模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research 作:井ノ下功
目を覚ますと、いつになく澄みきった青空が、窓の代わりに残してある穴の向こうに見えた。空が綺麗なのか、空気が良いのか、それとも自分の目の調子がいいのか、青空は一点の曇りもなく透き通っている。
李徴が開けた大穴は、そのままにされている。直そうにもどこに頼めばいいか分からないし、そんなお金もないからだ。仕方なく、段ボールを貼り付けて応急処置としていた。
(今が夏で良かった……)
冬だったら耐えられなかったに違いない。この辺りは賎畿市の中でも北の方で、比較的寒い部類に入る。
(……いや、冬でも、李徴に助けてもらえたかな)
昨日触れた虎の毛並みの柔らかさと、温かさを思い出す。彼がいれば、冬でもきっと問題なく過ごせただろう。
のそのそとベッドから下りて、着替えをして、もう一度ベッドに寝転がる。
スマートフォンを開いて、検索をかけた。『聖杯』『聖杯戦争』『サーヴァント』――なんとなく予期してはいたが、一般的な用法以外にはゲームの攻略情報しか出てこない。
(聖杯――キリストの血を受けた杯――聖杯伝説――あらゆる傷を癒す魔法の杯――騎士道文学――アーサー王伝説――)
自身が今置かれている状況の助けになりそうな情報は一つもない。
(よく分からないけれど……)
教会で知った話を思い返す。あれによれば、自分の他にあと六組の参加者がいて、その六組すべてのサーヴァントを消滅させれば、聖杯を手に入れることが出来る、ということだったはずだ。
(上之宮さん以外に、あと五人――)
一体どんな人たちが参加しているのだろうか。
その人たちはどこで何をしているのだろうか。
どうやって見つけ出して、どうやって戦えばいいのだろうか――
(……見当もつかないや)
晶は両手を投げ出し、天井を眺めた。
上之宮さんに聞きに行こうか――などと一瞬だけ考えて、すぐにその考えを打ち消す。昨日の今日で、彼女を頼るなんてこと出来るわけがない。そもそも、彼女は敵だし――出来るだけ、近付きたくない相手でもある。
五年前のあの日、晶の世界は一変した――夢うつつの中で、弟の泣き叫ぶ声が聞こえる。化け物が弟を食っている。そして少し離れたところに、無表情で立っている上之宮真琴の姿がある。彼女は何をするわけでもなく、ただ静かに、弟の声が消えてゆくのを見守っていた――あの事件が、彼女の手によって引き起こされたものなのか、晶は確認できなかった。何が起きたのか、詳細を聞く勇気はついぞ出なかった。
(聞かなきゃ、いけないかもしれない)
いつかは、いつかは――と思いながら、ずっと先送りにしてきたが。
ついに向き合うべき時が来たのだろう、たぶん。
(……でも、今日は……)
晶はベッドの上に蹲った。
結局先延ばしにしてしまう自分の性質を情けないとも思うが、生まれてこの方ずっとこうなのだ。特にここ五年は、家からほとんど出ていない。昨日は特例中の特例だったのだ。
(……明日にしよう。明日に)
そう決めて、目を閉じた。
その時。
ピンポーン
「――……え?」
晶は目を見開いた。
うちのインターフォンが鳴ったのなど、いつ以来だろう。あまりに久々過ぎて、器械の方も音の出し方を忘れていたらしい。ひび割れた音をしていた。
(宅配……は頼んでないし。来客なんてありえない)
母親は下の階にいるが、出るとは思えない。
再び、電子音が響く。
晶は何か嫌な予感がして、全身を固めた。動こうという気になれない。動きたくもない。なんだか、ひどく、ひどく悪い気分になる。
絶対に出ない、と決めた瞬間、玄関の戸が開かれる音が聞こえた。
晶は跳ねるように起き上がった。
