模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research 作:井ノ下功
「フッ、ハッハハハハハハハ! なるほど! そういうことか!」
白髪の老人は呵々大笑する。彼の体は金色の粒子に変わりつつあった。残された時間はあと僅か。
「いやはや……最初の反応を見た時からねぇ、おかしいと思っていたのだよ。君が私を忘れるなんてことはあり得ない――一度でも“会った記憶があるのなら”。いや――記憶があっても、実感が伴わなければ、君にとっては切り捨てるべき感傷の部類に入るのか」
「気付くのが遅いよ、アーチャー。座に座りすぎて脳味噌が溶けたのか?」
「私ももういい歳だからネェ。最近物忘れが激しくって」
と、老人は、ニヤリと笑った。
「これは普通の聖杯戦争ではない。あらゆる面で、劣った聖杯戦争だ――ということを、すっかり忘れていた」
「……」
「だから君は、本来のホームズと違って、不完全だ。不完全だから――私を、無傷で、完全に殺し切れた」
言われた方は、実につまらなそうな顔をして、ちょっと肩をすくめてみせる。それはまるで、分かりきっている数学の答え合わせを丁寧にやられて、うんざりする学生のようで。
老人は鼻から息を吐き出して、ゆるゆると頭を振った。
「マァ、君に負けるのであれば、物語上は“正しい”と言わざるを得ないのだろうネェ……本来の君でない君になら、負けたところで大して腹は立たないし。――次は、世界の最果て、泡沫の夢の中で会おうじゃないか。その時には、カクテルの一杯でも奢ってやろう」
その言葉を最後に――
――彼は、完全に姿を消した。
沈黙は祈祷でなく、静謐な場は安寧の墓所ではない。
静寂は、次の戦争への八分休符。
彼は振り返った。
「さて――」
唇の前で、その長い指の先端を軽く合わせ、ゆっくりと目を閉じる。
彼は探偵だった。いや、だった、というのは正しくない。彼は今もなお探偵だ。そして未来永劫、探偵であるだろう。
さらに言うならば、ただの探偵ではない。
名探偵である。
言わずと知れた、世界屈指の名探偵にして、唯一の諮問探偵――
――シャーロック・ホームズ
その彼が言葉を紡ぐ。
「ジョン・ワトソン。奇しくも、僕の親友となる男と同じ名を持つ、僕のマスターよ」
彼にとってはそれが唯一にして最大の武器である。無論、バリツとかいう謎の体術を修めてはいるが、それにいかほどの致死性があろうか。
言の“刃”の方が、よほど鋭く、毒を持つ。
おもむろに、瞼が開かれる。
「ここがクライマックスであることは、もはや言うまでもないだろう。――覚悟は、できているな」
すべての光を飲み干すような――すべての闇を見通すような――恐ろしいほどに透明の眼差しが、彼に相対する男に照準を合わせる。
射竦められた男が、半歩後退る。無意識だろう、胸元に揺れるリングへ手を伸ばす。それは焦燥の証。
名探偵は唇の端を吊り上げて、
「機は熟した。それでは、謎解きを始めよう」
刃を振り上げた。
「さしあたって、我々の出会いにまで遡ることにしようか。といっても、事件はその時には既に、終わっていたのだが、ね――」