修学旅行という特別活動がある。
知識を広げること、集団生活のきまりを守れるようになること、公衆道徳を体験するために行う学校行事の1つだ。その行先によっては、歴史学習や理科学習、さらには国際学習といった目的を付随する場合もある。
とはいえ、高校生活の思い出づくりという意味合いが強い。個人的な経験からなのかもしれないが、むしろ中学校よりも各授業で取り扱うことが少なかったように思える。せいぜい文系科目の授業内で事前学習をほんの少し行うくらいで、普段の授業の進度次第だろう。
「姉さん、忘れ物はないか?」
俺の朧げな記憶だと、2泊3日の修学旅行とはいえ、スーツケースを持って行く人もいたはずだ。女子だとそういう場合が多いのだろうが、姉さんは大きめのショルダーバッグだけ。
「いや、荷物少ないなと思って」
「別に。たった数日でしょ」
あまり大荷物になっても電車や新幹線の移動が大変なのは分かる。姉のフットワークの軽さを再度実感した。
「けーちゃんもいい子にしてるんだよ」
「うん。けーかとたーちゃんでいい子にしてる」
姉さんは優しくけーちゃんの頭を撫でる。
早朝ということもあって、まだまだ眠そうだけれど、お見送りするんだーって言って、がんばって起きた。これから数日は、俺たちだけで過ごすことになるから、保育園へのお迎えも俺がすることになるだろう。
「じゃあ、いってくるから」
「いってらっしゃーい!」
「いってらっしゃい。楽しんできて」
ひんやりと澄んだ空気の外へ出かけていく。
けーちゃんも俺も、大きく手を振った。
しかし、春には俺が行く立場だったが、帰りを待つ側となってみると、心配な気持ちが芽生えてきた。普段からツンが出ていて姉さんだが、押しに弱いところがある。同姓の友達ができたとはいえ、果たして女子高生のノリに付いていけるかどうか。
他にも単独行動をしそうな人がいたな。
「八幡先輩と駅で待ち合わせしたかー」
「うっさい!」
恥ずかしさを隠すように叫び声が返ってきた。
姉さんは荷物を抱え直して、歩いていく。
最寄り駅が同じだから、運が良ければ会うとは思う。俺たちの時の修学旅行と違って学校集合ではなく、東京駅集合であり、新幹線で奈良・京都まで向かう。電車に慣れている総武生ならではなのだろう。
けーちゃんは寂しそうな顔をして、姉さんの姿が見えなくなるまでじっと見つめていた。
「ちょっと早いけど、朝ごはんにするか」
「うんっ! けーかもおてつだいする!」
こうして、頼れる長女がいない3日間が始まった。
****
といっても、それは小町も同じだ。
学校終わりにお泊まりグッズを持って、川崎家までやってきた。実の兄妹とはいえ、けーちゃんとは異性であることに変わりはないので、助かることも多い。
いまだ、完全に割り切っていない俺がいるのだろう。
「たーちゃん、お風呂あがった~!」
「おー、小町にちゃんと拭いてもらったかー?」
リビングのソファで野球中継をダラダラ見ている俺の隣に、ぴょんと座る。
ほてほてした横顔は、ルールもわかっていないプロ野球を不思議そうにじっと見つめている。まあ、俺も、千葉県民なら千葉ロッテマリーンズの試合は少しチェックしておこうかと思ったくらいだ。全試合の結果を確認するほどのファンではない。
そして、案の定まだ完全に髪は乾ききっていない。我が妹ながら、お風呂上り・パジャマ姿・美少女の3点セットというのは、可愛さ数倍増しの効果があると思う。引く手あまたなけーちゃんにいつか彼氏ができると思うと、やるせない気持ちになってくる。
「けーちゃん、まだ濡れてるでしょー」
「はーい」
小町に呼ばれて、2人で絨毯に座り込んであれこれやっている。ぶかぶかのシャツを腕まくりしている小町なのだが、お風呂上り・寝間着姿・美少女の3点セットというのは、可愛さ数倍増しの効果を確信した。
「大志君、ドライヤー借りるねー!」
「ん、ああ」
ちゃんと断りを入れてくるのは、気立ての良さを感じる。自然乾燥させることの多い髪を俺は自分で少し触った。
ドライヤーの音が聞こえ始め、テレビの音はほとんど聞こえなくなる。いつも髪の手入れをしてくれる姉さんがいない。けーちゃんはお行儀よく座って、小町にされるがままに髪を乾かしてもらっている。
弱風に当てられているけーちゃんの表情は普段通り心地良さそうで、俺がするよりずっと上手なのだろう。
だって、そんな表情してくれないもの。
なんか違うなーって表情だもの。
ソファの主であるチーバくんのぬいぐるみを抱え込んだ。猫アレルギーの姉さんや母さんがいるから、比企谷家のカマクラ君はお留守番だ。小町のご両親は、もう帰宅した頃だろうか。
「たいしー、お風呂で寝落ちてたら起こしてねー」
「なんで俺!?」
だって沙希いないし、って言いながら母さんはお風呂場に向かって行った。お客様の小町がいるとはいえ、普段通り、ラフな服装や態度で家をうろうろしている。姉さんや小町はそれぞれの母親に似ているから、女子ってそういうものなのだろうか。
雪乃先輩や結衣先輩はどうなのだろう。
