休日が過ぎ、その学校帰りに寄ったのは、比企谷家。
少しサイズ的にきつくなってきたらしい制服から、ぶかぶかな白い長袖シャツに着替えてきた小町がリビングに姿を現した。
中学では元気いっぱい優等生として有名な彼女も、自宅ではだらけているということだ。視線が自分に向けられていることに小町は気づいたが、静かに微笑んだだけだ。
「お待たせ」
「ありがとう」
慣れた手つきでキッチンであれこれやって、インスタントコーヒーと牛乳を混ぜた飲み物を出してくれた。
「もっとリラックスしていいのに」
ソファの背もたれの上に両肘を置いて、側で話しかけてきた。たぶん、正座をするように両膝をついて、座っている俺の高さに合わせているのだろう。
「なんというか、性分なんだろうな」
「大志君は初心だなぁ、かわいいなぁ」
男子としては、好きな女子の前では特にかっこよくありたいものなのだが。
そう思いつつ、マグカップに口をつける。
カフェオレというより、コーヒー牛乳というべきであり、素朴な美味しさを感じた。熱々のコーヒーに冷たい牛乳を合わせることで、ぬるくしているのは猫舌の多い比企谷家ならではなのだろう。
静寂を破るように、誰かが帰宅した音が聞こえた。
「ただいまっと」
「おかえりー、お兄ちゃん!」
「お邪魔してます」
口元に隠しきれない笑みを浮かべながら、八幡先輩は自室へ着替えに行った。それを見届けた小町は、再びキッチンへ向かっていき、コーヒー牛乳を作り始めている。
「おつかれー」
『I♡千葉』と大きく前面にプリントされた半袖Tシャツを着て、肩こりのひどそうな身体で重々しくソファにドカッと座りこんだ。
「父ちゃんや母ちゃんは?」
「仕事じゃない?」
彼女の両親には一度会ったことあるが、この兄妹によく似ているなというのが第一印象だった。もちろん、中学3年生同士で付き合っていることは伝えたが、彼らもまさか将来のことまで考えているとは思うまい。娘を溺愛している父親から敵意を向けられたので、いまだ伝えられていない。
我ながら、めんどくさくて重い彼氏だと思う。
「今夜も帰り遅そうだな。社畜やばい。」
「ほんとほんと。年末とかやばそう」
うちの親もそうだが、共働き家庭だと家事をする時間が満足にとれない。今となっては、小町や姉さんがそれぞれ主体的に行っているとはいえ、もっと子どもの頃からそれができたわけではない。
「働きたくないでござる」
「小町も養ってもらいたいでござる」
両親への感謝が滲み出ていて、いい話だなーと思っていたら、兄妹で腐り始めた。八幡先輩にコップを手渡した小町は、ソファと俺の肩にもたれかかるように座る。ここ1週間ちょっと、ほんとうに小町も余裕がなかった。
「小町まで腐ってやがる。どうにかしろ」
「だいじょーぶ。責任取ってくれるから」
「……まあ、はい」
兄妹が仲直りできて良かったと、しみじみと実感する。
いや、責任は取るつもりだけれど。
「まっ、小町はカフェとかでちょっと働いてみたいけどね」
「職場見学とかアルバイトかよ。選択肢にあったっけな」
総武高の特別活動の1つか。たしか、今年の春くらいに姉さんが職場見学へ行くって言っていた気がする。
「公共施設、福祉、事務とか以外にあるんですか?」
「俺は自宅って希望だったんだが、あれだ。メカメカロードに行かされたな」
自動車や電子機器メーカーの生産ラインか、千葉市科学館か、その辺りだろう。
「メカメカ、そういうの大志君好きそうだよね」
「お前って理系なのか?」
「それはもう、ほぼ確実に」
うへぇという表情を見せるくらい、先輩は文系に偏っているのだろう。どちらかというと小町も文系であり、数学の成績は総武高受験の最大の課題だ。まあ、成績の良し悪しで、文系か理系かをきっぱり分けることはできないけれど。
「……で、まずは修学旅行のことだな」
コーヒー牛乳を口に含んで、八幡先輩は本題に入る。
