夜の彩海学園校内に、藍羽浅葱の姿があった。本来生徒の立ち入りが許されない、それ以前に施錠されているはずの場所に何故浅葱の姿があるのか。それは、非常に単純な理由だ。
「まったく、なんで休日前に水着を忘れるかな……」
人工島である絃神島において、最も恐れられている災害に数えられる台風は、時に大規模な浸水を発生させることがある。時に命に係わることすらある侮れない被害の1つである水害への備えとして、絃神島に存在する教育機関は水泳の授業を積極的に取り入れる傾向にあった。
彩海学園も当然例外ではなく、男女入れ代わり式で授業を進行していくことになっている。この日は女子生徒が水泳の授業に当て嵌められており、当然授業に参加した浅葱はうっかりと水着を忘れたまま帰宅してしまったのだ。
赤道に近い亜熱帯気候である絃神島は、気温が高く立地から湿度も上がりやすい。締め切られ冷房も切られた教室内では、室温など軽く40度を超えるだろう。その状態で土日と湿った水着を放置した場合、どうなるかは火を見るよりも明らかだ。
渋々回収に出向いた浅葱は、自らが使役するスーパーコンピューターの
「流石に夜の学校ともなるとけっこう不気味ね。古城でも用心棒代わりに連れて来ればよかったわ」
夜の校舎という非日常に、思い人と共に忍び込むというシチュエーション。中々魅力的なイベントだが、理由が水着の回収では台無しである。浅葱は頭を振って妄想を散らしつつ、上履きに履き替えて校内を足早に進んだ。
照明が落とされ、月明かりが頼りの状態ではあるが、日常的に通っている建物内を迷うようなことなど無い。すんなりと教室にたどり着き、目的のロッカー前に立った。
「はい、回収」
至極あっさりと目的のプールバッグを回収し、浅葱は気だるげな息を吐いた。たったこれだけの荷物を回収するために、無駄な苦労をする羽目になったのだ。ため息の1つも出るだろう。
帰ろうと踵を返す浅葱の目に、プール裏の電気設備小屋が映った。
「そういえば、お倫が伝説のフェンスとか何とか言ってたっけ」
伝説のフェンスとは、クラスメイトの築島倫が日中にプールサイドで話していた噂話の1つだ。立ち入り禁止のため、電気設備小屋の周囲にはフェンスが張り巡らされている。そのフェンスにラブレターを備えると、意中の相手から告白され恋が成就するというありきたりな噂話だった。中々の成功率を誇るというその噂は、古城に懸想している浅葱にとっては中々に魅力的な話だったため、どうにも意識してしまうのだ。
「まあ、わたしとしても、古城から告白してくるって言うなら話を聞いてあげなくもないけどさ」
誰に向けたかもわからない照れ隠しを口にしながら、浅葱は教室を出て最寄りの階段へ向かった。どうせこのまま帰るのならば、伝説のフェンスを見てから帰ろうと考えたのだ。
「……そういえば、もう1つ物騒な噂もしてたわね」
倫が話したもう1つの噂、それは今絃神島で発生している連続失踪事件についてだった。ここ数日間、連続して島内で突如女性がいなくなるという事件が相次いでいるのだ。特に、美人ばかりがいなくなっているという点からメディアも面白おかしく報道している。
「まったく、ちょっと不謹慎だと思わないのかしら」
からかい気味な倫の忠告を思い出し、浅葱の機嫌が徐々に悪化する。とはいえ、特にぶつける相手のいない夜の校舎でのことだ。苛立ちも徐々に薄れ、フェンスが目に入る位置に着いた時にはすでに平時の機嫌に戻っていた。
「まあ、このフェンスを見たからなんだってわけでは……えっ」
自嘲を込めた独り言は、フェンスの傍に立つ人影を発見したことで遮られた。人がいないはずの校舎内に、鉄製の長物を持った人影が佇んでいる。電気設備小屋のフェンス前で何やら作業をしていたらしいその影は、蒼い髪を揺らしながら振り向いた。
脳裏をよぎるのは、先程まで考えていた失踪事件など及びもつかないほどの危機感だ。恐怖と後悔が浅葱の脳裏を埋め尽くし、顔から血の気が引いていく。
「うそ……でしょ……?」
呟きも空しく、影が持つ青い瞳に、浅葱の姿が完全に捕捉された。
深夜のキーストーンゲート。その一角の会議室に、浩一と矢瀬の姿があった。
矢瀬が一族の権限を使い一切の監視装置が停止した部屋の中、浩一は淡々と数日前に遭遇した獣人の情報を矢瀬へ渡す。
「……かつて存在したヨミの帝国の生き残り、それが国際魔導犯罪者の拠点で家探しですか。どうにも嫌な予感しかしませんねこれは」
資料に目を通した矢瀬が思わず愚痴をこぼすが、それを責められる者はいないだろう。どちらか1つでも十分に厄介な案件だったのだが、それらが関わり合うことによって非常に厄介な案件へと変貌したのだ。さらに言えば、すでに消滅したと考えていた巨大犯罪組織の一部が活動を続けている可能性が浮上したのだ。これからの警備体制見直しを考えると、頭が痛いだろう。
「今回は目的の物を確保する前に阻止できたようだが、すでに数度取引が行われた形跡があった。それにもかかわらず、組織に関する物品から資料からのすべてが発見できなかった」
「獣人の戦闘員が、そういった証拠の類をすべて消去したってことですか。
あの研究所の状態から、人形師が死んでからそう時間は経っていなかった。とはいえ1日前後の間は確認できていましたから、人形師を殺したのは獣人ではなさそうですね」
互いに思考を働かせたために訪れた沈黙。それを破ったのは、浩一だった。
「矢瀬、そういえば我々が
現場に残されていた遺留品のリストが見たい」
「え?
