完璧さを求めることの多い雪乃先輩的にも、満足のいくカレーだったらしい。与えられた材料的にアレンジが加えられないこともあって、素朴な美味しさだった。また、けーちゃんのことも考えてくれて、甘口と普通で別々にカレーを作ってくれたことも感謝している。
給食のみそピーとか麦芽ゼリーとか、そういう千葉ローカルネタには内心冷や汗を流しながら、俺は夕食後の雑談を聞いている。姉さんは先に、うつらうつらとしていたけーちゃんをおんぶして宿舎まで戻っていった。
「ねぇ、大丈夫かな……?」
結衣先輩が憂わしげな表情をして、呟いた。
その視線の先には、八幡先輩がいる。
「なにか心配事があるのかね?」
先輩が答えるより先に、煙草を持って黄昏れていた平塚先生が尋ねた。
「まあ、ちょっと、孤立しちゃってる生徒がいたんですよ。」
「ねー、かわいそうだよね。」
葉山先輩が答え、三浦先輩が直感的な感想を言う。
小学生の集団で少し気になる子がいたらしい。
最近はよく聞くようになった『いじめ』という言葉が、頭をよぎった。
「いや、葉山。孤立しているというよりは、孤立させられているんだ。」
「はぁ?なにが違うわけ?」
三浦先輩に睨まれて、先輩ビビってる。
「好きで独りでいるやつもいれば、そうでもないやつもいて……ということでしてね、はい。」
自らボッチになることを選んでいるらしい先輩と違って、その子は繋がりを求めているということか。
まあ、人間だれしも孤独を感じる時は繋がりを欲する。
先輩もいつか求めることになると思う。
「なら。誰かと友達になって、それで……」
葉山先輩が言い淀んだ。
それで解決するのなら、ここまで悩むはずはない。
「ううん。隼人君が思ってるほど、女の子は一筋縄ではいかないよ。裏で、いろんなんな思惑が交錯しているから。」
海老名先輩がどこか落ち着いた雰囲気を持って、語る。
「それまじ?」
「え、そうなん?」
戸部先輩とか、三浦先輩とか、この2人って表裏なさそうだからな。
「ふむ。それで、君たちはどうしたい?」
大人の余裕を醸し出しながら、平塚先生が尋ねた。
ボランティアとはいえ、それは管轄外なのだろう。
俺たちは一期一会の中高生であり、小学校教師に伝えて依頼すればいいことだ。『いじめ』という問題は、迅速かつ慎重に、そして長期化することも覚悟しなければならない。
下手に行動すれば、悪化する可能性もある。
「俺は……できればなんとかしてあげたいと思います。可能な範囲に限られますけど。」
葉山先輩が先生と目を合わせることなく、告げる。
この場にいる俺たちに『逃げ道』を残した。
成功するかについて、不確定なのは確かだ。
「あなたでは無理よ。そうだったでしょう?」
雪乃先輩の凛とした声は、再び静寂をもたらした。
冷たい視線が葉山先輩に突き立てられる。
虫の奏でる音が、やけに寂しさがある。
「……今は違う。」
「どうかしらね。」
この場では2人にしかわからない、遠く過ぎ去った過去のことだ。それでも、過去を忘れてはいない。
「平塚先生。1つ確認したいことが。」
「なんだ?」
「この案件は、奉仕部の活動内容に含まれるのでしょうか?」
雪乃先輩が事務的な質問をした。
奉仕部は、先輩たち3人の所属する『助っ人』部だ。
先生は一度、煙草を吸って吐いた。
「君たちの今回の活動は、林間学校のサポートというボランティアだからな。小学校側からは具体的な活動内容を指示されているわけではないから、部活動の範疇に入れてもよいだろう。」
「はい。わかりました。」
淡々とした会話が続いた。
俺には違和感が残った。
奉仕部の活動ということに、なぜこだわった?
