高校が放課後になって、多くの人が部活に行く。夕日が沈んで暗くなるまでスポーツで汗を流して、時折りファミレスに寄り道をする。また、塾に通う人も多いことは確かで、高校生にしてバイトに励む人もいる。
とにかく、家族が揃う時間というのは減ってきている家庭が多いのだろう。
「にいちゃん、できた!」
にこにこしている笑顔が眩しい。こちらの2つ結びのおさげの女の子こそ、俺の妹である。将来、姉さんくらい美人になって多くの男子からアプローチをかけられて、挨拶に来る度に父親と俺で門前払いすることになるだろう。
「おー、何描いたんだ?」
「当ててみてー?」
けーちゃんが、クレヨンを駆使して描いた絵を見せてきた。白と黒のキャラクターって難しいのだ。白のクレヨンで白い紙に塗ったとしても、電灯に照らさないと判断がつきにくい。
「うーん、パンさんだな!」
「あたり!」
鋭い眼光をしていて、尖る爪、輝く牙を持つパンダなのだが、園児の画力といってもその特徴を捉えている。ディスティニーのキャラクターといっても、酔拳の使い手とかぶっちゃけ子ども向けじゃないと思うのは、たぶんこの世界で俺だけだ。
「えへへ」
年相応に微笑んでいたが、やがて刻一刻と進んでいる時計の針を見つめた。
「さーちゃんは今日もおそいの?」
「そうみたい。」
夕食を作ってすぐに出かけていったことは知っている。可能性として残りはホテルのバーなのだが、彼女に問いただすことはしなかった。反発されるだろうし、家族に心配させまいとしている彼女をさらに追い込むことになる。
そうやって、俺は自分に言い聞かせる。
けーちゃんには、理由をまだ伝えていない。
「……わかった」
ぎゅっと口を噤んだけーちゃん。
褒めてくれた絵を、姉にも見せたかったのだろう。
言葉には出さないけれど。
彼女の頭を撫でて、謝罪の意を伝える。
ホントによくできた子で、俺の感情の機微に反応して、ぱっと笑顔を零す。
「にいちゃん!けーか、てれび見たい!」
ここでいう、テレビとは録画したものである。
プリキュアだったり、ディスティニー映画だったり。
「ああ。どれにする?」
ほんと、子どもは『変化』に聡い。
俺が兄なのだということは、妹の好意に甘んじているだけだ。父母や姉さんには伝えて謝ったが、けーちゃんにはまだ伝えられていない。
大好きな姉はさーちゃんであり、大好きな兄はたーちゃんだった。決して俺などではなかった。
これは、俺がまだ入院していた頃の話だ。
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まるで自分が自分じゃないような。
決して、比喩などではない。
真っ白な廊下には必ずといっていいほど、手摺りがある。右手を当てて、体重の負荷を両足から逃がしながら、歩く。足が折れたというわけでもなく、自転車が横転して頭を打った程度。この段階まで達したのは、専門職の方々が考案したリハビリのおかげだ。
かの名探偵コナンは身体が縮んだとしても自分の身体だから、変わった途端に歩くことができたのだろう。孫悟空が尻尾を失った際に身体のバランスに違和感を感じたこともあったな。ギニューに身体を交換された際も、武闘家だからすぐに動けたのだろうか。
ともかく、『人が変わったみたい』ということは、すぐに近しい人から気づかれた。
「えっと……大丈夫?」
「そっちこそ」
余計なことを考えていて、立ち止まっていたようだ。目元を赤く腫らせた女子が声をかけてくれたのだが、彼女もついさっきなにかしらあったという証拠。
「……別に」
「それ、なにかあるって言ってるようなものだぞ。」
バツが悪そうに、彼女は視線を廊下に落とした。
平日の昼間に、学校休んでお見舞いといったところか。
家族にも教師にも言えないような悩みを誰かに聞いてほしいタイミングはある。一期一会の他人であって、同年代だからこそ、当たり障りのない傾聴ができる場合がある。
「話してみ。」
こくりと、ちょっとだけ頷いた。
そして、テレビのある休憩スペースに移動する。
ワイドショーが流れているが、運よく人はいない。
「……おみまい」
「そうか。」