ああ、ある程度は終了して報告がそろそろ上がってくるはずです。リストならすぐに出せます」
手早く端末を操作し、表示されたリストに浩一は素早く目を通した。
「何か気になることでも?」
「……ああ。
遺留品はこれで全部なんだな?」
「はい。瓦礫内部も、魔術とソナーの併用ですでにスキャンが終了していますから、見落としもそうは無いはずです」
「なるほど。恐らくだが、人形師殺しの犯人に目星がついた」
「なっ!?」
思わず身を乗り出す矢瀬を手で押し留め、浩一は続きを口にする。
「遺留品の中に、
さっきも話したが、人形師が古城を襲撃した時は1人の
「なるほど……人形師は、自らが造ったプロテクトなしの人形に殺されたってことですか。皮肉ですね」
話ながらも、矢瀬の脳は高速で回転を続けている。そして、ふとした引っ掛かりが脳裏を掠めた。それを逃がさないよう、上手く言い表せない閃きの欠片をなんとか口に出す。
「浩一さん。その改造
「ああ。暁古城が召喚した、
矢瀬は、手元の人格表に視線を落とした。人形師は、美しさに関して並々ならぬ執着を持っていたらしい。先程感じた引っ掛かりが、立体感を得て矢瀬の脳裏に降りてきた。
「浩一さん。今島内でおきている失踪事件なんですけど、ひょっとしてそのスワルニダが犯人ということはないですか?」
「……推測した理由を話してくれ」
「人形師は、美しさに対して並々ならぬこだわりを持っていたと資料にありました。そんな男がお気に入りの
スワルニダ単体にしろ補修用の存在が同行しているにしろ、主が死んだために強引な方法で修理用の部品を収集している可能性があります」
矢瀬の推測は、一応の筋が通っている。人形師と直接対決した浩一は、推測を脳内で咀嚼した。可能性としては十分にあり得る話であり、否定材料もない。
「たしかに、その可能性は高いな。補助に隠密特化のサポートがあったと考えれば、ただの失踪として目撃者がいなかったことも頷ける」
「では、仮定ですがそれを前提にした警備体制を構築します。細かい話しは決定が済み次第……」
会話の締めに入っていた矢瀬が、突如愛用のヘッドフォンを耳に押し当てた。監視任務のため校内に張り巡らせていた
矢瀬基樹は音に関する異能を持つ
その
「浅葱……? なんでこんな時間に。
いや待て、なんだこの音は!?」
呟かれた名を聞き眉を顰めていた浩一の表情がこわばった。そんな様子を横目で見ながら、矢瀬は音の解析に集中する。
まるで複数の人間の鼓動が同時に鳴っているような音に加え、様々な機械の駆動音が同位置から響いている。異常性はこれだけではない。それらの音が、完全に同調しているのだ。そう、まるで1つの生き物として組み込まれているように。
「浩一さん!」
矢瀬が声を張り上げたときには、浩一はすでに部屋を飛び出すところだった。その手には、光るケミカルライトのような警報装置が握られている。
「……お願いします。あいつを守ってやってください」
開け放たれた扉へ、矢瀬は深々と頭を下げた。
夜の絃神島を飛び跳ねるようにして、浩一は一路彩海学園を目指している。本来であればロプロスを呼び出し、数分もかからずに学園上空までたどり着いているであろうバビル2世が、何故浩一の姿のままひたすらに駆けているのか。
理由は1つ、浅葱を今後の情報戦から守るためだ。バビル2世のしもべたちは、それぞれが中途半端な吸血鬼の眷獣を超える戦闘力を有している。当然と言っていいのかはわからないが、その主であるバビル2世は下手な獣人であれば能力の使用無しに打ち倒すことが可能な超人だ。そんな強大な存在が、たった1人の女子生徒を助けるために行動したら。周囲の反応は、火を見るよりも明らかだろう。助けられた女子生徒が何者なのか、どういった理由で助けられたのか、なにがなんでも明らかにしようと浅葱の周囲を嗅ぎ回るだろう。
初遭遇時は、島を沈めるテロリスト撃退のついでという形だった。2度目の救出は、島そのものの時空が歪むという異常事態に加え、監獄結界の脱獄囚の対処という大義名分があったためろくな監視が無かった。