俺にもたれかかっていた小町も、姿勢を正した。
「奉仕部に、その、告白、のサポートの依頼が来てだな」
「えっ、お兄ちゃんや雪乃さんに……?」
人選ミスなのではと言いたいくらいに、思わず小町が早速声を重ねてしまう。
「それは俺も思う。まあ、ともかくだ」
出鼻を挫かれることで、むしろ口調がいつも通りに戻った。意表を突かれた小町も姿勢を崩して、自然体で聞き始める。実の兄妹のお悩み相談なのだから、まるで世間話をするようなものなのだろう。
「修学旅行で戸部のやつが、海老名さんに告白して付き合いたかったらしくてな」
「ほうほう。あの2人がねー」
俺や小町も夏休み中に会った先輩たちであるため、朧げな記憶の中から2人の姿を思い浮かべる。イケイケでウェイな戸部先輩と、落ち着いていて文学少女な海老名先輩だが、同じ葉山先輩のグループとして行動していたはずだ。
そして、2人ともが結衣先輩の友達だ。
「結衣先輩は乗り気になりそうですね」
「ああ。実際そうだった」
「うんうん。それでそれでー?」
小町も目を輝かせていて、青春を謳歌する女子は恋バナに興味津々だ。しかもそれが知り合い同士の恋愛かつ、自分自身が競わないならば、応援したくなるものだろう。秋葉と神田さんのことは、年甲斐もなく俺も応援しているほどだ。
「仲良いやつの告白のときって、あれだろ。
失敗するとその後の関係があれになる」
先輩は遠い目をして、実体験を含めて自己語りをした。『友だち同士でいたい』というお互いの希望も叶うことはなく、少なからず拗れたり悪化したりするものだろう。もちろん、時間が解決してくれて復縁という形で仲直りすることもあるはずだ。
「うんうん。だから、告白するときって勇気がいるよね」
経験者の意見はさすがに重みがある。
勇気のない俺は告白される側だったからな。
「そんで、海老名さんと、あと三浦と、ついでに葉山のやつから、今まで通り仲良くしたいという依頼が重なってだな」
1人1人顔を思い浮かべながら、ゆっくりと八幡先輩は『依頼』という言葉を強調するように言う。
葉山先輩は『壊してしまったものを取り返す方法』を探していると言っていたが、人間関係が変わることをトラウマ的に恐怖している、そういう考え方から来ていて、海老名さんにもあるのだろう。
それは俺にもよくわかるし、だからこそ小町と仲直りしてほしかったし、今も雪乃先輩と結衣先輩と仲直りしてほしいと思っている。得ることよりも、失うことの方が何よりも痛くて、心の傷になると、知っている。
そして、たぶん八幡先輩も知りつつある。
「で、俺が戸部より先に告白して、嘘をついて、フラれた」
自嘲的な笑みを浮かべて、彼のやり方を示した。
その結果として『依頼』は、上手くいったのだろう。詳細までは分からないが、あの屋上での一件のように、解決したのだろうと思えてくる。『やり方』の過程や、その影響で傷つき、あんな表情を浮かべていることは、とても悲しくなる。
「そっか、お兄ちゃんらしいなぁ」
淡々と感想を述べるように、小町はそう告げる。
小町的には、納得の方が大きいのだろう。
「その……」
戸部先輩の名を出そうとしたが、俺は言い淀んだ。
八幡先輩は彼の勢いを抑えることはできず、告白直前に『友達同士でいたい』と伝えることを選んだのだろう。もちろん誰が言うかで変わってくるが、たぶん葉山先輩は差し障りのない程度に伝え、そして海老名先輩が自分から直接言うことになれば、それはどこからか『依頼』が漏れているからこその告白拒否となる。
「先輩は、文化祭の時もそういう『やり方』でしたね」
「そういや、お前も見てたな」
今となっては何もかも『たられば』の話であり、実際に様々な感情が絡み合う依頼を前にして、たった数日の期間しかなくて、冷静に正解を出すことは難しい。ちゃんと状況把握している先輩だからこそ、そういう『やり方』はあくまで最終手段としてやってきた。それがここ最近重なっているから、彼に対するダメージが目立ってきている。
