模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research 作:井ノ下功
拠点に戻るなり、少女はその姿を溶かして、元の長身の青年に戻った。
「会ってみて確信した。セイバーは間違いなく、ゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲン――鉄腕のゲッツだ。ランサーはおそらく、レッドバロン、深紅の撃墜王、すなわちマンフレート・フォン・リヒトホーフェンだろう。――おや、どうしたマスター。ひどく疲れ切った顔をしているね」
「当然だ! あんな風に放り投げられるなんて聞いてないぞ、キャスター!」
「直前に言ったじゃないか。“着地はランサーに任せたまえ”と」
「ランサーは“敵”だぞっ? 敵! 分かるか? enemyだ!」
「分かっているとも、君より遥かに深くね」
ホームズは澄ました顔でパイプに火を入れると、ソファにゆったりと腰を沈めた。
そしてそれ以上、何かを言う気配すら見せない。自分の口から出ていく白い煙を、何の感慨も覚えていない空虚な目で眺めている。
ワトソンは諦めて、電気ポットのスイッチを入れた。
「それで、君のさっきの能力は何だ?」
「さっきの能力? ああ、変装のことか。僕が変装の達人であることは知っているだろう? それの応用にすぎない」
「変装……っていう域を超えていたような気がするけれど」
「エピソードは盛られていくものさ。サーヴァントになったことで、さらに強化されたようでね」
「それじゃあ――」
と言いさして、ワトソンは口をつぐんだ。時間にして一秒以下。並の人間ならば間違いなく見過ごすであろうそのわずかな逡巡を、ホームズの鋭い目は射貫いていた。
「――どうして今まで、僕に言わなかったんだ? それを知っていれば、もう少し何か、違う作戦を立てられたかもしれないのに」
ホームズは面白そうに目を細めた。そして表情とは裏腹に、冷たい口調で、
「言う必要性を感じなかったからさ」
と吐き捨てるように言った。
「そんなことより、今後の話を詰めておこう。予定通り、セイバーとランサーはこちらの話に乗っかった。ランサーはおそらく、魔弾が放たれるのを待ってからアーチャーの討伐にかかるだろうが、それは些末な問題だ。君にはすでに言ったが、アーチャーは常に勝者を狙っている。当然なのだがね。残すべきなのはより弱い方、そうでなければ、狙撃手としての優位性が意味をなさない。故に、撃つとしたら僕ではなくセイバーだろう。……もう一つ仕組んでおいたことが功を奏せば、それもまた変わるのだけれど」
「仕組んでおいたこと?」
「少しランサーの背を押してみただけさ。それは、まぁ、上手くいこうがいくまいがどうでもいい。大勢に影響はない。――何より気にかかるのは、アーチャーだ」
ホームズはパイプを口から外して、立ち上がった。どこへともなく、歩き始める。誘蛾灯につられた蛾のように、ソファを中心にぐるぐると回る。
「奴は一体何者だ? 現場を見ても、攻撃を見ても、分かることが何一つとして無い――そんなことありうるのか? あまりにも情報がなさすぎる。用意周到で慎重で、ほんのわずかな慢心も油断も許していない。手掛かりを求めることすら良しとしないなんて……まるで――」
その足を唐突にぴたりと止めて、
「――まるで、我が宿敵のようだ」
そう言ったホームズの顔は、今までに見たことのない険しさを湛えていた。
「無論、あの男である可能性はほぼ無いに等しいけれどね。アーチャー適性があるとは考えにくい――奴が何か、あるいはこの聖杯戦争を企画した人間が、何か特別なことを仕組んだならば、話は別だが」
「……」
「アーチャーの正体はいずれ突き止めるとして、だ。現段階で分かっていることを突き合わせた結果、確実だと断言できることが一つだけある」
「それは?」
先を促したワトソンに、ホームズはもったいぶるような間を置いて、言った。
「――たとえすべての事が上手く運んだとしても、僕はアーチャーに勝てない、ということだ」
「っ――」
ワトソンが息を呑む。彼の右手が胸元を押さえ、強く握りしめた。
ホームズは再びソファに体を預け、淡々と言葉を紡ぐ。
「それは厳然たる事実だ。僕は、あの狙撃を回避する技も防御する技も持っていない。たとえばあれを一撃受け、君が令呪を切って僕の霊基を修復したとする。しかしそれでも、アーチャーの方もまた令呪を用いれば、すぐに第二射を放つだろう。そうすれば、その段階でもうおしまいだ。僕には、何も出来ない――」
「……向こうの令呪のストックを、削らなければならないんだね」
「そういうことになるね。だが、容易に出来ることではない」
「……」
沈黙。
死んだ海の底のような停滞した空気。
その水圧に抵抗するように、ホームズがゆっくりと立ち上がる。
「ともあれ、今は明後日のために、万全の状態にしておくべきだ。僕も、いくつか考えをまとめたい。――少し、外に出てくるよ」
一方的にそう言い残して、ホームズは姿を消した。
海の底にぽつりと、男が置き去りにされる。彼はしばらくの間、手の中のティーカップを撫でていたが、やがて、それを棚の中に戻すと。
静かに、ゆっくりと泳ぎ出した。