第一章は歯痒いことも多かったでしょうが、ようやく前に進みます。
早朝の空気はひんやりとしていて気持ちが良い。
公園のベンチに座ってもう数十分は経つ。
現在午前5時半。
すでに母は起きている頃だろう。
マラソンをしている人もいるし、早くも朝練に向かう人もまだほとんどいない。この時間から仕事に行く人がいて、この時間も仕事をする人がいて、夜勤から疲れて帰ってくる人がいる。こうして、みんなが寝ている時に誰かが負担を受けることで社会は成り立っている。
「姉さん、お疲れ。」
「大志、こんな時間に何してんの?」
制服の上に黒いパーカーを羽織っただけ。
昨日も着替える暇もなく、バイトに行ったからな。
「たまには、徹夜してもいいかなって。」
驚きや怒り、そして心配。
ちゃんと向き合ってみれば、ちゃんと気持ちがわかる。
「そういうのは、大晦日だけ……だったか?」
そういう家族の決まり事があったはずだ。
姉さんは、叱られる子どものように苦い顔をする。
ジャンパーのポケットの中にあったマックスコーヒーを手渡す。ある程度、熱が逃げないようにはしていた。無言で受け取った姉さんはそのことに気づいているのかどうかはわからないが、頬が緩んでいる。
「八幡先輩から聞いたんだけど、」
「……それ、だれ?」
クラスメイトの名前、知らないのかよ。
姉の現状が想像できて、苦笑いが零れた。
「昨日、会っただろう。比企谷先輩な。」
「ああ。あいつか。」
『あんたの差し金?』みたいな視線が来る。美人がそういうことすると様になるし、怖く感じるが、まあ姉だし。
「確かに、俺が相談した。」
昨晩もう1つの候補であるホテルのバーへ先輩たちは直接乗り込んだ。結果的には解決には至らず、『金が必要なのだ』という理由を聞くことができただけ。引き下がらないはずの雪ノ下さんも『庶民との違い』を提示されて、冷静さを失ったらしいし。
「あんたは気にしなくてもいい。」
「気にするだろ。家族なんだからさ。こんな俺でも。」
『気にするよ。家族なんだからさ。あんたは大志だから。』だったはずだ。そう1年前に言われた。
「まったく……中学生って、アルバイトすらできないんだよな。新聞配達や牛乳配達ですら、市役所と学校、あと親の許可が必要だ。こんな、ただの中学生が自発的に働きたいと言っても、それは無理なことだ。法律によってそう定められている。」
これは、単なる愚痴だ。
「だからさ。」
俺は、飲み干したコーヒーの空き缶を近くのゴミ箱に投げ入れた。
「あと1年待ってくれ。中学卒業したら俺が働けばいいだろ。京華の学費もなんとかなる。いや、そもそも高校に行く必要ないな」
「っ!!」
一瞬の浮遊感。
胸倉を掴まれて立たされるという経験は、初めてだな。
「大志。それ以上はあんたでも許さないから。」
「貴女が、俺に期待しているのは知ってる。でも、うんざりなんだよ。」
怒りを抑えこむようにゆっくりと離される。
ごめん、と姉さんは小さく呟いた。
「………たとえすごい良い大学に行ったとしても、俺は姉さんを犠牲にして得る成功なんていらない。優先すべきは姉さんのほうだ」
沙希さんが働くのは、恐らく自分の学費のためとはいえ、2人分の学費を十分に残すためなのだろう。
「俺、怒るのは苦手だけど、これでも結構きてるんだ。」
その原因に、俺がいる。
記憶が欠けたのだと嘘をついたままで、生きる意味を探るように勉強に打ち込んで、元々知っていたことも多いからぐんぐんと成績優秀になって、家族は期待した。
数年後の大学の学費を貯めるために、沙希さんと相談したのだろう。確かに、貸与型の奨学金にあまり良いイメージを抱いていないのは知っている。
「眠気を必死に耐えながら授業受けて、友達と遊ぶ時間を作らないで、それでも家事をちゃんとやって。1年前、お見舞いに通ってもらった時は仕方がなかったけど、そんなに俺や京華は頼りにならないか?」
両拳を握っている、目の前の少女に尋ねる。
「俺はもう1人でもやれる。そうやって生きていた」
家族だから悩みを話せないことは俺にもある。
心配させたくないから、迷惑をかけたくないから。
「だからって、弟に支えてもらうなんて考えられないね。」
「弟だから……心配なんだろ」
なんでここで自信を持って言えないんだよ、俺。
このままだと全部中途半端じゃないか。
俺は本物の弟じゃないし、1人で生きることができる経験もある。だが縁を切ってもいい、なんて考えは姉さんたちを傷つける。
だから、この距離を維持しなければならない。
「とにかく。俺は高校に通わなくても、高卒認定試験に受かれば大学にだって行けるんだ。高校範囲だって思い出すだけの……」
「大志君。小町、怒るよ。」
感情的になりすぎていた。
先輩や比企谷さんが来ていたことに気づかないくらい。
