気まずそうなのは、雪乃先輩もらしい。猫の頭から手のひらを離して、惜しみながら離れる。そして、緩んでいた頬から、いつもの冷静な表情に戻した。
一度咳払いして、こちらへゆっくりと歩いてくる。
「あら、奇遇ね。ヒキタニ君。」
「お前もそう呼ぶのかよ。夏の暑さにやられたのか?」
「あなたの方こそ、まるで屍のように歩いていたわね。」
いつも通りの『言葉遊び』に、雪乃先輩はくすりと笑みを零した。日陰で休んでいた雪乃先輩の方が俺たちより平然としている。
「川崎君も合宿以来ね。」
「はい、お久しぶりです。」
先輩の持っているバッグを見て、彼女は顎に手を当てた。そのクリーム色の手荷物は『先輩らしくはない』。
「これから、昼食のお買い物?」
「ああ。」
「そう。」
もう、会話が途切れるのか。
「……じゃあな。」
「ええ、さようなら。また夏休み明けに。」
てか、次に会うのは夏休み明けかよ。
結衣先輩が真ん中に入っていないと、こうなるのか。
「少々お待ちを。」
「なにかあったのかしら?」
ちょこんと不思議そうに首を傾げている仕草は、様になっている。
「雪乃先輩は、お昼はどうするので?」
「昼食については、私もこれから買い出しに行くつもりよ。」
今は、1人暮らしだったはずだ。
チャンス。
「奇遇ですね!ご一緒しませんか、先輩と!」
「いや、なんで俺となんだよ……」
小町に急いで連絡を取る。
『雪乃先輩、出会った
一緒に買い物行って、ごはんたべるでおk?』
あまりいい文章ではない。
でも、意味は伝わるはずだ。
すぐに、『グッショブ』を示すスタンプを受信した。
「小町さんもいいみたいです、雪乃先輩。」
「どうして、小町さんの許可が必要なのかしら?」
こめかみに手を当てて、結衣先輩と話すときの目をしている。
「えっとですね、小町さんのご両親って共働きらしくて、俺もお邪魔させてもらってます。」
「……そう。それなら同伴させてもらうわ。」
先輩の意志を無視した行動ではある。でも、先輩が小町に向けるような『やれやれ顔』をするくらい、俺はポイント稼ぎをできているようだ。
最近、かなり影響されていると自分でも思う。
「あっ、先輩の家って猫いますよ。」
「急ぐわよ。」
即答である。
1人暮らしということもあって、猫を飼うことを躊躇っていると言っていたはずだ。執事やメイドさんがもしいたなら、家は猫カフェになっているだろう。
まあ、1人暮らしをしている理由を、俺は聞いたことはない。
「雪乃先輩は夏休みどうお過ごしで?」
あまりに会話がないものだから、俺が話題提供するしかない。急ぎ足だった雪乃先輩も次第に、減速し始めた。あまり体力のない人だからな。
「予備校に通うくらいかしら。それ以外は、家で読書よ。」
「雪ノ下もいたな、そういえば。」
「ええ。偶然、いえ不幸にも、同じ教室になるとはね。」
それと、と雪乃先輩が言葉を紡ぐ。
「初めて授業態度を見たのだけれど。あなた、いつも猫背なのね。」
「余計なお世話だ。」
「川崎さんは姿勢がいいわね。比企谷君も見習いなさい。」
予備校にはうちの姉も通っているのだが、顔見知り3人同じ教室で講義を受けている状態か。
ちゃんと、視界には入れている。
「このままだと、さらに目が悪く……いえ腐るわよ。」
「おいおい。これ以上ゾンビになるのかよ、俺。」
現在10時半。
スーパーに着くと、すでに人で賑わっている。
とりあえず、小町やけーちゃんに、お昼ご飯のリクエストがあるか聞いてみるか。そう思いながら、俺は携帯をポケットから出した。
「ここ、来たことないのか?」
「ええ。いつもは、家のもっと近くだから……」
雪乃先輩は、きょろきょろしていた。
お爺さんやお婆さんから子供まで。
もちろん、家族連れも多い。
「……どうした?」
普段行ったことのないスーパーだからだろうか。
立ち止まっていた雪乃先輩に、先輩が声をかける。
「いえ、行きましょう。」
「はいよ。」
慣れた手つきで先輩が、カートに籠を放り込んだ。
「で、何にする?」
「お邪魔する側としては、希望を聞いた方がいいと思うのだけれど。小町さんは何がいいかしら。」
「それなら俺の希望はどうなるんだ。いや、別にいいんだけどよ。」
野菜売り場にたどり着いた。
雪乃先輩は顎に手を当てて、ふと思いついた顔をする。
「比企谷君、何が嫌いかしら?」
「言ってたまるか。そう簡単には引っかからん。」
「あら、弱点は克服するべきだと思うわよ。」
ピーマンを手に取って、先輩の反応を雪乃先輩が確認した。
「いぬ……」
「別に嫌いとは言っていないわ。苦手なだけよ。」
「俺は人は無理に変わらなくてもいいと思うんだ。雪ノ下的には、苦手は克服すべきか?」
猫大好きだけど、反対に犬は苦手なのか。
彼女はちらりとこちらを向いて、ニコニコと微笑む。
「ところで、大志君は何がいいと思うかしら?」
交渉を持ちかけてきた。
バラすな、ということか。
「しいて言うなら、あっさりしたものが良いですね。あと、けーちゃんはあまり苦手な食べ物はないです。」
うちの妹、ピーマン食べれるって偉くないか?
