第23話 季節は秋へ
総武高校と同じく、中学校でも新学期が始まっている。
日中はまだまだ暑さを感じるが、夕暮れになると過ごしやすくはなる。こんな時期に運動会をしたくはないというのは本音だが、学校によっては行う。まあ、そういった目ぼしい行事は一学期に行っていて、俺たち中3は受験に向けて、追い込みの時期に入ろうかとしていた。
「む~」
鎌倉幕府の成立が1185年に、いつからそうなったのだろう。
教科書に記されているから、教師はそれに従って教え、俺たちは受け入れるだけだ。いや、まあ、理系としては1㎏やモルの再定義についてはがっつり調べた。
あれこれ考えつつ、年号について頭を抱えながら、暗記をしている。
「大志君」
そんな俺へ、小町が指でちょんちょんと肘をつついてきた。
「これ合ってるー?」
ワークブックを手渡されたのだが、今日の課題の範囲のようだ。
円錐の体積という、同じ数字を扱うものであっても、今この場で答えを出せばいいだけあって、気が楽である。分数で計算結果が残るからこそ、小町同様少し心配になるが、さっき自分自身で何度か計算し直した。
「俺もこの答えにはなったな」
「やたっ!」
他にも各自勉強しているから、小さく歓喜の声を漏らした。
こうしてすでに受験勉強をがんばっている人もいることに対して、まだ大丈夫と言っている人もいる。いまだクラスでも温度差はあり、全体的に良い方向に向かうか、悪い方向に向かうか。
まあ、いつも放課後に、神田さん含めて俺たちがクラスから、この生徒会室に避難していることから、察してほしい。
「風、強くなってきたねー」
「なんだか心配ですよねー」
小町の呟きに対して、後輩女子が相槌を打つ。そして、誰もが自然と窓の向こうの曇り空を見ていた。遠くの木々が靡いており、窓がガタガタと音を立てることもある。
もう姉さんやけーちゃんは家に帰っているかのどうか、ふと気になった。
「台風っていつからだっけ」
携帯ですぐ調べられるだろうが、考え事をしていた小町が思い付いたように言った。
「今日の夜中くらいから」
国語便覧に視線を向けたまま、神田さんが呟くように告げる。
「へぇ、台風来てるのか」
いつもの規模の台風であれば、家にいれば大した問題ではないから、秋葉も特に気にしてはいないようだ。むしろ平日に来れば、臨時的に学校が休みになるイベントにもなる。
「これからひどくなるなら、帰った方がいいかもな」
我らが生徒会長の秋葉の提案に頷いて、帰る支度を各自始めた。
放課後になってからまだ30分程度であり、日の入りの早い冬くらい下校が早い。ともかく、雨が降るうちに帰れることを祈りつつ、最後に出た俺は生徒会室の扉を閉めた。
「これだと、明日は休みですかね」
「それでも、昼からはありそうだな」
うきうきしている後輩男子は、俺の予想を聞いて少し肩を落とした。年相応に、休みを欲しているようだ。
まあ、そういうことは、年齢を重ねても変わらないけれど。
「週半ばの休みっていいものなんだけどな」
「わかりますっ!」
「ですねー」
俺の呟きに、後輩たちが相槌を打った。
変に取り繕っていた頃の俺なら、こんな補足はしなかっただろう。それは、嬉しそうな顔を見せている小町と、再び一歩ずつ進んでいる俺自身のおかげなのだろう。
「バス使うか?」
「うーん、並ぶのも大変だし」
普段は八幡先輩の自転車の荷台に乗せて送ってもらえる程度、学校と比企谷家はそういう距離であり、また、川崎家は歩いて通える程度の距離。
近いのは、川崎家なのだが。
「まあ、送るから」
「だよねー」
よくわかっているようであり、呆れた顔をする。そして、『ありがと』と小町は言葉を結んだ。好きな人のためなら、ある程度の無茶をしたくなるものなのだ。