「私は、彼女が助けを求めるのなら、あらゆる手段を持って解決に努めます。」
そう言い切った。
決して捨て身になったわけではない。どんな厄介事も全部受けて立ち、自分自身が行動に対する責任を持つと宣言し、限られた時間で解決してみせるという気概を感じる。
とてもまぶしい。
「で、本人からは助けを求められているのかね?」
「それは……」
その前提がある場合でないと、『お節介』になるかもしれない。
「あの子、言えなくても言えないんだと思います。」
「誰も信じられない、とかか?」
言い淀んだ雪乃先輩のフォローをするように、結衣先輩が告げる。
黙していた先輩も口を開いた。
「ヒッキーの言う通りそれもあるかもしんないけど。でも、留美ちゃんさ、言ってたじゃん。今までもハブるの、結構あったって。自分もその時はその子と距離を置いたんだってさ。」
えっと、と呟きながら結衣先輩は適切な言葉を探す。
「だから、自分だけ助けてもらうのは気が進まないんじゃないかなって。」
たぶん、留美ちゃんは優しい子なのだろう。
結衣先輩が、昔も今もそうだったように。
「たとえ傍観者になった過去を持っていたとしても、今この瞬間はその女の子が被害者だと思います。」
俺がそう呟いたら、一気に視線が集まる。
たぶんこんなことを言う俺は中学生っぽくない。
「俺的には、必ず成功するなんて言えるほどの自信はありませんけど。」
それでも、だ。
伝えるべきことを伝えたい。
「でも、良いきっかけを作りたいって思います。その子たちよりちょっと年上の俺たちだからこそ、できることがあるかなって。」
変われるかは、その子たち次第だ。
「……その子を助けてあげたいんだとか、そういうんじゃなくて、俺は変わるきっかけを作りたいと思います。」
俺なりに、言い切った。
雪乃先輩が頷いて、同意を示してくれた。
「……平塚先生。彼女には変わりたいという思いがあると、私は思います。」
「わかった。それならいいだろう。」
平塚先生が煙草をもう1本つけながら、告げる。
「さて、雪ノ下の結論に反対の者はいるかね?」
誰も挙手をすることはない。
もちろん、この雰囲気に乗るだけの人もいるだろう。
「よろしい。では、どうすればいいかを君たちで考えてみたまえ。」
「手伝ってくれないんすか?」
「何を言う、比企谷。君たちは意を決したではないか。」
いまだほとんど吸っていない煙草を持ったまま、席を立った。
「私は寝る。もしも何かあった時には、何か言いたまえ。」
つまり、雪乃先輩の代わりに責任を取るということ。
背中で語る系教師がかっこよすぎる。
****
蛍光灯には虫が寄りつき、夜が続く。
『鶴見留美はいかにして周囲と協調を図ればよいか』という議題が設定された。1人ずつ友人を増やしていくことやレクリエーションで仲良くなるとか、ぽつぽつと意見は出たものの、これといった案は出なかった。
そもそも、判断材料が少なすぎる。
そのクラスの現状を、俺たちは何も知らない。
昼には小学生たちがドッタンバッタン大騒ぎだったな。
そんな今日の激動だった1日を思い出すのなら、やっぱりけーちゃんがこの世で一番可愛いっていうことだ。
「そろそろ出てきたら?」
雪乃先輩が呟くように、俺に伝える。
……現実逃避を辞めるか。
通りがかったのは目に入っていたらしい。
「いや、別に。あんまり聞いてないですからね?」
三浦先輩の『上から目線が気に入らない』と主張に対して、具体的に挙げさせたくらいだ。決して彼女に劣等感を与えたかったのではなく、雪乃先輩が今まで行ってきた『努力』を冷静に示しただけだ。
好意的に思っている葉山先輩と釣り合わないことを示されたことで、乙女らしく大泣きである。成績でトップを競い合っているらしいし、世間的に見れば雪乃先輩と葉山先輩ってベストカップルだからな。雪乃先輩は、どこか嫌っているけど。
「幻滅したかしら?」
夜風にたなびく綺麗な黒髪は、物語のお姫様のよう。
孤高で、孤独だ。
「しないですよ。」
「……嘘は、言っていないようね。」
彼女が珍しいものを見るかのような目が向けたのは、たぶん10人もいないだろう。
「あの子も、被害者なのかしら?」
「まあ、事実から言えば。」
最近は『いじめ』という言葉が口に出ただけで、教師陣で対策することが求められる。他クラスや他学年、家庭環境が影響している場合もあり、SNSを含めて情報収集だけで時間が過ぎていく。
「私も、そう思ったことはあったわ。」
