選りすぐりの手練の者たちに周辺を警備させております」

 

 桜芽は大丈夫ですわ、と言わんばかりに親指を立てた。手際の良さに縹はつい感心を覚えた。

 

「しかしせっかく実家に帰ってきたというのに、お父様がおられないのは残念ですわね」

「お仕事ですか?」

「ええ、ちょっとアフリカへ修行に」

「しゅ、修行……? 一体何の?」

「私のお父様は武芸者ですの」

 

 桜芽は橘家について説明を始めた。

 

 橘家は「橘花武道塾」という道場を全国各地で運営しており、そこでは柔道剣道空手道なぎなた、その他諸々の武道を学ぶことができる。桜芽の父親は塾の門下生の一人であったが、祖父に認められて橘家に婿養子入りする格好で桜芽の母親と結婚した。だが父親は非常にストイックな性格で常に己を鍛えることばかり考えており、先月から過酷な環境に自らの身を置いて鍛えるためにアフリカのサバンナに旅立ったという。最低でもあと一年間は帰ってこないらしい。

 

 縹は、きっと橘家にはまともな人間はいないのだろうと、失礼ながらもそう思わざるを得なかった。

 

「失礼します」

 

 先程運転手を務めていた爺やが入室してきた。片手で持っているお盆にはカクテルグラスが三つ置かれていて、二つには赤色の、もう一つにはオレンジ色の液体が入っている。まず縹の席に、オレンジ色の方が置かれた。

 

「ノンアルコールの食前酒でございます」

 

 ノンアルコールなのに食前「酒」とは矛盾しているが、特に気にはしなかった。それよりも気になっているのは自分と桜芽、桜芽の母と中身が違っていることである。

 

「あ、あの……私だけ違うんですけど」

「ああ、私たちが飲むのはちょっと刺激が強いものでして、先輩がとても飲めるようなものではございませんので」

 

 桜芽が答えた。

 

「まさか、本物のお酒……?」

「そんなわけないでしょう。お酒は二十歳になってからです」

「じゃあこれは一体……」

「スッポンの生き血にマムシの粉末を混ぜた、橘家特製のノンアルコールスタミナカクテルですわ」

「ひいっ!?」

 

 縹は素っ頓狂な声を出した。

 

「あ、先輩のは普通のノンアルコールオレンジカクテルですからご安心を」

「そうじゃなくて……酒よりもいろいろときついものを飲んじゃって大丈夫なのですか?」

「子供の頃から飲んでいましたわ」

「ええー……」

 

 いただきます、と橘親子は中身を一気に飲み干してしまった。

 

「くぅぅ、この鼻から突き抜ける血生臭い風味が良いですわね」

「うふふ、これ、殿方に飲ませたらもっと凄いのよ。どんなに元気がなくてもたちまちあの槍のようになってしまうのだから」

 

 桜芽の母が縹の後ろにある槍を指差す。

 

「いやだもう、お母様ったら!」

 

 桜芽は頬に両手を添えて恥ずかしさを体で表現した。

 

 縹も一応は中身を飲み干したが、オレンジの香りを楽しむ余裕がなかった。

 

(食前酒でこのレベルなら次は何が出てきてしまうのだろう……)

 

「サラダでございます」

 

 爺やが続いて持ってきたのはシーザーサラダである。野菜の上に豚しゃぶが乗っていた。まともな食事だとわかって縹は少し胸をなでおろした。

 

 自分の生命を奪いかけたブタが、逆に生命を奪われてしまい自分の生命の糧になろうとしている。何とも皮肉で可哀想な気がしたが、料理になってしまった以上は食べることが何よりの供養だ。縹はそう考えることにした。

 

 桜芽の母も同じくシーザーサラダであったが、桜芽だけは違っていた。

 

「お嬢様はこちらでございます」

 

 桜芽の席に置かれた皿には、名前がわからない雑草が乗っていた。盛り付け方は草むしりしてそのままポイと置かれたように雑であり、ドレッシングの類すら一切かかっていない。

 

「まあ、この香りは那須高原に生えている野草ですわね」

「さすがお嬢様、ご明察の通りでございます」

「……あの、その草は食べられるものですか?」

()()食べられますとも。この土の香りがたまらないのですわあ……」

 

 桜芽はフォークで草をすくい上げてクンクンと匂いを嗅ぐと、そのまま口に放り込んだ。

 

(食っちゃった、ウシみたいに食っちゃったよ、おい……)

 

「うーん、美味しい! 紙居さんも遠慮なさらずにどうぞ」

「は、はい……」

 

 縹は視線を草を頬張っている桜芽からシーザーサラダに向けた。まずは豚しゃぶから手をつけることにした。

 

「ううむ……これは……」

 

 絞めたばかりの豚だからか、はたまた腕前の良い料理人でも雇っているのか、味はそんじょそこらの店で出される豚肉とは全く別物と言っていい程、濃厚でまろやかあった。

 