送り迎えの車があちこちに見られ、バスを待っている行列がある校門前、俺たちは手を振って解散した。さっき神田さんに話しかけられていた4人は、このままバスを待つことになるだろう。
少しずつ強くなっていく向かい風の中を進む。
まだ雨が降っていないことが救いだ。
帰宅ラッシュの時間帯にて、通り過ぎていく車はいつもより多い。もちろん、セミロングの髪が風に靡いている小町を車道から離している。
「生徒会もあと少しかー」
来月には生徒会選挙があるのだが、高校の場合よりもずっと人気投票であるから、基本的に立候補者任せだ。俺たちに残った仕事はせいぜい、新規役員と生徒会に残る後輩たちに引継ぎを行う程度。
この1年は忙しくも充実していた。生徒会活動が終わったのなら、ますます受験ムードに向かっていく。同級生たちはナーバスな雰囲気となっていき、その交流も少なくなっていく。
「最初、歓迎会とかやってもらえたよね」
「ああ。生徒会室でやったよな」
高1となっている先輩たちは元気にしているだろうか。俺たちの中学からは海浜へ進学する人が多い。だから、総武高校に進学するクラスメイトは決して多くはない。まあ、比企谷先輩的に、それはむしろ好都合だったらしいけれど。
ともかく、こうして中学の頃の友達とは、その心の距離も離れ離れになっていくのだろう。それが強制的ではないイベントにしろ。
「ね。受験終わったらさ、どこか行かない?
小町はご褒美がほしいのでーす!」
そういうことを企画するのは、いつも小町だ。
「ファミレス、とか?」
「それだといつもと同じじゃん。小町はもうちょっと遠くにお出かけしたいと思うのです」
つまり、合格発表直後のことではなく、受験終わり~春休み期間中に旅行したいのだという提案なのだろう。決して多くないお小遣いで行くことができ、中学生だけで行ける範囲となると、ディスティニーランドがギリギリか。
しかし、昔から千葉在住の小町なら何度も行ったことはあるから、あくまで安パイな選択肢と言っていた。
「水族館や動物園?」
「うーん、それだと。鴨川とか、上野になるだろうね」
それらもメジャーどころらしく、小町は何度か行ったことがあるようだ。
「まあ、考えておく」
「はーい、コトシツゲットしましたー」
言質(げんち)な。
質問内容について答えを引き伸ばしたことに対して、むしろハードルを上げられた。関東圏の観光先についてよく知らないことが、こうして同級生同士の会話において困る代表例だ。
そして、決して同級生とは言えない事情もある。だから俺は、付きあっている彼女に対してさえ、まだ積極的になれない。
「きゃっ」
急に強い風が来て、小町が小さく悲鳴の声を上げた。
たぶん今回は素だと思う。
少しバランスを崩し、身を寄せてきた。
「ひどくなってきたな」
「うん。今日は雨戸閉めないとかも」
そういう心配をすることが、本当に家庭的な証拠だ。
「お兄ちゃんはもう帰ってるかなー
今日も自転車で行ったし」
「この風だから、さすがに早く帰ると思うけど。文化祭が近いしな……」
それに、台風が予想以上に速度を上げているのだろう。
もう少し夜中という予報だった。
「文化祭かー、高校のだからなんかすごそう」
「俺が経験したのは、わりと小規模だったけどな。文化部発表会というか」
確か、クラスの出し物も、飲食の販売もなかったはずだ。
だから、大学の文化祭の方が記憶に強く残っている。
「お兄ちゃんたちの文化祭はみんなで行こうね」
「ああ。そうしよう」
お互いの声が風の音で聞き取りにくいから、かなり距離を縮めている。すでに俺の家は通り過ぎたくらいで、比企谷家までもう少しというところだ。
小町や姉さんたち、知り合いが無事に帰宅できるように祈るくらい、この世界でも誰かと深い関係性を築いている。この関係性が失われることが、今の俺にはひどく怖い事だった。