模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research 作:井ノ下功
キャスター 1
「素に銀と鉄――礎に石と契約の大公――降り立つ風には壁を――」
深夜二時半。俗に言う、草木も眠る丑三つ時、という時間帯だ。
男はまるで闇に溶けようとしているかのように、全身真っ黒だった。黒いワイシャツ、黒いズボン、黒い革靴。ネクタイを省略しているのは、暑さのためだろう。そのくせ、手には黒い手袋をはめていて、どこか異端的である。髪の毛は明るいブラウン、瞳も明るい緑色だが、何故か暗く落ち込んでいるように見える。部屋の異常な雰囲気がそうさせるのかもしれない。
「四方の門は閉じ――王冠より出で――王国に至る三叉路を循環せよ――」
書斎の床には精緻な魔法陣が描かれている。その前に立って、両手を掲げ、彼は緊張した面持ちで詠唱を続ける。
「閉じよ」
“みたせ”と繰り返すつどに五度。一言ずつ室内の空気が異様な圧迫感を帯びていく。真夏にもかかわらず閉め切られていたカーテンが揺れ、窓ガラスがかすかに震え始めた。それは嵐の気配に怯える猫の髭。或いは怪物の登場を察した赤子の産毛。
「ただ、満たされる刻を破却する――」
頬を伝った汗が、滴り落ちる。
「――告げる」
唐突に噴き上がった風に押され、汗の粒は床を目前に砕け散った。
「汝の身は我が下に。我が命運は汝の剣に。聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ」
魔法陣が煌々と輝く。カーテンを引いてあったのはこのためか。しかしその強い光は、窓の外を満たす夜闇をも切り裂いて。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者。我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天――」
最後の一節を、
「――抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」
唱えた。
瞬間、魔法陣から立ち上った光の柱が、部屋を、視界を、真っ白に塗り潰す。
彼の目が復帰するのに、五秒ほどが費やされた。
そしてその五秒は、
「……ふむ。なるほど、そういうことか」
召喚されたサーヴァントが推理を完了させるのには、充分過ぎる時間だった。
呼び出した男は涙を散らしながら、目を開け――その目を疑った。視神経が焼き切られた、そうでなければ大脳がやられたかと思ったくらいだ。
そのサーヴァントは、魔法陣の中央に立ち、細長い人差し指で顎の先をとんとんと叩いていた。天井まで届く本棚の一番上段にまで、余裕で手を届かせるであろう高身長。ヴィクトリア朝の紳士を彷彿とさせる、やや古風なスーツ。黒いインバネスコートと鹿撃ち帽を小脇に抱え、ひらりと翻った手が顎の下からコートの中へ。取り出したるは、大きなパイプとマッチだった。
「君も喫煙者だ、吸っても構わないだろう」
当然のようにそう言われ、彼は思わず頷いていた。彼が、ここには灰皿を置いていないし今日はまだ一本も吸っていないのに、と思ったのは、随分と後になってからのことである。一体何を見て、どこから、彼が喫煙者であることを、かのサーヴァントは読み取ったのだろう。
マッチの火をパイプに落とすと、やがて白い煙がふわりと漂う。独特な香りのする煙が目の前にまで来て、思い切り吸い込んでから、彼ははたと我に返った。
「……え、あ、あの……あなたは――」
「うん。その通り」
彼が何を言うより早く、サーヴァントは頷いた。
「僕は君が呼びたかったサーヴァント――ジャック・ザ・リッパーではない」
「っ!」
「何故それが分かったか、って? 明白さ。君の後ろのデスクの上。そこに置かれているのは間違いなく、ジャック・ザ・リッパーが殺した娼婦の一人、キャサリン・エドウッズのエプロンの一部だ。特徴がすべて一致している。それに加えて、デスクの側面にチョークで書いた“The Jews are not The men That Will be Blamed for nothing.”――これはジャックが書き残したとされる落書きだ。――はぁ、こんなのはただのクイズであって、推理とは呼べない代物だよ」
