すでに時刻は19時を過ぎている。高校生組と合流し、俺たちは千葉駅までやってきた。運よく母さんが早く帰ってきているから、けーちゃんのことは安心だ。
姉さんがどこかへ出かけてから1時間なので、もしかするとバイト先で会うかもしれないが、予想が正しければここで会うことはない。
「……ここかしら?」
「えんじぇるているって書いてるし、ここだよね?」
見慣れない建物を、雪ノ下さんは額に手を当てて観察していた。カラフルな装飾は薄暗くなってきた街を奇抜に照らしている。いわゆるメイドカフェなのだが、本音を言えば、俺もこの店に入りたくはないし、入ったこともない。
『萌え萌えキュン』っていう録音再生が耳に障る。
「メイドカフェって聞いたことはあるんだけど、どんなお店なの?」
戸塚さんが顎に人差し指を当てて、ちょこんと首を傾げる。ぶっちゃけここの店員さんよりこの先輩が可愛いと、俺も思う。八幡先輩に至っては頬を染めていて、もし彼が働いていれば彼を毎日指名するまである。
「コスプレした店員さんがスタッフの、一応カフェですかね。」
需要は基本的に男子にあるし、なんだか浮気しているみたいで、八幡先輩に無理やりパスする。
「まあ、そういうものだな。俺も実際に行ったことはないから、詳しいやつを呼んだんだが……」
かなり体格のいい、たぶん男子高校生。
うわぁ……と由比ヶ浜さんが嫌悪感を示した。
「やあやあ!八幡、どうやら待たせてしまったようだな!!」
「この人、お兄ちゃんの友達?」
「いや、知り合い未満。」
こそこそと話していても、彼はじっと八幡先輩を見つめたままだ。
「はじめまして。川崎大志、中3です」
「同じく、比企谷小町です」
初対面である俺たちは、軽い会釈とともに自己紹介をしておく。
「ほう! 比企谷とな!?」
冬に着るようなコートを翻して、汗まみれの顔の前にグローブをした手を翳して、我は剣豪将軍材木座義輝と、彼は己の名を告げた。
昔のお兄ちゃんみたい、って比企谷さんがボソッと呟いた。俺も八幡先輩も古傷が疼いてしまっていた。
「八幡貴様ッ!よもや
「そりゃあ隠すわ。来年うちの高校に入学するし、俺には醜聞しかないんだから」
「ずいぶんと身の程をわきまえているのね。でも大丈夫よ、小町さん。あなたの兄は存在すらあまり認知されていないわ」
「慰めながら貶すとか、ほんと器用だなお前」
特に、いじめを受けているわけではないらしい。
ボッチとしてひっそりと生活しているのだろう。
「は、八幡も良いところ、いっぱいあるよ?」
「……あのさ。今日は戸塚、君を指名していいかな?」
「えっと……?」
「いや、なんでもない。」
「さすがだな、八幡。さすが我が同志よ。」
うんうんと材木座さんが頷きながら、背中から1つの服を取り出す。それはいわゆるメイド服というやつだ。なんでそれを持っているのかという疑問が生じると同時に、どこまで欲望に忠実なのだと唖然とする。
「ナイス材木座、この瞬間だけはお前と同志だ。」
「さあ。戸塚氏!いざぁー!」
「い、いや……やめて……」
通行人が警察に通報するレベルである。涙目の男の娘に、メイド服片手に迫っている2人の男だ。
比企谷さんや雪ノ下さんの汚物を見るような視線が彼らの背中に突き刺さっている。
「じゃあさ!あたし着てみたい! なんだかそれかわいいし!」
由比ヶ浜さんが大きく挙手をしながら、志願する。
「……けっ」
「なんで舌打ちしたし!?」
助けを求めるように八幡先輩を見たが、彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「お前が着てもただのコスプレなんだよ。文化祭のノリでコスプレするだなんて、メイド舐めんなよ。例えば、だ。」
「え、やだ。」
