模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research 作:井ノ下功
「ゴットフリード」
「んー?」
呼びかけられたので、ゴットフリードは姿を現した。マスター――ヘルメス・アーキシェルは、ベッドの上に胡坐をかいて、細々とした金属やら宝石やらをいじっている。
ゴットフリードに魔術のことはよく分からない。“深入りすると殺される”という程度の認識である。彼が生きたのは、ちょうど魔女狩りが横行し始める頃だった。関わるべきものではない。だからゴットフリードは少し遠巻きにしながら、窓枠に腰掛けた。割ったはずのガラスは、ヘルメスの魔術によって綺麗に直されていた。
「なんだよ、主」
「話の続きだ。お前に課されたフェーデ禁止の誓約書は、生きているのか?」
「あぁ……」
そういえば、昨晩言いかけてやめたのだった、とゴットフリードは思い出した。いつかは話さねばならないだろう、と思っていたことだ。
「そうさな、生きてるよ」
「だから真っ先に虎の方へ行ったのか」
「ご明察だ、我が主よ。相手が人間じゃなけりゃ、フェーデにはあたらない。別に、人間が相手でも、フェーデにあたるような“決闘”でなけりゃいいんだけどな」
「フェーデにあたるような形式で戦うと、どうなる?」
「知らんのか」
「知るわけないだろう」
ゴットフリードは肩の横で両手を広げた。
「ちょっと調子が悪くなる」
「なんだ、それだけか?」
「おお、それだけさ。少ーし剣が握れなくなって、強い眩暈と息切れ、動悸に襲われる、ってぐらいだな」
「致命傷じゃないか!」
「まぁ、即座に死ぬってわけじゃねぇから、安心しろよ。そうなっても逃げるくらいのことはできるぜ」
ヘルメスは溜め息をついた。
「一対一になったらすぐに撤退、というわけだな……とすると、乱戦が多い序盤はともかく、最後の方が厳しいな……私がどうにかして……」
「なぁ、主殿」
「なんだ」
「そこまでして、何を聖杯に望むんだ?」
ゴットフリードはあえて唐突に問うた。
案の定、ヘルメスは寸の間動きを止める。それからおもむろに、首だけで振り返った。真意を測りかねているような鋭い視線が、しばし突き刺さって――やがて、元の体勢に戻る。
「私が至るべき地位を奪った盗賊どもがいる……そいつらに凄惨な死を与え、私に正当な権力をもたらす、圧倒的な力が欲しい。金でも、能力でも、なんでもいい。とにかく大きな力を――どんな手を使ってでも、手に入れなくてはならない」
その言葉は背中越しに、しかし強い決意と反感を宿して響いた。
「ほぉん」
「なんだ、その、気のない相槌は」
「いや。存外、俺と主は馬が合うのかと思ってな」
「はぁ?」
ヘルメスが心底嫌そうに眉根を寄せながら振り返った。ゴットフリードはその顔に、かつての知己を思い出す。生真面目で細かくて口うるさくて、自分と同じ道を歩んでいるようでありながら、実際は正反対の目的へ向かって――自分よりもっと大きな野望を抱いて――散っていった男のことを。
覚えず、口角が上がる。
「俺のケツを舐めろ! って言ってやりてぇ奴がいる、ってことだろ?」
「違っ……違う! 間違ってもあんな奴らに尻を舐められたくはない!」
「実際にやるかよ。もののたとえだ」
「……まぁ、己が受けた以上の屈辱を味わわせたい、という意味なら」
「そーそー、そういうこった。なるほどなぁ」
うんうんと一人勝手に頷いていると、ヘルメスがこちらに向き直った。
「そういうお前はどうなんだ? 聖杯にかける望みがあるから、ここへ来たんだろう?」
「んー? あー、そうだなぁ……」
――望み。聖杯にかける望み。最奥にして深淵に根差し、魂のあり方を規定する存在意義。死して尚消えず、むしろ燃え上がり、己を捕らえて離さぬ渇望。どうしても満たさねばならぬと己を縛る、宿命とでも呼ぶべき執着。
