第1話 中学最後の4月
「おっはよー!」
晴れ晴れとした青空に、眩しい太陽、あとセーラー服。
おはよう、と返した。
この一瞬で、俺は青春を謳歌しているということを実感した。
「……鞄は?」
「やばっ!かばんわすれたーっ!!」
「お、おう……」
周囲も気にせず叫びながら、ドタバタと走っていくことで、制服や髪は風に揺れる。いつも通り朝から元気いっぱいであることに、自然と笑みが零れた。
普段は背伸びしようとしている女子が、子どもらしい一面を見せるのはグッとくるものがある。
「あの人は……?」
今年も春が来た。
そして眩しい太陽に、雲がよぎった。
たとえ俺がどれだけ過去を振り返ろうとも、時間は残酷に未来へ進んでいくし、そもそも俺なんかがいなくたって世界は回り続ける。それでも社会では時間を守ることが求められる。刻一刻と遅刻までのカウントダウンが始まる。
ていうか、焦る頭を軽く振って冷静さを取り戻す。
「じゃあ、行ってくるでありまーす!」
たしか、あれは総武高校の制服だったか。彼女が満天の笑顔とあざとい敬礼を見せている相手は、年上の男子生徒だ。今まで浮いた話はなかったはずだけど、たぶん我が中学の卒業生と付き合っていたなんて。
脳内で、黒髪・アホ毛・腐った目の男子を検索する。
―――前世の記憶が思い出され、いろいろな人と混同することにやはり俺は。
「おまたせっ!」
さっきまで大きく手を振っていた彼女が、隣に来て。
やがて首を傾げた。
「どったの?」
「いや、なんでもない。」
気にはなるけど、『さっきの誰?』だなんてここで聞いてしまったら、まるで彼氏彼女の関係みたいではないか。もし仮にそんな度胸があったのなら中学3年目の今日に至っては、すでに1度は告白して玉砕した経験があるだろう。
残念ながら、俺も他の男子も玉砕することは確定だ。
その要因も知っている。
「それ、なにかあるって言ってるようなものだよー?」
腰に手を当ててかかとを上げる。
中3の男女の身長差はそれで補うことができる。
だから結果的に、俺は顔を背ける。
「はいはい、ごまかさないの!」
とこっ、とこっと、ローファーで地面を叩く音が2度。
俺は、2歩後退する。
「はぁ~」
やれやれとした表情で、彼女は大きな溜め息をついた。
女子はなんでそんなに距離を詰めることができるのだろうね。最近増加している草食系男子としてドキドキしてしまうのだが、理性で抑え込む。なぜなら勢いあまって告白したあいつのように『えーと……ごめん、すきな人がいるから。』で玉砕するから。
男子みんなで『お前はよくやった』ってあいつを慰めていたけれど、周囲の女子の目を気にしてくれ。比企谷さんが数人の女子と共に教室から避難していったのだけれど、ちゃんと見てくれ。
「まーた、考えごと? まったくもう」
お兄ちゃんみたいになるよーって彼女は忠告してくれる。なにそれ、必勝法じゃないか。このままの俺でいいじゃん。
「まっ、ムリには聞かないよ」
隠し事だらけの俺が秘密を付け加えただけに、呆れられる。引き際も心得ているなんて、コミュ力がカンストしているな。
「そういえば。今日ってゆっくり登校してるんだ?」
「まあ。溜まっていた仕事ようやく終わったし。」
ここでいう仕事とは生徒会関係の業務だ。高校に比べて中学校の学校事務員が少なく、また生徒の主体性を向上させるために特別活動の一環として生徒会が存在する。唯一投票で選ばれる生徒会長に関してはいわゆる人気者だが、俺たちは社畜スキルを将来得るだろう下働きである。元々、学級委員を経験していた人が多い。
「あはは...いろいろ任せちゃってごめんね?」
新学期早々、学校行事や委員会関連の書類が山積み。
本来、中学生だけでは厳しかっただろう。
「いいよ。比企谷さんって朝に家事やって来ているしな。」
「そうそう。お兄ちゃんのお世話でいそがしいんだよ。」
例えば、遠足。
普段の昼は給食なのだが、お弁当を持ち寄って学校外で食べる機会だ。その際、『味見して』って言って、超甘い卵焼きを持ってきた。特に家庭の味が出るのは味噌汁・カレー・卵焼きの3種なのだ。ていうか俺の中では、卵焼き作れる=料理上手なのかよ。