「あの時もなんですけど。雪乃先輩と結衣先輩たちには、事前になにか言いました?」
「いや、何も。だからなんだろうな……」
『あなたのやり方、嫌いだわ』
『人の気持ち、もっと考えてよ』
「……ってな」
時間がなかった、言いそびれた、理解してもらう自信がなかった、そういう言い訳はできるだろう。だが、今の彼は言い訳をしない。たぶん一字一句間違えないように、2人の言葉を受け止めている。
「なるほど。そうですか」
なら、特に俺から言うこともない。
心理も感情も考慮に入れたやり方なんて、この人生20年くらいずっと悩んでいる。人間関係をうまく取りなす正解なんてそう見つからないし、時間がかかるものだから、優先順位をつけることになる。俺は本来川崎大志が持っていた交友関係を全て捨てて、家族との関係の再構築を選んだ。
「小町はね」
今度は、小町が口を開いた。
「小町はなんとなくだけど、お兄ちゃんがやりたかったこと、分かるよ。15年も一緒だったからね。お兄ちゃんのその『やり方』、別に後悔なんかしてないんだなぁーって」
「ああ。我ながらベストだったと思っている」
子悪党っぽい笑みを浮かべて、むしろ誇るように告げる。
なるほど。
さすが、小町の方がよく分かっている。
「だから、小町はよく頑張りましたってほめてあげます」
「さすが小町だ。ポイント高いな」
八幡先輩は小町にとにかく甘いが、小町も兄にかなり甘いらしい。シスコンとブラコンなのは、今に始まったことではないけれど。
「でもね、結衣さんも雪乃さんも、すごく苦しかったと思う。さっき大志君もすごく悲しい顔したよ」
どうやら、俺の表情にも出ていたらしい。
よく見てくれている。
「……そういうものか」
「そういうものなの!」
小町は叱るように、兄に向かってビシッと指差した。
「結衣さんと雪乃さん、大志君も、悲しくて、なんかやだなって思ってると思うよ。なんでお兄ちゃんだけでやったのかーって」
でも、と言葉を紡ぐ。
「大志君は大人だから叱ってくれるの。でも結衣さんと雪乃さんも、えーっと、いろいろと感じて、そういう言い方になっちゃったと言いますか」
「困惑や疎外感、えーと、悲しいとか、いろいろと感情が混ざった『るつぼ』と言いますか」
今この瞬間俺が抱いている感情を参考にして、当事者の雪乃先輩と結衣先輩の感情を想像しながら、小町に補足するように付け足した。
「るつぼって、あの……?」
「サラダボウルともいう」
公民で習ったためになんとなく出た言葉だが、我ながら結構いいのではないか。いや、授業で習ったことで言葉遊びをする中二病っぽい。
だが、言ってしまったことを取り消すわけにもいかないし、文系の先輩的には何か感じるものがあるかもしれないし。
「そりゃあ、あんな顔にもなるか」
「雪乃先輩も、結衣先輩も、きつい言い方してしまったって。たぶんですけれど」
大切な知り合いが傷つくことは、いやだなといつも思う。3人ともが後悔を抱えていて、掘り返すとそれこそ喧嘩となることを恐れて、今は距離を置くことを選んでいる。その選択によって、傷みを抱えたままだ。
「そういうものか」
「そういうものだよ、お兄ちゃん」
先程と似たようで、ちょっと違うらしい兄の反応に、小町はニコッと微笑んだ。15年一緒に過ごしてきた実の妹だからこそ、その違いが分かるのだろう。
さて、どうやって話す場を設けるべきかどうか。
俺はそれを考え始めた。
「で、修学旅行の後なんだが……」
「えっ、まだなんかやらかしたの、お兄ちゃん」
どうやらまだ話の続きがあるようで、さらに関係を拗らせているらしい。
「この状況で、依頼受けたんですか」
「いや、それは雪ノ下が積極的に受けてだな。ほら、あいつってほんと負けず嫌いだし、由比ヶ浜もなんか勝手だし、それに、一色のやつだって逃がしてくれないだろうし」