(若かりし頃の俺ならば、この右腕の復活を願ったかもしれんなぁ……)
と、ゴットフリードは鉄の義手に視線を落としてそう思った。
ゴットフリードが右腕を失ったのは、一五〇四年、齢二十四、バイエルン継承戦争の時のことだ。味方からの砲撃が当たったのだ。運悪く。
何が起きたのか、咄嗟には理解できなかった。砲撃音は最初からずっと鳴り響いていたから、意識などしていなかった――まさか撃たれるとも思っていなかったが。気が付いた時には、槍が馬の足元に落ちていたのだ。それでよくよく見てみると、剣の柄頭が弾け飛び、腕甲を貫き、鉄片が皮膚に食い込んで、己の右手がちぎれかけた革紐のようにぶらぶらと揺れていたのだ。
落馬しなかったのは奇跡である。冷静さを失わなかったことも。普段から多めな血が抜けたのが、かえって良かったのかもしれない。若かりし頃のゴットフリードは、自分の状況を理解すると、何騒ぐことなく戦線を離脱したのである。
(……思えばこれが、俺の生き方を決めたのかもしれんな)
怪我を負った時、ゴットフリードは神に祈ったのだ。――どうか恩寵を。戦士としてはもう終わりなのだから、今すぐこの命を召し上げてくれ、と。
しかしすぐに思い直したのだ。ケヒリという名の隻腕の傭兵のことを思い出し、再び祈ったのだ。――どうか恩寵を。俺はまだ神のご加護のもと、誰よりも勇ましく戦いたいのだから、と。
意地、といえばそれまでだ。だが、もしもこの腕を失っていなかったら――果たして、死ぬ間際まで戦い尽くせただろうか?
(なんて、思うのは、歳を食ったからだろうなぁ)
「おい、セイバー?」
年寄りらしく物思いにふけっていたら、ヘルメスが怪訝そうな顔をしてこちらを見ていた。いつの時代も、若者はせっかちである。
ゴットフリードは頬杖を解いて、両手を肩の辺りに広げた。
「これと言った望みはねぇな」
するとヘルメスは大袈裟に眉毛をひん曲げた。
「望みがないのに、英霊の座にいるのか?」
「そうさ。――俺はな、生きてる間中ずっと、神の加護を祈り続けた。死ぬ直前にも、神の加護を願った。この世では肉体に、あの世では魂に、どうかご加護を与えたまえ。永遠の死からお守りくだされ……ってな。だから、今ここに在れるのは、神のご加護の賜物なんだろう。それ以上は何も望まんさ。――ま、強いて言うなら、派手に戦いてぇ、ってくらいのもんかな」
「……存外、敬虔だったんだな」
「おいおい、俺を何だと思ってやがる」
「お前の行状を知れば、誰もが“神をも恐れぬ盗賊騎士だ”って、そう言うさ」
「何言ってんだよ、神を恐れぬ人間がこの世にいるか? 俺はただ、神以外の何物も恐れなかっただけだ」
ゴットフリードが何気なくそう言った瞬間、ヘルメスはなんとも言い難い顔になって、「……神以外の何物も、恐れなかった……」とオウム返しに言った。
「あぁ。それがどうかしたのか?」
「……いや、なんでもない」
ヘルメスは無愛想に会話を切ると、すぐさま手元に目線を落とし、再び作業に没頭し始めた。
(……ま、いいか)
ゴットフリードは少しの間だけ首を傾げていたが、すぐに霊体化した――しようとして、
「セイバー」
「おう? なんだよ」
消えかけたのを取りやめる。
彼の主は目線を上げていなかった。ゴットフリードは、それを少しだけ残念に思った――というのも、ヘルメスの目は琥珀色の狼の目なのである。ベルリヒンゲン家の紋章には、子羊をくわえた狼が描かれている。狼はゴットフリードにとって、縁起の良い動物なのだ。だから、残念に思う――顔を上げてさえいれば、獲物を見つけた狼の瞳の輝きを拝めただろうに、と。ゴットフリードにそう思わせるほど強い口調で、ヘルメスは言ったのだ。
「奇襲は、フェーデにあたらないな? ――今夜、襲うぞ」
「――Ja!」