退屈そうに煙を吐き出して、サーヴァントは魔法陣から出た。書斎をくるりと一周したと思ったら、まるでここが自分の部屋であるかのように、デスクの上にコートと帽子を置いて、革張りの回転椅子に腰を下ろす。長い足を組み、もう一度煙を吐く。刃のように冷たい声が溢れ出す。
「君はジャックを呼ぶために随分と調べたようだ。そこに平積みになっている書籍、書類、すべて切り裂きジャックに関する記述ばかり。ここ一、二週間ほどで慌てて掻き集めたらしい、本棚には余裕があるのに、しまっていない。本棚を見れば、時計回りに文学・歴史・地理・天文と分野別、著者名順に綺麗に並べていることから、君がたいへん几帳面な性格であることはよくわかる。そんな君にとって、集めた資料を読んだ端から放り投げていくなんて、あり得ないことだろう。――それだけ、この聖杯戦争は急に開幕が決まったということか」
息もつかせぬ怒涛の喋り。驚異的としか形容できない観察力。そこから導き出される、完璧な推理。これらを持ち合わせ、さらに、ジャック・ザ・リッパーと同じ遺物で召喚されうる人物――。
間違いない、と彼は思った。いやまさかありえない、とも思ったが、他に当てはまる人物はいないのだ。その確信は、確かに完璧な推理ではあったが、かのサーヴァントからしてみれば“遅すぎる”“君はただ眺めているだけで、観察をしていない”と言わずにはいられないものだったろう。
それでも彼は正解に辿り着き、震える声で尋ねた。
「あなたは……まさか……――シャーロック・ホームズ?」
サーヴァントは冷たい目で彼を見返した。
「その通りだ、ジョン・ワトソン」
名乗ってもいないフルネームを唐突に呼ばれ、彼は――ジョン・ワトソンは息を呑んだ。サーヴァント――シャーロック・ホームズは、片頬を吊り上げて、どこか皮肉気な笑みを浮かべながら、「まぁ、ジョンもワトソンも珍しい名前ではない。そういうこともあるだろう。ただ――ジョンとワトソンを兼ね備えた男性が、生まれついての魔術師で、聖杯戦争に参加し、切り裂きジャックを召喚し損ねて僕を呼ぶ――なんてことが起きる確率は、相当に低いだろうと思うけれどね。もしかしなくとも、君自身が触媒のような役割を果たしたのかな。ふん、それは面白い」
それから、ワトソンの何か言いたげな目線に気付いたのだろう。左右に振っていた椅子を止め、フルネームを言い当てた理由を述べた。
「名前入りの万年筆。プレゼントか? 悪くない趣味だ」
「なるほど……」
言われてみれば、いっそくだらないと思うほど、何の不思議もない推理だ。魔術や神秘とはかけ離れた、純粋な現実を見極める能力。
(確かに、凄い)
人並み外れた観察眼と推理力。さすがは、長く語り継がれ、多くのパスティーシュを生み出し、まだなお新鮮な探偵である。が、それは果たして、神秘に到達しうるものだろうか。まして戦闘において、役に立つものだろうか。
(いくら“模擬”とはいえ、これは聖杯戦争……勝ち残れるのか……?)
ワトソンの不安を見透かして、ホームズは立ち上がった。
「君の懸念は尤もだ。僕は知っての通り探偵であって、戦闘にはまったく自信がない。護身術程度なら扱えるが、セイバーやランサーを相手にして、互角に戦えるとは微塵も思っていない。……だが、こと情報戦、推理戦に関してなら、世界一と謳っても問題ないだろう。戦い方を間違えさえしなければ――充分、勝ち目はある」
事実をのみ淡々と語る冷たい口調には、根拠のない自信も、考えなしの勇気も、弱さからくる自暴自棄すらも混ざっていない。故に、何より信頼のおける分析。だからこその、探偵。
真実を追求し、現実を見通す者――
ホームズは鼻を鳴らして、唇を笑みの形に歪めた。
「今更だが、こういうのは様式美というやつだからね。――サーヴァント、キャスター。真名をシャーロック・ホームズ。呼びかけに応じ参上した。――問おう、君が、僕のマスターか」
ワトソンがその問いを肯定して――模擬聖杯戦争、二組目がここに誕生した。