模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research   作:井ノ下功

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アサシン 3

 

「主様」

 

 唐突な呼びかけに、真琴はびくりと肩を震わせた。割れた爪を隠すかのように、拳を握ったのは、無意識の行いである。それから声の方に振り返る。

 山崎は道場の出口、深夜の渦への入り口に立っていた。アサシンの隠密性能は、マスターの認知すら欺くらしい。彼女はまるで、今この瞬間に闇から生まれ落ちてきたかのように、暗がりに馴染んでいた。

 

「只今戻りました」

 

 灯りの下にまで来ると、彼女は情けない笑みを浮かべているのだった。どことなく申し訳なさそうな空気感を纏っているのは、戦果を挙げられなかったからだろう。一方で、真琴の言動に対する疑問の色は、まったく隠していない。――おそらくは、こうやって与えられた印象すら彼女の制御の内にあるのだろう。

 真琴は道場の床の冷たさに気が付いた。いいや、床は最初から冷たかった。この床が暖かかったことなど一度たりともない。

 これは――恐怖だ。

 

(……飲み込め。受け容れろ。我ら上之宮流の神髄はその先にある――)

 

 霊的存在との接触は、常に危険が伴うものだ。まして歴史上の偉人、英霊ともなれば、なおさら――意思疎通の可不可にかかわらず、場合によってはむしろ意思疎通できるからこそ――扱いには心を砕かなければならない。たとえ怨霊や悪霊や呪詛のように、破壊の意志を持っていなくとも、彼女がその気になれば人間の命など一息で吹き消せるのだから――

 

「いやぁ、つっかれました!」

 

 山崎は真琴の隣へ、男のような仕草でどっかりと腰を下ろしたと思ったら、そのまま大の字に寝転んだ。

 

「うっひゃあ、床、冷たっ! ああああ~気持ちいい~! 熱帯夜ってやつですねぇ。さぁばんとだから汗はかいてないんですけど、こういうのって気分的なもんですよねぇ。あーほんっと、疲れたぁ~」

「……」

「言い訳するつもりはありませんけど、あのせいばぁ、けっこうなやり手でしたよ。ボクの襲撃に気付くなんて……でもたぶんあれは、気配に鋭いってわけじゃなくて――暗殺者の襲撃があるかもしれない、って予期していた感じですね。なかなかの悪党だと見受けました。まぁ、次は仕留めますけど!」

「……」

 

 山崎は頭の下に両手を敷いて、すっかり寛ぐ姿勢になっていた。それから、真琴の方を見上げたらしい。真琴は彼女と目を合わせてしまわないように、ほんの少しだけ視線をずらしていて――ゆえに、綺麗な弧を描いていた山崎の唇が、一瞬だけ僅かに歪むのを見逃せなかった。

 元の弧に戻り、それが割れる。

 

「それで、主様と、あの虎のますたぁとのご関係は?」

 

 分かっていた質問だ。聞かれるであろうことは覚悟していた。なのに息が詰まった。反射的に逸らした視線で、床板の間隔を目測する。けれど、二枚目から先には進めなかった。壊れた時計の秒針のように、一枚目の床板の境目を往復する。

 山崎が身を起こしたのが気配で分かった。

 

「主殿。……隠し事は、無しにした方がいいと思いますよ。ボクはほら、監察方ですから。隠されると暴きたくなるんで、そっちに意識がいっちゃって、戦いの方が疎かになってしまうかもしれません」

「……それは困るわ」

「でしょう?」

「分かってるのよ――」

 

 だからちょっと待って、とは、口に出せなかった。

 しかしその言葉になる前の言葉を、山崎は聞き取ったらしい。

 沈黙の中に蝉の声が満ちる。かの声を“岩に染み入る”と表現した俳人は、場に居据わる静けさを岩のようだと感じたのかもしれない。とすれば、最初の一言の難しさにも納得がいく。

 岩を割るのは、非常に困難だ。本来の意味での“口火”を必要とするほどに。

 真琴はゆっくりと息を吸って、吸って、吸って――もう吸えない、という限界までいって――

 

「彼の名前は、遠藤晶」

 

 ――吐くついでにそう言った。

 

「小学校の頃の同級生よ。六年生の頃、ある事件がきっかけで、それきりずっと引き籠っているの。……その、“ある事件”が、問題なのだけれど……」

「ある事件、ですか」

「ええ。……それは、半分は私の所為でもあるの。私が近くにいたのに、守り切れなくて――彼の弟を、死なせてしまった。それが原因で、彼の家庭は壊れてしまった。――どうして彼が聖杯戦争に関われたのか、は分からないけれど、目的はまず間違いなく、家族を取り戻すことでしょうね」

「……残りの半分は、誰の所為なんです?」

 

 真琴は山崎を一瞥した。寸の間、言いあぐねて、しかし沈黙の岩に押し潰されるのを恐れたかのように、すぐに口を開いた。

 

「彼自身よ。――彼は、特殊な体質の持ち主なの。霊媒体質と言うか……悪霊や、怨霊の類を、望むと望まざるとにかかわらず、引き寄せてしまう体質を持っていて――特に、感情が激すると、途轍もない引力を発揮するの。……それだけじゃない、って、もっと早くに気付いていればよかったのに……そうすれば、あの日……――」