留美ちゃんの現状に、当時の自分を自己投影しているのだろうか。
「傍観者だった彼女も由比ヶ浜さんも、悪いことをしたわけではないわ。先に『上手く生きる』ことを身に着けただけなの。それが世間一般で言えば、褒められたことでないとはいえね。」
それが、社会性ということ。
みんなが仲良くできる理想はそこにはなく、上手く付き合うことが高頻度で求められる。学校は、社会の縮図だ。小学生の頃から空気を読むスキルを身に着け、難癖をつけてまで劣っている人間を作り出す。
『いじめ』はいつか必ず起きるものだ。
それが、たとえ嘘と欺瞞であっても。
「軽蔑や嫉妬をしている彼ら彼女らも、人なのよ。そして優れた人ほど、この世界は生きづらいわ。」
どこか達観しているように思っていた。
彼女も過去に囚われているのだろう。
「そんなのおかしいと思わない?」
その質問に、答えられなかった。
たぶん、彼女は同意を求めている。
「それは……」
まちがいだらけの俺が答えていいのか。
「……変えるべきだと思わないかしら。人ごと、この世界を。」
同意を求める問いを重ねた。
世界を変えるだなんて、スケールが大きすぎる。
「人は……、わかり合えないものだと、俺は思っている。」
星を見ながら話していた雪乃さんが不思議そうに、俺を見た。
「綺麗事は言わないのね。意外だわ。」
対等に接することのできる存在を見つけることができた、そんな表情だ。でも、俺は彼女たちを騙しているだけだ。
「持論だけど、人はコミュニケーションのやり方を日々学んで……いつだって、どんな人とでも、上手く付き合うように、頑張るんじゃないか?」
いつからか俺が知ってしまった『現実』だ。
諦めて、もう受け入れてしまった。
「……どうしてかしら。」
まっすぐ見つめてくるその目は、『否定的』だ。
「あなたと話していると、姉さんを思い出したわ。」
雪ノ下姉も『現実』を知っているのだろう。
それでいて、まだ抗っている。
「大人びている、落ち着いている……、そういったことを昔から私や姉は言われてきたの。」
俺も、神田さんをはじめとする周囲の人に言われた。しかし俺は今も凡人のままだ。
そして、と彼女は言葉を紡ぐ。
「こうも言われてきたわ。あなたは本当に中学生なのかしら、と。」
問われた気がした。
嘘を言えば、すぐにばれる。
「ああ。俺もよく言われる。」
一度、息を吸った。
「あなたも特別」
「いいや。優れた才能も特別な力も、何も持ってはいない。」
言葉を重ねてしまったが、もう止まることはできない。
「……それで?」
はぐらかすことをこの少女は許容しない。
「本来この世界に存在しないことを自覚していて、それでも生にしがみついている。そんな、おぞましい化け物。それが俺だ。」
俺は、偽物だ。
「……非科学的なことだけれど、あなたは幽霊だとでも言うのかしら?」
「そう言われてみれば、それもあてはまるかもしれない。確かに俺という存在は、川崎大志というありふれた人間の、かけがえのない人生を奪った亡霊だ。」
だから、最期まで償わないといけない。
「そう……」
顎に手を当てて、何かを思考している。
こんな説明では、わからないだろう。
あとは、俺は『転生者』なのだと、叫ぶだけ。
―――知ってもらって、俺は何がしたいんだ……?
「……軽蔑するか?」
ちがう。
まちがえた言葉を、口に出てしまう。
わざとまちがえただけだ。
拳を握りしめる。
結局、俺には駄目だった。
「本心で軽蔑してほしいと言うのなら、軽蔑するのだけれどね。」
彼女から、俺に近づいた。
彼女との身長差はあまり存在しない。
「私には、まだあなたのことがわからないわ。でもこれだけは言える。」
月明かりに照らされた黒髪は、美しくて儚い。
「こんなに震えている後輩を心配しないわけがないでしょう。たとえ、あなたが何者であってもね。」
頬に手を当てられて、涙を拭われる。
「あなたの『依頼』、私が受けてあげるわ。」
俺は、否定されることが怖かったんだ。
先輩は、優しすぎる。
「その秘密を誰かに伝えたいのだと、心の底からあなたが思う時を、私が待ってあげる。」
ここで返す言葉は、お礼じゃない。
一歩踏み出すための、『きっかけ』だ。
「おれ……」
「……その役目は、私でなくてもいいのでしょうね。」
とうとう彼女は背を向けた。
タイムリミットは迫っている。
「いえ……おねがい、します」
依頼できた。
待たせている女性が1人、すでにいるけれど。
「……ええ。がんばって。」
立ち止まって、ちゃんと伝えてくれた。