だが、今回はそれらとは状況が違い過ぎる。たしかにすでに少なくない犠牲者を出している改造
今後の協力者の安全のため、バビル2世は浩一として許される最高速度で街を駆け抜けていく。当然、許される範囲でしもべは動かす。
「ロプロス、現在位置から出来る限り彩海学園の校内をサーチし続けろ。コンピューターは送られた除法を精査し続け、逐一報告。ポセイドンは、万が一を考え砲撃準備。合図1つで迅速に遠距離攻撃を叩き込め。ロデムは先行し、万が一の場合に備えて保護対象付近で待機しろ」
囁くような命令も、同時に発せられた微弱な思念派がしもべたちに過不足なく指令を伝播する。
自らの移動速度に歯噛みしながら、浩一は移動速度をさらに1段階引き上げた。
一方浅葱は、夜の校庭で自らにふりかかる運命を悟り、覚悟を決めた。たとえ優れた身体能力を誇ろうとも、眼前の
ゆっくりと接近してきた青い髪の
「生徒を目視にて確認。ミス藍羽、立ち入りが禁止されている時間に、校内へと侵入した理由の説明を求めます」
青い髪の
「いやね、アスタルテさん。水泳の授業で使った水着を忘れちゃったみたいでさ、取りに来ただけなのよ。
……お願い見逃して! 流石にこの時間の校舎侵入がばれたら、那月ちゃんにただ怒られるじゃすまないわ!」
途中から両手を合わせて頭を下げ、懇願するような状態になってしまったが、これは仕方がないことだ。これが判明すれば間違いなく保護者に連絡が行くし、その後に待ち構える那月の説教フルコースが手ぐすね引いて待っている事だろう。今学校のセキリュティはモグワイに掌握されている以上、ここでアスタルテが口を噤めば不法侵入が発覚する心配は限りなく少なくなるのだ。
頭を下げた状態で、浅葱はアスタルテの様子を盗み見た。表情が変化してるようには見えないが、ほんの僅か下がった眉から困ったような印象を受ける。
その僅かな変化をチャンスと考えた浅葱は、畳みかけるように言葉を重ねた。
「ただ黙っててもらえれば、それだけでいいから! 後で必ず埋め合わせはするし、次からはこんなことしないって……」
「ミス藍羽、顔を上げてゆっくりとこちらへ来てください」
浅葱の言葉を、静かなアスタルテの声が遮った。どこか冷たい声に思わず浅葱は顔を上げ、
「警告します。あなたは彩海学園所有の土地に侵入しています。ただちに退去してください。指示に従わない場合、実力を以て排除します」
青い目は、浅葱の背後に釘付け状態となっている。恐怖と好奇心に打ち勝てず、浅葱はゆっくりと振り向いてしまった。
「ミス藍羽、見てはいけません」
アスタルテの警告も空しく、浅葱は完全に背後の風景を目に入れてしまった。
そこには、美しい女性が立っていた。
左右対称の絵画のような顔を喜悦に染めながら、人工生命体……スワルニダはゆっくりと口を開いた。
「…………ミツケタ」
外見とは程遠いしゃがれ罅割れた声に、浅葱は反射的に半歩身を引く。裂けたような笑みと共に距離を詰める美貌の人工生命体を前に、浅葱はかつて監獄結界の脱獄囚に襲われてから持ち歩くようにしていた警報装置に手を伸ばし、ポケットの中で作動させた。
ストライク・ザ・ブラッド 用語集
人物
モグワイ
人工島である絃神島を管理する、5基のスーパーコンピューターの化身。
浅葱の良き相棒であり、妙に人間臭い一面を持つ。
不細工なぬいぐるみのようなとぼけた外見とは裏腹に、電子情報戦において比肩する存在は少なく、使役する浅葱の技能も相まって電子空間では圧倒的な力を有している。
施設・組織
彩海学園
暁古城たちが通う中高一貫校であり、自由な校風が有名。
魔族特区の例に漏れず多くの攻魔官が教師として籍を置いているが、何故か島内でも有数の実力者が集まっている。
そのため、人工島管理公社からの依頼で教員がいなくなることもしばしば。
種族・分類
音響結界 サウンドスケープ
矢瀬基樹が能力を利用して組み上げた一種の探知結界。
事前に様々なノイズや生活音を分析記憶しておくことにより、効果範囲内に入った人間の行動や異物の探知を迅速に行うことができる。