「ちょっと、小町ちゃん。まだ何も言ってないよ。」
「みんなで着るんならいいんだけどさー?」
材木座さんが持ってきたのは1着のみ。
そもそも、なんで1着も持っているのだろう。
それが新品でよかった。
「ゆきのん! あたしってそんなにメイド似合わないかな!?」
「私の考える印象と比較すると、確かに由比ヶ浜さんは正反対なのだけれど。」
「そんなぁ!?」
もしメイドカフェに由比ヶ浜さんがいれば、引く手あまただと思うけど。まあ知り合い以外に、誰彼構わず奉仕するなんてやらなそうかな。
「でも。そこの男たちを見返すことができるかもしれないわよ。」
組んでいた両腕を解いて、雪ノ下さんは看板を指差す。
『女性歓迎!メイド体験可能!』
いや、それってスカウト目的なのでは。
そんなツッコミを抑えていると、材木座さんが一歩を踏み出した。
「ええい!我は待ちきれん。いざ行かん!」
材木座さんが意気揚々と、扉を開いた。
「おかえりなさいませ!お嬢様!……ついでにご主人様♪」
珍しい女子高生たちの客に目を輝かせたが、男子を1人1人確認してからほんの一瞬渋い顔。
だがそこは営業スマイルで持ち直す。
ピンクを基調としたメイド服で、たぶんアルバイト。
その猫耳のどこに、天使要素があるのか。
俺を見て『ちっ、青臭いガキか。童貞か。』みたいなこと考えたよね。まあ俺は甘い匂いに顔を顰めていたけどさ。
「メイド体験をご希望ですか、お嬢様?」
「「はいはーい!」」
「背中を押さないでもらえるかしら」
由比ヶ浜さんや比企谷さんが元気よく挙手して、雪ノ下さんと共に他の店員に奥へ案内されていく。
「そちらのお嬢様はどうなさいますか?」
「あの。僕、男なんですけど。」
それを聞いて、唖然とするメイドさん。
その漏れ始めたヨダレ拭けし。
「もしよければ!!れんらくさ……もがもが」
店員としてルール違反をするところだった彼女を、同僚が必死に止めた。一度咳払いして、なんとか営業スマイルを取り戻した彼女に席に案内してもらう。
「ご主人様♪ ご注文はいかがなさいますか?」
「え、えっと……」
戸塚さんにメニューを手渡して、きゃるんとした声でアピールしている。たぶんアルバイト人生で一番やる気を出しているんじゃないかな、この店員。
「なあ、材木座。お前慣れてるんだろ?」
「わ、我はこういうお店自体は好きだが、入ると緊張してしまってな…メイドさんとうまく話せないのだ……」
「こいつ、ダメじゃん。」
「案外、初めて入れたのかもしれませんね。」
放置されている男の1人である俺は、机に置かれているメニューを手に取った。
ひらがなで手書き、やけに丸みを帯びた字だ。ハンバーグやオムライス、カレーなのだとはわかるが、この雰囲気でファミレス感覚で夕飯を食べる気にはならない。じゃんけんや写真といったオプションを付けると高額すぎるし、誰かを指名するとさらに追加料金がかかるし、ここは『沼』だな。
「お兄さん。無難にマックスコーヒーでいいのでは。」
「それもそうだな。てか、どさくさに紛れてお兄さん呼ぶなし。」
「はい。マックスコーヒー2つと……そっちは水でいいかな。少々お待ちくださいね!」
ちやほやしてくれないなんていつものこと、だから先輩は冷静なままのようだ。
「はちまぁん、なんだかあの人ちょっと……」
「なあ戸塚、やっぱりメイド服着ないか?」
「もうっ!僕は男の子だってば!」
「あっ、おう。すまん。」
頬をふくらませて、ぷんぷんな表情。
さっきの店員さんは鼻血噴き出したぞ。
「それで。川崎のやつはこんなところにいるのか?」
「もしいたとしても厨房の可能性が高いですね。」
「ほーん」
ていうか、こんなところって……
「ところで材木座は生きてるか?」
「ええい、話しかけるでない。我は忙しいのだ。」