耳を傾けたが、内容はほとんど愚痴だった。
ここ数日で溜まっていた感情をどんどん吐き出している。
「お兄ちゃん、その一色さんって?」
「後輩の女子。で、生徒会長にその一色ってやつが、周りのやつに立候補させられたらしくてな。その当選阻止というのが、今回の依頼だ」
俺も小町も聞き覚えのある内容に対して、思わず納得の声を出てしまう。秋葉の場合は好意と期待の押しつけであったが、一色という先輩の反発具合からすれば、悪意やお遊び感覚だろう。
ソースは小町で、『女子は女子の半分が敵』らしい。
「それでー、雪乃さんたちがなんだって~?」
小町は立ち上がりながら、八幡先輩の話の続きを促した。空となったマグカップに気づき、気が利いて何か持ってきてくれるらしい。
「一色以外のやつを擁立、あー、他のやつに生徒会長をやってもらうという案なんだが……」
「誰も擁立できなさそう、と……あっ、いただきます」
小町はマックスコーヒーの缶2本それぞれを俺たちに手渡してくれたが、ダンボール買いするほどの愛好家の八幡先輩に対して、俺は目で了解を得た。
缶の口を開ける音が2つ重なる。俺たちは勢いよく喉に流し込んでいくと、強烈な甘みが身体に染み渡った。
「それで、雪乃さんが代わりに立候補するの?」
小町は冷蔵庫から牛乳パックを持ってきたようで、その残りを自分のマグカップに勢いよく注ぎこんだ。傾けた牛乳パックから、ぽつぽつと水滴が垂れ落ちる様子を、俺たちは少しの間見つめていた。
彼女が生徒会長ということは、違和感がない。成績優秀、容姿端麗、情報処理能力、そして何よりも努力家、現在の能力的に彼女は即戦力だ。そして、新たな環境を得て、そこで彼女は少しずつ成長していく。
「案外、器用にやるかもですよね」
「いや、それはない」
呟くように、けれどきっぱりと否定された。
俺より付き合いの長い彼がそう言った。
「……そう、由比ヶ浜が言っていた」
そして、発言の理由を彼女に託した。
「なるほどなぁ~」
修学旅行の話、今受けている依頼の話、そして兄がうじうじしていること、いろいろと聴いた小町は、真剣な目を兄に向けた。小町も俺も、高校でのできごとに大きく関与することはできず、ほとんど力になれない。
それでも。
「小町、結衣さんも雪乃さんも好きだよ」
小町の言葉に、俺は頷く。
俺の好きな先輩たちでもある。
「2人と、みんなと部活してみたい。だからさ。お兄ちゃんと2人が疎遠になっていくのは、なんかやだなって」
疎遠になること。
それは、ひどく寂しいことだ。
「しょうがないな。妹と、ついでに後輩の頼みだからな」
「お兄ちゃん、さっすがー!」
八幡先輩の隣に座り込み、撫でてもらうようにすり寄っていく。まだまだ妹離れ・兄離れできなさそうな仲の良い千葉の兄妹を見ながら、荷物を持った俺はソファから立ち上がった。
もう、大丈夫そうだ。
先輩は頑張れる。
「そろそろ、帰ろうかなって」
「ん。大志君、いろいろありがとね」
素直に、そして本心から感謝してくれることは、いまだ慣れなくてどうにも照れてしまう。それが付き合っていて最愛の彼女なら殊更にだ。特別でスペシャルな響きがして、ポイント高い。
「どういたしまして」
小町の伸ばしてきた手に一度触れる。
そして、彼女は名残惜しそうに微笑んだ。
「その、サンキュな」
「いえいえ。先輩の後輩ですから、どうぞお気軽に使ってください、っていうのポイント高いですよね」
一言余計だ、という先輩の声はいつも通り。
小町に軽く手を振りながら、比企谷家を出た。
すでに夕暮れ時は過ぎ、寒空を1人歩き始める。
熱冷ましにはちょうどいい気温だ。
いまだ依頼は解決していないし、そして何よりも雪乃先輩と結衣先輩と疎遠になる可能性がある。だから、少しでも俺にできることはないかと、寒さのおかげで冴えた頭で考え始める。