模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research 作:井ノ下功
『我が
真琴が声を掛けた瞬間、晶――李徴にしてみれば、“袁傪”――の心臓がびきりと音を立てて固まったのが、伝わってきたのだ。李徴にとって、姿を晒す理由にそれ以上のものはない。
(袁傪、君を、
李徴は牙をむき出しにして、呪術師のにおいを纏う怪しげな女を睨みつけた。
が、
「ちょ、待って、待って! 街中じゃマズい……!」
晶が目の前に飛び込んできた。
李徴はまさか友に向かって牙を向くわけにもいかず、しぶしぶ口を閉じる。
『――何故だ、故人よ。かの女、君の敵ではないのか?』
「ええと、その……」
曖昧に言葉を濁しながら、晶はちらりと肩越しに後ろを見て、
「……向こうに、戦う気はないみたいだし……何より、ここじゃ、目立ちすぎるから……!」
すでに李徴の姿を見た周囲の人々が、ざわざわとどよめいている。平日の昼間だが、時は夏休みだ。何も考えていなさそうな子供が、李徴を指差して歓声を上げる。その程度なら可愛いものだが、それより少し歳が上がれば、途端にスマートフォンを構え出す。動画の拡散は時間の問題だろう。さらに年上の人々は、「脱走……」「警察を呼んだ方が……」などと言っている。間違いなく、通報される。
李徴にそのあたりの事情は理解できなかった。しかし、晶が周りを気にしていること、己の姿が人に畏怖嫌厭の情を起こさせることは、よく分かっていた。
しぶしぶ姿を消す――無論、その直前に、女を一睨みして牽制しておくことを、李徴は忘れなかった。
李徴が消えた途端に、真琴は両手を打ち鳴らした。
「〔変質せよ〕」
一瞬、薄い靄のようなものが空気中に散らばった。――と、ざわめいていた民衆が、ふ、と動きを止めて、瞬き一つの後には、まるで何事も無かったかのように元通り歩き出した。
何らかの呪術を行使したであろうことは、李徴にも分かった。
「ちょっとした視線避けよ。少し注目をずらせば、人の記憶なんてすぐに消えるわ」
「え、あ……そう、なんだ……」
「来て。話があるの」
言うが早いか、真琴はくるりと背を向けた。
晶は恐る恐る、その背についていく。彼が非常に緊張しているのを、李徴は感じていた。その緊張が何に根差すものなのか、李徴には分からなかったが――あの女を恐れている、そのことだけは確信が持てた。
(守らねばならぬ……我が故人を、守らねばならぬ……!)
李徴は、陰に潜む暗殺者のにおいも感じ取っていた。虎になってからというもの、嗅覚がいやに鋭敏になってしまって仕方がない。勿論、便利な時もあるにはある――今回の戦いのように――のだが、それよりも困ることの方が多いのだ。特に、血の匂い、とりわけウサギやシカといった獲物のにおいを嗅ぎつけた時、理性があっさり吹き消されるのには閉口する。
だが、
(この辺りは、何と言おうか、己が知るどの都とも異なって――)
――生き物の気配が薄い。
ウサギやシカなどといった食いでのある獲物のにおいなど鼻を掠めもしない。
電線に止まった雀の二羽三羽程度に食指が動くほど飢えてもいない。
これは李徴にとって甚だ都合の良いことであった。
(我が故人の為だけに、この忌むべき力を使えるのだ――ならば、良い。それならば、己も耐えられる)
この手がこの爪がこの牙が、袁傪の敵の悉くを打ち砕くならば、それ以上の幸せはなかろう――と、李徴は思うのだ。
小さな公園の真ん中で、真琴は足を止めた。そこから三歩以上開けて、晶も立ち止まる。
ひどく寂れた公園だった。遊具はまったく無く、小さなベンチが申し訳程度に設置されている。いくら夏休みの午後といっても、このような場所にわざわざ遊びに来る子供などいないだろう。――真琴が、人払いを行なっているのかもしれないが。
「教会に行ってきたのね」
前置きを知らない人間のように、彼女はそう言った。
晶は小さく頷く。
「なら、あなたが何に参加しているのか、理解できたでしょう?」
「……うん」
「分かったなら――この戦いから手を引きなさい」