「なかなか美味しいです」

「喜んでもらえて嬉しいですわ」

「橘さんは豚しゃぶを召し上がらないのですか?」

「私は火を通した食べ物が苦手なのです」

「あれ? でもそれじゃ豚肉が食べられないのでは」

「え? どういう意味ですか?」

「いやその、カンピロバクターとかトキソプラズマとかの食中毒が……」

「??? 言葉が難しすぎてよくわかりませんが、食中毒は罹ると大変と聞きますわね」

 

 桜芽は全く理解していない様子である。豚肉はじゅうぶん加熱して食べないと、ウィルスや寄生虫由来の様々な食中毒を引き起こす実は大変危険な食べ物である。少し前にとある焼肉店が生肉食を提供して死者を出したため、法規制の強化や啓蒙活動が進められた。そのことで豚肉はじゅうぶんに加熱しなければならないということが一般常識として広まったはずなのに……。

 

 しかし次に出された料理は、無慈悲にも一般常識に反するものであった。縹と桜芽の母に出されたのは厚切りの、よく火が通されたトンテキであったが、桜芽の目の前には桜色の塊がドンと置かれたのである。

 

「肩の肉でございます」

 

 途端に、桜芽の眼の色が露骨に変わった。

 

「来たわキマシタワー、これよこれ! この赤身と脂身のコントラスト……」

「あの、橘さん」

 

 桜芽は行儀悪く両手で肩肉を掴み、豪快にかぶりついて身を食いちぎった。

 

「んっ、んっ、んふぅぅんん!! おいひぃぃぃいいい!!」

 

 咀嚼しながら恍惚の表情を浮かべ絶叫する桜芽に、縹はドン引きした。清楚なお嬢様の姿はもはやどこにもない。むしろ漢文の授業でやった『鴻門の会』で項羽に差し出された豚の肩肉を食らう豪傑樊ロ會(はんかい)そのものである。

 

「たっ、橘さん! 食中毒になってしまいますよ!」

「久しぶりの生肉!! あああああ……タマリマセンワー!!」

「だめだ、聞いちゃいない……」

 

 桜芽の母に助けを求めようとしたが、逆に「大丈夫ですわ」と返された。

 

「この子は体質が少し特殊でしてね、私たち常人と違ってありとあらゆる毒素が効きませんし、有害な寄生虫が一切生存できないのです」

「えええー……」

 

 縹はナイフとフォークを持ったままでしばし固まってしまった。

 

 今日は空から豚が降り、不審者に生命を狙われて、さんざんな目にあってきた。しかしそれも橘桜芽という異形の存在の前では霞んでしまう程である。

 

(私はとんでもない人間、いや怪物と関わってしまった……)

 

 もはやトンテキの味がわからずゴムを噛んでいるような気分に陥っていたが、食事はまだ続く。次に出されたのは豚丼である。ご飯が埋もれるほどに豚肉が盛り付けられていたが、この時点で縹は食欲が失せており食べ切れる気がしなかった。

 

 しかし出されたからには食べなくてはいけない。無理にでも箸を動かそうとしたとき、

 

「ウソでしょ……」

 

 桜芽に出されたのは丼モノであったが、豚丼ではない。巨大な丼に無造作に盛り付けられたものは、なんと豚の内臓一式であった。グロテスクなそれらを見てしまった縹は食べたものを一瞬、逆流しかけた。

 

 桜芽はヨダレを垂らしていて、目つきは彼女の後ろに鎮座しているヒグマの剥製のそれと全く同じになっていた。

 

「こっ、ここが一番美味しいところなのですわ……」

 

 桜芽は褐色の肉塊を手に取り、高々と掲げた。肝臓、即ちレバー。生で食すると食中毒発症間違いなしの超危険部位である。

 

 桜芽は肉の脂とヨダレでテカっている唇から舌を突き出して、レバーをチロチロと舐めはじめた。その仕草は狂気的で扇情的ですらあったが、縹は恐怖感しか抱かなかった。

 

「いただきますう……」

 

 舌でしばらく弄んだ後、桜芽は大きく口を開けてレバーに噛み付いた。咀嚼するごとに目が血走っていく。

 

「んっ、はぁうっ! んああああああっ! おっ、おっ、おっ、おいひぃぃいいいですわああああ!!!! あはぁんっ、あっあっ……」

 

 いわゆるアヘ顔状態で、桜芽は身をビクンビクンッと震わせた。

 

「うっ、うーん……」

 

 衝撃的な光景の連発に脳が絶えきれなくなった縹は、とうとう意識を手放して椅子から崩れ落ちてしまった。

 

「あらあら、ちょっと刺激が強すぎたかしらね」

 

 桜芽の母の呑気な声が、縹の耳に届いた最後の言葉であった。

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