接客で忙しそうなメイド服を着た店員さんを真剣な目で追いかけている。見るだけとか、一番来てほしくないタイプだろうな。
さて、貼ってあるメイドのリストには、姉さんはいないみたいだし、ここで働いていたとしても厨房だろうな。
そして視界に、かわいい女子がかわいい姿をしていたから、顔に熱を感じた。
「「おまたせしました!ご主人様!」」
由比ヶ浜さんは片手で軽々と、比企谷さんは丁寧に両手でトレイを持ってくる。その上には湯気の立ちこめるコーヒーカップが1つずつ置かれている。2人とも白と黒を基調してレースたっぷりのありふれたメイド服だ。
半袖で、ミニスカートか。
やっばい、心ぴょんぴょんしてきた。
「ねっ! お兄ちゃんどうかな!」
「かわいいまじかわいい小町」
「えへっ!ありがとっ!」
この2人、まじでブラコンとシスコンだよな。
カップルにしか見えない。
「ヒッキー!あたしは?」
「ん? あー、似合ってるんじゃねえの?」
目のやり場に困りつつ、鼻の下が伸びつつ、八幡先輩は煮え切らない返事をした。
「えー、もっとなんかないのー?」
はいっ大志君、と言いながら由比ヶ浜さんに手渡されたコーヒーに俺は口をつける。
この甘さと苦みのハーモニーはマッ缶そのものである。ペットボトルのマックスコーヒーを、レンジで温めただけだろ。
そして、ぐぬぬな顔をしている材木座さん的にも、由比ヶ浜さんは結構ありな部類らしい。トレイを持つ姿勢もいいし、自然なスマイルもあるし、接客業は天職かもしれない。
ちなみに戸塚さんは、ハートの描かれたカプチーノをどこか気まずそうに飲んでいる。それは、カメラ片手にフォトセッションしてくれないかと待っている店員が3人くらいいるからだ。ずいぶん増えたな。
「鼻の下を伸ばしているところ悪いのだけれど。」
「ゆきのん、めっちゃ似合うよね。」
「ちょーきれいですよ!」
ロングスカートと長袖で落ち着いているメイド服は、黒髪ロングの雪ノ下さんにベストマッチしている。八幡先輩はコーヒーを片手で飲みながら、ちらちらとチラ見し、脳内の画像フォルダに保存しているようだ。
すっと雪ノ下さんは俺の耳に囁きかける。
「バイトのシフト表に川崎さんの名前はなかったわ。」
「ありがとうございます。」
そうなると、もう1つの場所なのだが。
高級ホテルのバーは、俺では年齢的にきつい。
「日を改めて、私たちだけで行くことになるでしょうね。」
「はい。よろしくお願いします。」
本来の目的のために動いていたのは雪ノ下さんだけだったのは申し訳ない気持ちになる。まあ、戸塚さんが注目を集めていることで、こっそりと確認しやすくはあったようだ。
「ねっ!ゆきのん写真撮ろうよ!」
「仕方ないわね。……これを着ることはあまりない機会だから。」
「じゃあ、ヒッキーよろしくね。」
「なんで俺だよ。」
比企谷さんと話していた八幡先輩に、由比ヶ浜さんから携帯が手渡される。キーホルダーの数がすごいな。
そう思っていると。
「ねぇ、私になんかないの?」
耳に囁きかけられて、俺はびくっとした。
「そりゃあ、雪ノ下さんきれいだけどさ……」
一度少し離れたのでそのメイド服姿を見れば、ぷくーっと頬を膨らませている。
「いや、似合ってる。動揺していたから、……あれだ。言葉にできなかったってやつだ。」
「そっかっ!」
気の利いたセリフを自発的に言えないのが、草食系男子なんだよ。
小町ちゃんも撮ろう!って呼びかける声がしたことで、くるりと振り返ってリボンが揺れた。それを自然にやれるとか、あざとかわいい。
「はい。ぜひ!」
それにしても、3人とも来客の視線を釘付けにしている。
だから俺は八幡先輩と頷き合う。いまかいまかと戸塚さん含め女性陣のスカウトを狙っている店長を、門前払いすることについて意見が合致した。