模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research 作:井ノ下功
魔術師の工房に殴り込むなど、自殺としか言いようがない。
だが、ヘルメスには“あえて”それをする理由があった。
(かつてロード・エルメロイは、名も無き下賤な鼠に、わざわざ構築した工房をビルごと爆破されたという)
工房にいる魔術師は強い。ならば工房を壊してしまえばいい。なんと明白で簡単で合理的で――美しさを欠片も持ち合わせていない戦術だろうか。無論、それだけで敗北に至るほど、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは凡庸でも軟弱でもなかったのだが。しかし、そこから少しずつ事態が悪化していったことは、確かである。
(だから、私は乗り込むのだ――エルメロイの名を継ぐものとして。正々堂々と、魔術師の工房に乗り込み、真正面からそれを打ち破るのだ! 先代の恥辱を雪いでこそ、当主の座に相応しい……!)
ただ生き残っただけの若造とは違う、ということを、示さなくてはならない。
他人に教えるしか能のない青二才とは格が違う、と、知らしめなくてはならない。
(そうでなくては――そうしなくては、私はエルメロイの名を取り戻せない!)
故に、ヘルメスは夜陰に紛れ、上之宮家の塀を飛び越えたのだ。
――なのに。
(何だこの場所は……異様に寒い。異様に冷たい!)
ヘルメスは道場に踏み込んだ瞬間、己が気圧されるのが分かった。臨戦態勢に入った魔術師の工房は、怪物の胃の中に等しいのだと、知ってはいたが実感していなかったのだ。――それが今になって、ようやく骨身に染みた。
気圧された自分を叱責するように、魔術を放つ。
「《金は金として我が刃たれ》!」
小さな金塊を核とした魔術は、針よりも鋭く、弾丸よりも速く放たれた。
しかしそれは、道半ばで自然に解け、崩れ落ちる。
「〔変転せよ〕」
少女の小さな、本当に微かな囁き声。それに応じて、黒い触手が四方から押し寄せてくる。それはまるで、この世のありとあらゆる病苦と呪いを押し込めたかのように禍々しく、異様な圧迫感を纏い、ヘルメスへと襲い掛かった。
(っ、速、い――)
集中も詠唱も間に合わない。
「《銀は我が加護》!」
かろうじて捻じ込んだ半端な術などあっさり切り裂いて、鋭利な棘と化した触手がヘルメスの肩に突き刺さった。
「ぐあっ――あああああああああっ!」
そこから流れ込んできた呪詛が血管を食い破り、筋肉が引き裂かれ、皮膚が内から弾けた。血が溢れ出し、ぼたぼたと音を立てて床を汚す。その穢れすら飲み込んで、黒い靄が
「〔変ぜよ、変ぜよ、変ぜよ、其の怨嗟は我が糧也、其の苦悶は我が血肉也、汝変ずることなく只其処に在れ、我は変ずる、汝を糧となし血肉となし、我が呪詛は変貌する〕」
一気に圧力が増した。靄は一層その色を濃く、深くし、夜の闇よりもなお暗く、なお冷たく、ヘルメスの体を蝕んでいく。
「うっ……うう、あああああっ、ああああああああああああああっ!」
激痛、などという生ぬるい言葉では到底言い表せない痛みが全身をくまなく包み込む。間断なく繰り返される苦痛の波に、遠退いた意識がすぐまた引き戻される。もはや脳味噌は世界を認識せず、声帯はただ事務的に呻くのみ。唾も涙も血と一緒くたになって滴り落ち、それがまた靄に吸い込まれ、さらに影を淀ませる。
己の死を覚悟する暇すら与えられなかった。
己の愚策を嘆く猶予すら許されなかった。
それはヘルメスの身体を、魂を、一方的に縛りあげて圧迫し、無情に押し潰す――
☆
ゴットフリードは焦りを感じていた。
(やっべぇ、主が……このままじゃ……――)
向こうの戦況を気にできるほどの余裕はある。アサシンはそこまで強くない。
が、
「っ!」
甲冑の隙間に差し込まれた細い刃が皮膚に到達する寸前、身を捩ってそれを避けた。すかさず、懐近くにまで潜り込んできているアサシンの額目がけて剣柄を振り下ろす。躱されることは分かっていた。だからそのまま手首を返し、一歩踏み込んで相手の足さばきを邪魔しつつ、首筋を撫で切りに。
「ふっ!」
「――っ!」
アサシンの姿が一瞬だけ掻き消えた。
剣先が何かを切り裂いた。しかしそれは着物だけ。大きく後退したアサシンは、ただの一滴の血を落とすこともなく、素早く身を翻して再び向かってくる。
強くはない――が、適度に速い。また一方で、速過ぎないが故に軽過ぎず、かえって扱いづらい。
「ちっ」
思わず舌を打つ。やりにくい。引き離せない。押し切れない。