「李徴」
小さく呼ぶと、虎はその姿を現して、晶の足元にすり寄った。それから、湿った鼻を二、三度うごめかして、
『呪術のにおいだ』
「やっぱり……」
嫌な予感とはこのことだったのだろう。李徴が来た最初の夜、誰とも知らぬ人間に襲われたことを思い出す。今思えば、あれも聖杯戦争に参加している人間だったのだろう。上之宮真琴と同じ世界に生きる、同じ人種の人間。
つまり、敵。
控えめな足音が階段を上ってくる。
李徴が全身を伸ばし、毛を逆立てる。
晶は奥歯を噛み締め、震えそうになる膝を手で押さえた。心の中では、李徴がいるから大丈夫、李徴がいるから大丈夫、と念仏のように唱えている。虎の威を借る狐でもなんでも良かった。虎の威を借りてでも、変わってしまった世界を元に戻せるならば、それでいい――そのためなら――李徴に、人を殺せ、と命じることも――
そこまで考えてぞっとした。
(殺す? 人を? 殺させる? ――李徴に? それじゃ、それじゃあまるで――)
――弟を殺した化け物みたいじゃないか――
扉が開けられた。
『貴様、何奴!』
「戦う意思はない」
両手を目の高さにまで上げながら、その男は扉の外で立ち止まった。中に入ってくる様子はない。どうやら本当に、戦うつもりはないようだった。
普通の男性だ。自然な色合いの茶髪は、今どき日本人でもよく見られる。ただ、自然な緑色の瞳は、カラーコンタクトとはとても思えない。
(外国人……?)
「上之宮家から届け物があって来ただけだ。ここに置いておく」
一方的にそう言って、男は分厚いファイルを足元に置き、あっさりと背を向けた。
「え、あ、あのっ!」
晶は思わず声を上げた。が、その人はちらりとも振り返らず、出て行ってしまった。
白昼夢だったのかもしれない、と思った。特異な状況に巻き込まれた脳味噌が見せた、幻覚のようなもの。そう思ってしまうほど拍子抜けな、襲撃とも呼べぬ襲撃。
――幻覚でない証拠に、廊下には黒いファイルが残されている。
においを嗅いだ李徴が、『呪の類は掛けられておらぬようだ』と言って、晶を振り返った。
晶は唾を飲み込み、それに近付いた。――嫌な予感が消えない。襲撃は終わったはずだ。なのに、気分が悪い。気持ちが沈んだままだ――持ち上げる気にはなれず、床に置いたまま、それを開く。
一瞬、脳が理解するのを拒否した。
「――……僕……?」
目を疑った。信じられない。何故、どうして、何のために――
――
入っていたのは、小学生の頃から今までの晶の姿を写した写真。一年生の頃から、ずっと、ずっと――つい一週間前の自分まで。何十枚もの写真が入ったクリアファイルがしばらく続き、それが唐突に、文書に変わった。
「遠藤、晶――継続監視対象者――危険度、S――特殊霊媒体質――」
書かれていることのほとんどは理解が出来なかった。出来なかったが、最後の一部分だけは分かった。分かってしまった。
「――……二〇一五年、暴走……弟、明を……」
強い吐き気に襲われる。眩暈がする。鼓動が跳ねる。床が揺れる、輪郭がぼやける、世界が崩壊する――いや、崩壊はとっくにしていたのだ。とうの昔に壊されていたのだ。己の手によって!
不鮮明だった記憶がはっきりとした形をもって蘇った。そうだ、冷静に考えてみれば、何もかもがおかしかったのだ。何故あの時、自分は生き残った? 何故化け物に襲われたのは弟だったのか? 弟の最も近くにいた自分が、最も近くで
――何故自分は、あの化け物の姿を覚えていない――?
「あ……あ、あ……」
『袁傪――?』
「あああああああああああああああああっ!」
その場にくずおれた晶へ、李徴がすり寄る。声も、温もりも、届かないと知らずに、李徴はその耳に鼻を寄せる。
『袁傪、