 

 ああ、そういえば、あの日もこんな蒸し暑い夜だった。

 五年前――小学校で、遠藤晶はいじめられていた。別に原因という原因はなく、生来の気質がそうさせたのだろう。大人しくて、真面目で、声が小さくて、ちょっとしたことですぐに怯える少年は、乱暴者たちの標的にされていた。弟もまた大人しくて、色白で小さくて、一緒にいると巻き添えをくらっていた。

 真琴も大概爪弾きにされていたが、その手の悪口や陰口にいちいち目くじらを立てているような精神性では、魔術師になどなり得ない。そもそも、魔術師とは孤高に生きる者である、と物心ついた時から教育されているのだ。幼稚ないじめに屈するような少女ではいられない。ゆえに、少し広めに距離を置かれるだけで済んでいた。

 仲間外れ同士、少しずつ距離が縮まるのは自然の摂理のようなものであった。

 距離が縮まれば、霊感を持つ者同士、互いの能力に気が付くのも時間の問題だった。

 だが、気付いたからと言って何をするわけでもなく。大して会話をすることも無かった。ただ時折、どこからともなく雑霊が湧いて出てきては、晶が大袈裟なまでに怯えて、真琴があっさり調伏して――その間も、その前後も、お互いに無言であった。晶は時々お礼を言ったが、あまり話題にしてはならない類の出来事だ、ということを肌で感じ取っていたらしい。何事もなかったかのように振る舞う方が正しいのだ、と、徐々に学んでいった。

 ある日、晶と彼の弟は行方不明になった。

 夜になっても帰ってこないのだ、と、家から学校に連絡が入り、連絡網が回されて、真琴はすぐに思い出した。放課後、いじめっ子たちに引きずられていく二人の姿を見たのだ。

 占いで場所を割り出した。満穂川の上流。三津楽寺の裏手。あの場所には古い防空壕があるから、近付いてはいけない、と、口うるさく言われているところだった。――幽霊が出る、という噂もあった。

 その噂が噂でないことを、真琴は知っていた。

 方角は北東。いわゆる“鬼門”に当たる場所であり、霊が溜まりやすい地形をしている。防空壕では何人かが亡くなっている――空襲によるものではなく、心中だ。その上、三津楽寺は戦前、上之宮家と争った“密烙教団”という神秘主義結社の本拠地だった。彼らによって汚染された土地は、戦後七十年経っても完全には元通りになっていない。

 真琴はすぐさま家を飛び出した。幽霊を恐れる彼の性質を面白がった連中が、肝試しだとか称して無理やり連れて行ったのだろう。そうに違いない。きっと彼は泣いている。彼には幽霊が見えるから、普通以上に怯えているはずだ。助けてあげなくてはならない。それが、力ある者の義務だ――そんな風に思ったことを覚えている。

 そして、そこで見たもののことも。

 真琴は未だに忘れられない。

 

「――彼は、あの日、異形の存在に、成り果てたの。まるで、私の式神みたいに――彼は、呼んだ霊を体内に取り込んで、自身を〔変容〕させる体質も兼ね備えていた。異様に強い霊媒体質、とでもいえばいいのかしら。――私にはどうにも出来なかったわ。私は、隠れて、ただ見ていただけ。……せめてあの時、母を呼んでいたら……一人で出て行かないで、親に相談してたいたら……」

 

 ――分かっている。そんなことをしたら、晶はその場で殺されていただろう。けれど、今になって考えてみれば、その方が彼にとって良かったかもしれないのだ。

 自分の手で弟を食い殺して、それで満足したように眠りに就いて――元に戻った時、彼は何も自覚していなかった。『化け物が弟を殺した』と繰り返し繰り返し、壊れたおもちゃのように言っていたから、幽体離脱のような形で現場を俯瞰していたのかもしれない。それがまた一層残酷に思えた。

 彼の精神は不安定になって、学校には来なくなり、辺り構わず雑霊を呼び込むようになった。それに当てられて、彼の母親は病み、彼の父親は家を捨てた。

 

「私がようやく、彼の性質を理解した時には、彼の家はもう手遅れだった。気休めにしかならないけど、これ以上彼の元に雑霊が集まらないように、結界を張って――それだけ。……問題を先送りにすることしか、出来なかった。何もしていないのと同じよ」

「ほほぉう、そんなご関係でしたか」

 

 呑気な相槌が憎たらしく思えて――どうせまたへらへらと笑っているのだろう、他人事だと思って――真琴は山崎を睨むように見た。

 そして、息を呑む。

 山崎は真剣な顔つきで、道場の壁を見つめていた。小麦色、とまではいかないが、適度に日焼けしたやんちゃな顔から、普段の快活さが消えている。漆黒の瞳が稲妻のようにこちらを向いて、真琴の眼を捉えた。

 

「……勝てますか? 主殿」

「っ――」

「いえ、その前に――戦えるのですか? 彼と」

「……」

 

 真琴は膝の上で拳を握りしめた。割れた爪に圧力がかかって、じくじくと痛む。その痛みが真琴には、どこか別の、見えない部分の痛みのように思えた。

 

「これは戦争です、主殿。――どうか、お覚悟を」

 

 そう言い残して、山崎は姿を消した。

 岩に染み入る、蝉の声――。

 

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