ともかく比企谷さんの家事の腕は、彼女の年代では非常に高いと言える。
ちなみにうちの姉も料理上手なのは確かだ。これは自分の仕事だからと言って、彼女はキッチンを譲らない。妹との遊びを俺は引き継ぐことしかしない。
「たしか、去年の春だよな。」
「あー、事故のこと?」
「そう。」
「今じゃ、ピンピンしてるよー?」
下駄箱で靴を履き替えながら、独り言のように呟いた。
「本当によかったな。」
「……そだね。」
交通事故は1日に必ず日本のどこかで起きるほど、頻繁に起こる。しかし、自分自身または近しい者が遭った時、交通事故というものを実感することになる。最悪の場合は死に至り、たとえ生きていてももう歩けなくなる可能性もある。
「ま~、お兄ちゃん的にはもう気にしてないみたいだけどね。」
飼い犬を助けるために飛び出したとかなんとか。でも深く聞くことはしない。今は穏やかな安心感を得ているが、一時期不登校になり兄のお見舞いに通っていた。兄と大喧嘩したのだと伝えてきてから、もう1年。
俺がこの世界に来て、もう1年。
「大志君もさ、気を付けなよ。」
「ああ。そうする。」
今年は、俺にとって何度目の春というべきなのだろう。たぶん姉を泣かせ、たぶん妹を心配させ、たぶん両親に迷惑をかけて。まして本当の両親にも別れを告げることができないままで。
「今日もお兄ちゃんがだいじょーぶか、確認してきたの。」
「徒歩?」
「ううん、自転車。」
「……似てなくない?」
彼氏だと思っていた人が兄だった件。
今のところ、まじで勝ち目ないな。
「あれ、会ったことなかったっけ? この中学にも通ってたんだけど……あっ!」
それって、俺が俺じゃない時だよな。
「でもまあ、お兄ちゃんにとっては黒歴史も多いわけでして。知らないほうがいいかもね。」
確かに、悪評をばら撒いていたという噂は聞いたことがある。なぜなら古株の教師が『やっぱりお兄さんとは違うね。』と彼女に告げる。それは彼ら彼女らからすれば、褒め言葉の1つなのだろう。
「別に。人から話を聞くよりも、本人に会った方が手っ取り早い。」
褒め言葉を言われる度に、彼女が苦笑いを作って表情を誤魔化していることを俺は知っている。ていうか、挨拶に行くと考えるといつかは会うことになるし。
「えー、会わせたくないんだけどなー?」
えへへ、と笑顔を見せてそう告げた。
その要因が彼女の兄にあるということはわかっている。やっぱこの娘、お兄さんのこと好きすぎるでしょ。兄妹って上手くいかないことも多いだろうし、どれだけ素敵な人なのやら。
あ、そだ、と呟いた。
「えっとね、さいきんさ。お兄ちゃんの帰りが少しおそくなってるんだけどさ」
「ふむ?」
相づちを打とうにも、まだまだ話がつかめない。
「たぶん文化部で、確かほーし部? まあよくわかんないことやってるらしいんだけど、入ったみたい」
「本人もわかっていないんだな。」
奉仕なら、ボランティア部とか、だろうか。
ガッサの胞子なわけないだろうし。
「うーん、この前……クッキーいっぱい食べたから、お腹痛いって言ってた!」
何の部活なんだ、一体。
まあ、比企谷さん本人が嬉しそうだからいいか。
でね。とようやく本題に入るらしい。
「お兄ちゃんも帰りが遅くなるし、生徒会にいる時間が長くなると思う。いつも遅くまでやってるんでしょ?」
「まあ、18時までには帰ってるよ。」
家事はもちろん、部活とか塾とか基本的にないし、俺が一番の暇人まである。いや、家にいる時間を減らすための、逃げ道にしているだけか。
「お姉さんと妹さんいるんだっけ。」
「ああ。俺には勿体無いくらい、よくできた姉と妹。」
「うーん。そうかなー?」
重そうな鞄を後ろ手で持ち、振り向いた。
「大志君って男子の中でも大人って感じで、小町的にポイント高いと思うけどね。」
なんだよ、俺の評価いつ上がったし。ポイント数値化してくれないからいつ告白すればいいかわからない。意気地なしな自分が嫌になってくる。あーでも最大のライバルがいる限り、玉砕することは間違いなしだ。
「お兄ちゃん、もう学校着いてるかな?」
チャイムの音ともに、喧騒の教室へ入った。
今日も青春のうちの1日が始まり、過ぎ去っていく。