ともかく、土日くらいにしか帰ってこない父さんがいたとしても、川崎家の男性のヒエラルキーは低めである。
「大志君って意外とそうなんだ~?」
「こまち、たーちゃんがどうしたのー?」
どうしてこうも周りの女性陣は、美少女美女揃いで無防備な姿を見せてくるのだろう。小町も家の中だと結構だらだらするタイプであるが、他の家でもラフな行動をするようだ。
いや、それくらいリラックスしてくれていると考えるならば、いいことなのか。
こういうとき、男はスマホや新聞でも見て、はぐらかすに限る。
「姉さん、写真を送ってきてるな」
「みせてみせてー!」
「小町もみたーい!」
小町は、両手が塞がっているからこっちに来て見せろと伝えてきている。こちらの事情をわかっていて言っていると思う。全身が真っ赤なチーバくんには、再びソファの主になってもらう。
俺はけーちゃんの隣に移動し、3人で1つのスマホの画面を覗き込むこととなる。1日目はクラスごとに観光したようで、風景写真の他にも、結衣先輩たちクラスメイトと一緒に撮った写真も混ざっている。たぶんノリに付いていかされているとはいえ、そういう友達がいるようで何よりだ。
「清水寺かー、なつかしいね」
「まあ、有名どころだよな」
けーちゃんが1枚1枚どういう写真か説明を求めてくるが、俺も小町も名前くらいしか知らない。こういう時に、文系として博識な八幡先輩や、雪乃先輩がいると、為になる会話になると思う。
すごく底が深いってジェスチャー含めての説明で、2人ともキャッキャしている。
さて、姉さんにメッセージを打ったが、すぐには既読にはならない。姉さんも女子部屋のキャッキャに巻き込まれているのだろか。それが、恋バナなのか、はたまた、枕投げなのかは分からないけれど。
「あっ、お兄ちゃんにも連絡しておいて。えっとねー」
自分の髪を乾かし始めた小町に言われる通り、メッセージを打ち込んでいく。しかも小町の携帯を渡されてだ。いや、いろいろ無防備すぎやしないか。
『京都、どんな感じどすえ?』
『別に普通。あと、誰もどすえとか言ってない』
そういう、ちょっと洒落を込めた会話が繰り広げられる。
同学年に材木座先輩や戸塚先輩がいるため、ちゃんと八幡先輩も修学旅行を楽しんでいるようだ。結衣先輩や雪乃先輩について聞いてみたが、別行動らしいので、小町的には減点を受けた。
2日目はその分を取り戻せと命令。
まあ、八幡先輩や姉さんが普通に楽しんでいることが伝わってきて、弟や妹は嬉しいことは確かだ。
「明日は映画村とか行くんだ。あそこってちょっと遠かったからねー」
「ああ。泊まってたホテルからだとな」
ようやく返ってきたメッセージによると、姉さんも映画村に行くみたいだし、今年の総武生では人気スポットなのだろうか。姉さんのグループには結衣先輩の他に、三浦先輩や海老名先輩がいるようで、その中だと海老名先輩の好みなのかなと思った。
「俺も映画村行ってみたいな」
「あー、仮面ライダーとかね。大志君、好きだよね~」
もちろんプリキュアも戦隊ものもな。
「他にも、時代劇とか忍者とか、あと水戸黄門」
「あったねー、懐かしいなー」
けーちゃんに至っては、記憶に残っていないくらいだろう。夕方は再放送をするくらいの長寿番組だったはずだが、いつの間にかその全てが放送を終了していた。
けーちゃんには、俺のスマホで映画村の公式サイトを見せて、こういうものだと説明していく。
「着物とか着れるんだ」
「やっぱり、憧れるのか?」
「うん。浴衣とはまた違っておしゃれだし」
「まあ、成人式でも着るだろうな。なんか結構前から申請するんだっけか」
確か、成人の日に向けて、夏休み期間には申請していた気がする。それでいて、当日には髪のセットで、前日や早朝から準備する。そのため、多くの美容室が混むと聞いたことがある。
なお男子の場合、そのほとんどがスーツなので、数日前もしくは当日にクローゼットから出してくれば問題ない。
「20歳かー」
まだ高校に通っていない小町にとっては実感がわかないだろう。大学進学をするか就職をするか、特に決めていないだろうし。
「そのうち、気づかないうちになってるものだろうな」
かつてはそうだった。
充実しているほど青春は過ぎ去っていき、何度も出会いと別れの季節を繰り返す。大学進学ともなると、その物理的な距離によって、俺たちの交流は少しずつ途絶えていく。もちろん例えばLINEで、いつでも繋がっている。実際に会わないことは心の距離に影響してくる。
「大志君はさ、もう大学まで決めてるの?」
「ああ。この家から通える範囲だろうな、たぶん、また」
再び、という意味を込めて告げる。
「ん。そっか」
個人的な経験を踏まえると、遠く離れた場所への進学はしないだろう。少しでも、知り合いが多い場所であって、この世界で作った思い出がある場所にとどまっていたい。俺がただ臆病なだけかもしれないけれど、もう『関係』を失うことを味わいたくはないのだろう。
我ながら女々しいと思う。
付き合ってまだ半年も経っていないと、ふと思った。
点差からすでに勝敗がわかっていた野球中継から、番組を切り替え始める。