料理上手な母親と姉のおかげだ。
「なるほど。妹さんも来ているのね。」
みずみずしい赤のトマトを、彼女は手に取った。そして、傷んでいないかどうか、ちゃんと確認している。
「それなら。パスタにしましょうか。」
「……トマトで、か?」
先輩、表情がヒクついている。
雪乃先輩は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ええ。新鮮なトマトをたっぷりと使ってね。」
「待て。あれだ、小町の希望を聞いてだな。」
先程打ったメッセージに、ちょうど返信があったようだ。
「小町さん、『冷たいやつならなんでも』、らしいです。」
「なんでもって。小町のやつ……」
「幸運にも、冷やし中華やそうめんであっても、トマトを使うことは可能よ。」
テキパキと野菜を選んだあと、鶏肉を吟味している雪乃先輩は、どこか生き生きとしている。
「……ったく」
意を決した表情の先輩も、雪乃先輩にもう反対はしない。時折り、調味料があるかどうかを尋ねられた際には、ちゃんと答えていた。
まあ、優しい雪乃先輩のことだから、策があるんだろう。同級生や後輩と過ごす夏休みは、先輩にとっても雪乃先輩にとっても初めてということだ。誰かのために料理をして、誰かと一緒に食べる、そんな経験が彼女にとって多くはない。
****
住宅街の中に、ありふれた家がある。
表札には『比企谷』という珍しい苗字。
「いらっしゃいませー!ささ、雪乃さん、どうぞこちらへ!」
「お邪魔するわね。」
雪乃先輩は小町に大歓迎されて、リビングまで導かれている。
「たーちゃん、おかえりーっ!」
「ワンッ!」
すっかりサブレと仲良くなった妹が、抱っこを求めてきた。サブレのお姉さんをしていたけーちゃんも、甘えたい時はある。
掬いあげるように、しっかりと持ち上げた。
「か、カマクラ、カーくん……?」
「ふんすー」
「……にゃー」
リビングに行けば、雪乃先輩と猫が見つめ合っている。
いつか、猫語学を修めそうなくらいだ。
俺はけーちゃんをソファへゆっくりと下ろして、その隣に座る。のそのそと、サブレもソファに上がってきた。カマクラ含め、ペット2匹ともよく人に懐いている。
「雪ノ下、これどうするんだ?」
「そうね。まずはお料理してからよね。」
袋を両手に持った先輩に、呼びかけられた。
「……待っていて」
キャットフード選びが一番時間がかかっていたと思う。
名残惜しそうに、雪乃先輩はキッチンまで行った。といっても、リビングと併設されているタイプだから、2人の声は聞こえてくる。雪乃先輩も、使い込まれているけれども綺麗なキッチンに感心しているようだ。
「ポン酢?寒天? んなもん、何に使うんだ?」
「今日は気分が良いから、いくつか教えてあげるわ。あなた、専業主夫をまだ志しているのでしょう。」
「……カレーと、焼肉のタレ野菜炒めなら、俺にもできる。」
「それは、最低限一人暮らしができる程度ね。まずは、鍋を出して。」
「はいよ。」
小町や俺も手伝おうとしたが、2人に任せて大丈夫なようだ。
「雪乃さんとお兄ちゃんが……我が家で料理……うぅ……」
どこか姑さんっぽい。
小町が涙を流す仕草をする。
「これで小町も安心してお嫁にいけるよぉ……」
「えっ、ああ、そうだな。」
珍しく動揺する俺に、けーちゃんは首を傾げる。
小町は、えへへって笑った。
「いつもお兄ちゃんと2人で食べてるんだけどね。でもたまにこういうのがあると結構、小町的にはうれしいわけですよ。」
兄弟姉妹がいてくれるというのは、共働き家庭においてはありがたいことだ。そのことは俺も実感している。千葉の兄弟姉妹は仲が良いからな。
「……まだ夏休みは続くからな。また今度、勉強会でもしよう。」
「うんっ!」
草食系男子の俺から誘うことは、あまりない。
それでも、踏み出したいとは思っている。
「お昼食べにくるだけでもいいからね。」
「ああ。それは楽しみだ。」
「まあ、雪乃さんみたいに、おしゃれにはできないんだけどね。」
「姉さんも和食中心の家庭料理だしな。ていうか、俺の好きな物は、美味しいもの全般だ。……今は食べる専門だけど。」
トマトの冷製パスタ、そこにポン酢ジュレ。雪乃先輩の料理が本格的すぎるし、小町も普段から料理をしている。俺も姉さんの料理、今度から手伝おうと思った。
「俺も、自炊はできるんだけどなぁ」
「じゃあじゃあ!小町が教えてあげるよ!」
家事を率先してやるのって、ポイント高そうだ。教えたがりな彼女の応援もあることだし。