「っ」
「これは、あなたのような常人が参加していいものじゃないわ。今すぐ、マスター権を放棄して、安全な場所に――」
「嫌だ!」
晶が、吠えた。
李徴も驚くほどの大きな声で、はっきりと――どこか幼さを残しながらも――言ったのだ。
「嫌だ。僕は、逃げたくない――叶えたい願いがあるんだ。叶えられるかもしれないって知った以上――逃げるなんて、無理だよ」
「……なら、どうするの?」
「え?」
「あなたは何も分かっていない。魔術師の戦いがどういうものなのか――サーヴァントを使役するとはどういうことなのか――何も分かっていないでしょう。現に、あなたは昨晩、死にかけたのよ。それを助けたのは私。私が何もしなかったら、あなたは昨日、殺されていたのよ。あんな状態で、どうやって戦うって言うの? どうやって勝つって言うの?」
「――」
「無理よ。あなたには無理。あなたに、願いは叶えられない」
「そ、そんなの、やってみなくちゃ――」
「昨日のことを思い出しなさい」
「っ……」
「悪いことは言わないわ。手を引いて。……お願いだから」
晶は太腿の脇で拳を握りしめて、深く俯いた。この拳が細かに震えていた。言い知れぬ悔しさが彼の胸中を激しく揺さぶっているのが、李徴には分かる――分かるのだ。たとえ彼のサーヴァントでなかったとしても、理解できたに違いない。
――あなたには無理よ。
――やってみたじゃない。やってみて、それで駄目だったじゃない。
――お願い、諦めて……あなたは、詩人にはなれないわ。
まるで呪いのような言葉。いや、そこに比喩表現は必要ないだろう。まさしくあれは呪いの言葉。夢抱く人間を正しく打ちのめす正義の鉄槌。死後もなお魂を縛る鋼鉄の鎖。それが今、袁傪、我が故人を苛むというならば――
『俯くな、我が故人よ』
李徴は霊体化を解いた。晶にすり寄って、揺れる瞳を見上げた。
『夢破れることは恐ろしかろう。自分の無力を思い知るはつらかろう。――だが、それ以上に、夢半ばで唐突に、理不尽に、夢を見ることすら許されぬ身となるほうが、余程恐ろしく、つらいものだ』
「……」
『俯くな、故人よ。他人の言に惑わされるな。君は君が思った通りに進まなくてはならぬ。他の誰が何を言おうとも、君の正しさは君にしか分からぬのだから――』
――君は、己のようになってはならぬ――己のような、あさましきけだものに堕ちてはならぬ――
『――他人の為に、君の正しさを、曲げてはならぬ』
晶の瞳から揺れが消えた。拳を解いて、手のひらを李徴の頭の上に乗せる。そこに恐れはなく、躊躇いはなく、ただ決然とした意志だけが灯っている。
晶は顎を上げた。
「ごめん、上之宮さん。……僕はもう逃げたくないんだ。僕に出来ることは、もうこれしか残されていないと思うから」
「……そう」
真琴は苦々しげに顔を歪めて、口の中で何事か呟いた。それから、憮然とした態度で背を向ける。それきり、彼女は何も言わずに、その場を後にしたのだった。
その背中がすっかり見えなくなってから、
「――……はぁー」
晶が大きな溜め息をついた。緊張が解けたらしい。そのまま李徴の首に腕を回して、すがりつくようにしながら、地面に膝をつく。李徴は晶を支えるように、意識して頭を上げたまま、そっと鼻を寄せた。
『大丈夫か、我が故人よ』
「うん、大丈夫。……さっきはありがとう、李徴」
『む?』
「すごく、励まされたから――本当に、ありがとう」
『礼には及ばぬさ、故人よ。君の役に立てたなら、己にとってそれ以上のことはない』
言いながら、李徴は、その言葉通りのことを――あるいはそれ以上のことを――感じていた。ずっと、ずっとこうしたかったのだと、そう思っている自分がいた。袁傪が自分にしてくれたように、自分もまた、袁傪にこうしたかったのだと――己が袁傪を故人と呼ぶように、袁傪にもまた故人と呼ばれ、対等に、互いを助け合いたかったのだと――そう思った。
(あぁ……まるで夢のようだ……)
そこにも比喩表現が必要ないことを、李徴は知らずに――仮初の幸せを、長い尾がゆっくりと掻き混ぜていた。