比企谷さんは静かに怒るタイプらしい。決して距離を縮めることはなく、冷静沈着に俺を見つめている。だから俺は、目線を逸らすことができない。
「あの時、小町言ったじゃん。退院したら一緒に同じ学校行こうって……」
俺が、本来いた中学校から逃げることを選ばせてくれた時か。
「それは中学までのことだ。別に、今のクラスメイトが全員同じ高校へ進学するわけじゃない。...そうですよね、八幡先輩?」
「まあ、そうだな。」
再び仮面を着けてから、八幡先輩に話をずらす。
公立の場合、小学校から中学校に進学するときと違って、高校受験というものがある。中学生は数多くの選択肢の中から、成績や進路を考えながら選ぶことをしなければならない。友達と同じ高校や大学に行きたいから進路を誰かに委ねるだなんて、そんなもの欺瞞だ。
「そりゃあ、小町はあんまり勉強できるわけじゃないよ。」
中学生の失恋なんて1年も過ぎれば、いつのまにか苦い『思い出』に変わり、やがて風化していく。前世の記憶とともにいつか忘れる、そう思っていた。
「でもさ。小町は最近勉強するの、楽しくなったんだよ。なんでかわかる?」
「目標ができた……から?」
「そうだよ。」
なぜ彼女の想いを理解しようと努めてしまうのか。彼女のために、あと1年でこの関係を終わらせようと思っているのに。
「小町さ、大志君と同じ高校に行くために、勉強がんばるよ。」
「そんなの、自分勝手な感情論だろ。」
堂々巡りにしても、意味がないことはわかっている。
「うん。だって、私ってやりたいことしかやらないからね。」
得意気に、自分のことをそうやって評した。
諦めるつもりはない、と。
「……ああ。薄々感じていた。」
初めて会った時よりは、知っている。
あれから1年、一瞬で過ぎてしまったな。
「悪いけど。姉さん、俺にも高校行く理由ができた。」
「そうなんだ。」
ぶっきらぼうに返事をしたが。
このブラコン、すっごい頬が緩んでやがる。
「川崎。お前らの姉弟関係を俺はほとんど知らない。だが、意外と俺らを心配してくれるのは、千葉の妹と弟なら共通事項らしいな」
「ああ。ホントにお節介」
「姉さんの方がお節介だからな。」
「いっつも心配かけてこないからさ。心配なんだよ、お兄ちゃん。」
先輩の悪評が残っていることを一番気にしていたのは、本人よりも比企谷さんだったな。だから、先輩がなんだかんだ根は真面目なところを知っている教師に対しては、彼女はとことん懐いている。
「安心しろ。今はひっそりと生きている。小町が入ってくる前も後も、目立たないようにするから。場に溶け込むから。」
「雪ノ下さんや由比ヶ浜さんも、あと平塚先生だっけ?結構みんな見ているものだよ。でも、ダメダメなそんなお兄ちゃんが小町は好きだよ……というのは小町的にはポイント高くないかな!」
「いつも一言余計なんだよ。」
「やだなー、小町なりの照れ隠しじゃんか。」
あっ!と比企谷さんが声を出した。
「沙希さんって、お兄ちゃんと同じクラスなんですよね。」
「まあ、一応。」
「お兄ちゃんに何かあったら伝えてくださいね!大志君けーゆで良いんで!」
「お前は俺の母ちゃんかよ……」
「まあ、いいよ。」
学校であったこと、姉さんは俺に話してくれるのだろうか。ていうか、比企谷さんがそれを狙っているとしたら、計算高いな。ありがたい。
「そうそう、川崎。スカラシップなんだが、こういうのはどうだ?」
そう言いながら折り畳まれた1枚のチラシを開いて、先輩は姉さんに手渡す。まさかもう解決策を提示してくれるなんて、同じ高校生だからこそなのか、八幡先輩が凄いのか。
「とりあえず、俺が狙っているところの夏期講習だ。こうすれば学費が浮く。俺はそれで小遣いを稼いでる」
「うわ~ お兄ちゃん汚い さすが汚い」
スカラシップ、いわゆる奨学金か。
成績次第では完全免除だなんて、先輩も貪欲だな。
「……帰るよ、大志。」
「おう。」
再び丁寧に折り畳まれたチラシを、姉さんはポケットに入れた。責任感のある人だから、バイトはすぐにはやめないかもしれないが、頻度は減ることだろう。
「また来週ね、大志君!」
「……ああ!!」
俺も、手を振り返す。
こうして、今日も家族で過ごす休日が始まる。
姉さんの定期試験の勉強応援したり、けーちゃんとプリキュアごっこしたり、みんなで仮面ライダー見たり。最近は人間臭い心に魅せられ、仕事の夢や情熱を訴える話で……そういえば、そろそろ姉さんは職場見学だったな。
あと、母さんの手料理も楽しみだ。連休も終盤であるし、久しぶりに父さんも帰ってくるらしいし。
なので。
「姉さん、一緒に父さんに叱られようか」
「えっ、今日帰ってくんの...?」
朝までバイトしてたり、こっそり早朝に家を出たり、あの家族想いの父さんにこってり叱られそうだな。