ぼそりと呟いた言葉に、淡々と返事をする。テレビの右下に表示された時刻は、彼女の目にも入ったのだろう。
「お兄ちゃん、バカだよね。ほんと、ダメダメなお兄ちゃん。………ペットの犬を助けてさ、自分は車にぶつかって。しかもヘルメットしてなかったし、入学式の日だよ?」
作った微笑みを浮かべて、そう告げる。
もちろん、最悪の可能性もあったということだ。
「高校デビュー、失敗か。」
「そ。ただでさえ、友達誰もいないのにさ」
再び静寂が訪れたが、彼女の表情は少しだけ穏やかなものになっている。
ただ彼女の話にきちんと耳を傾け、同じ立場として確かな同意を示していっただけなのである。一定の距離を保ちつつ、傾聴というアプローチを自然と行うだけ、そういうのがカウンセリングの基本だって、習った。
「まあ、お兄ちゃんも今はピンピンしてるんだけどね。」
「そうなのか。よかったな。」
「うん。でもね。どうせなら女の子を助けてさ、そのままカップルになっちゃったりとか。あの飼い主の人と仲良くならないかなーって思うわけですよ、小町は。」
そういうラノベや漫画の影響だな。
ていうか原因の一端を恨まないなんて、いい子だ。
「えっと……?」
川崎、と俺は名を告げる。
どうやら俺の呼び方に困っているようだった。
「川崎君も、中学生?」
「○○中の2年。」
「小町と同じなんだ! あっ!比企谷小町です。」
「比企谷さんね。俺は川崎大志。」
「うん。よろしくね、大志君。」
いきなり名前呼びとか、さぞ友達多いのだろう。
学校を休んでいることを心配してくれる友達がいる。
ちなみに俺については、お見舞いに来る『たぶん友人』はもう来なくなった。話が合わず、『裏切られた』という顔をしている年下の男子たちには、謝罪を告げられただけマシかもしれない。
「……どうかした?」
「いや、まあ、学校に行きづらいんだよ。記憶が欠けたと言いますか……」
失言だったと俺は気づく。
相談したい彼女に、自己開示してどうするんだ。
「えっ!記憶ソウシツってやつ!?」
「記憶の混濁らしいな。」
非科学的な経験なんて、作り話と思われるだけだ。父母や姉には真実を伝えて謝り続けたが、病院側では完全に否定されたままだ。
「みんなのことをおぼえていない、感じ?」
「そんな感じだ。」
俺は大きく溜息をついた。
せめて中学卒業していれば、働き口を探したんだが。
「小町なんかよりずっと大変じゃん!」
「んで、そっちは何があったんだ?」
「えー、学校行けって、お兄ちゃんがうるさいだけだよ。」
「一週間過ぎたようだけど。」
ギクッという言葉が、彼女の表情に大きく表れた。
「比企谷さんのお兄さんも、心配なんだろうな。」
「そうだけど……」
比企谷さんが兄を心配するように、彼女の兄も心配なのだ。
「まあ、まずは喧嘩して飛び出したことを謝らないとな。お兄さんも心配してるだろうし。」
「……うん、そだね。うちのお兄ちゃんってうざいくらいだから。」
なるほど。
比企谷さんは、ブラコンというわけか。
「大志君!ありがとね!」
「どういたしまして。」
これで、依頼が解決といったところか。
彼女との関係も、ここで終わる。
席を立った俺は、背中を向ける。
「大志君さ。転校したら?」
その甘い誘惑に、俺は踏みとどまってしまう。
「同級生なんだしさ。大志君といっしょに学校通えたら、小町楽しいかなーって。」
あくまで、それは感情論だ。
変わらなくていいことを、優しさが許容する。
一度目の、逃げるという決断だった。
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偶然会った年下の女子に言われた言葉。
その言葉に、俺は甘えた。
家族に対する、最初で最後の我儘にするはずだった。
今でこそ何度も姉と妹を優先してほしいと告げても、届かない。
『もしもし、今大丈夫?』
「ああ。」
LINE電話がかかってきたのは、比企谷さんだ。
けーちゃんは、俺の膝でスヤスヤ眠っている。
家族の絆を描いたディスティニー映画は、再生されたままだ。
『お兄ちゃんたち、沙希さんに会えたらしいんだけどさ……』
いまだ解決には至っていない、ということか。