このままやり合っても、ゴットフリードが負けることはないだろう。かといって相手を倒し切れるかと言われると、もう少し時間が必要だ。しかし時間をかければ、マスターの方が先にやられてしまう。だからとマスターの方に助太刀しようとすれば、その隙をすかさず仕留めてくるだろう。それを良しと出来ないほどには、アサシンの刃は鋭い。
ヘルメスの絶叫が耳に届く。魔力回路が滞るのが、いくら魔術に疎いゴットフリードであっても分かった。
(――致し方あるまい、か)
ここにきてゴットフリードは腹を括った。
この状況を打破する起死回生の一手があるとするならば、それはただ一つ――
――宝具しかない。
「神よ、我にご加護を与えたまえ」
剣を縦に、胸の前に。柄に嵌め込まれた十字架に口づけをして、腹の底から声を出す。魂の奥底に埋め込まれている大きな力を呼び覚ますため、神に祈るのと同等に、強く、強く、言の葉を紡ぐ。
「決闘(フェーデ)をせずとも、片腕がなくとも、我は神の騎士、戦いを求める勇士なり! 我が覇道を妨げる者よ、悉く――」
魔力が集積するのを見て取ったのだろう。アサシンが床を蹴る。
しかし、宝具は既に開帳された。
剣を縦に、胸の前に。高く掲げ、空を斬り下ろす。
「――
言い放った瞬間、暴風が吹き荒れた。
ゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲンの有するは対人宝具。全盛期のそれには遠く及ばないが、それでも、戦況をひっくり返すほどの威力は持ち合わせている。『Leck mich im Arsch』――直訳すれば、“俺の尻を舐めろ”という意味になるこの罵倒は、古くからドイツに存在する慣用句であり、マルティン・ルターが悪魔に対して言い放ち、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがカノンにしたことで知られている。過去にゴットフリード自身が言ったわけではなく、後に作られたゲーテの戯曲の中で“言ったことにされ”、一躍有名になった台詞だ。
この言葉の前では、あらゆる敵対者が退けられる。命を奪うものではない。神に敵対する者、すなわち己に敵対する者すべてが、悪魔だろうが精霊だろうが騎士だろうが英霊だろうが関係なく、戦力を――一時的にだが――大幅に削がれるのだ。
(そして、俺のために首筋を晒す)
風が収まった時、そこに立っているのはゴットフリードただ一人だった。アサシンは体勢を崩して膝をつき、頭を何度も横に振っている。アサシンのマスターも同様だ。彼女の魔術から解放されたヘルメスは、床に倒れ、荒い呼吸を繰り返している。
ゴットフリードは一瞬、迷った。すなわち――アサシンの首を取るか、それとも離脱を最優先にするか。ただ、迷ったのは本当に、一瞬だけである――長く迷えるほど、戦場は安穏としていない。何より、場が相手にとって有利過ぎるのだ。真正面から宝具を受けたはずのアサシンは、すでにほとんど回復しているようだった。
「っ、と、元気だなぁオイ!」
アサシンが投げた釘のようなもの――棒手裏剣――を軽やかに躱し、ゴットフリードはヘルメスを肩に担いだ。
「決着はまたいずれ! あばよ!」
そしてそのまま、道場を飛び出した。
しばらく無心にひた走る。絶対に来ると思っていた追撃が来ない。やや不思議に思えたが、そのミステリーをありがたく享受し、ある程度の距離を稼いだところで、ゴットフリードはようやく詰めていた息を吐いた。無論、走る速度を緩めたりはしないが。
(さぁて、主殿のご様子は、っと)
弱ってはいるが息はしている。意識はないが、生きてはいる。そのことに再び、溜め息を漏らす。
(ま、死んでちゃ今ここに俺はいられねぇか)
随分と無理をした、と思う。ゴットフリードは魔術に明るくなくとも、戦術には明るい。そして魔術だろうが戦術だろうが、自ら不利に飛び込むことほど愚かなことはないのだ。拠点を攻めるのは確かに定石であるが、難しくもある。こちら側に圧倒的な戦力がない限り、採らない方が良い戦法だ。
それを分かっていて、ゴットフリードはあえて止めなかった。
(……この手の野郎は、言っても聞かねぇからなぁ)
長く伸びた鼻は一度折れなければ元に戻らない。そういうものである。
(さて、問題は、主が快復するまでどう凌ぐか、ってことなんだ、が――っ!)
殺気。
咄嗟に飛び退いたところへ、轟音とともに槍が突き刺さった。コンクリートがめくれ上がる。砂埃が舞い上がり、しかし真夏の夜風に煽られて消え失せる。あるいはそれは殺気立つ青年の眼光に恐れをなしたのかもしれない。
青年はゆったりとした動作で槍を構え直し、静かに、宣言した。
「私はサーヴァント、ランサー。――セイバーよ、構えろ。いざ、尋常に、勝負!」
その真摯な言葉を真正面から受け――ゴットフリードは思い切り、顔を歪めた。