模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research 作:井ノ下功
思い出の中の彼女は、いつも仏頂面をしていた。晶にだけ特別、ではなく、誰に対しても同じように。それが、誰からも嫌われて爪弾きにされていた晶にとっては、ある種の救いのように思えることもあった。
――上之宮真琴。
先生の都合で午後から学校が休みになり喝采が上がった時も、教室の中に蜂が入ってきてクラス中が半狂乱になった時も、ただ黙って、伏し目がちに座っている子だった。
呪い屋の子供、などと呼ばれて遠巻きにされていたが、ただ遠巻きにされるだけで、晶とは違い、直接手出しされている様子はなかった。皆、呪われるのを怖がっていたのだ。
当の本人は飄々としたもので、仲間外れにされるのが“むしろ静かでいい”とでも思っているかのようだった。その超越した態度は、先生が話しかけるタイミングすら奪い去っていた。
――この世界を正しく生きているのは私だけ――
そんな声が聞こえてきそうなほど、超然とした佇まい。
晶はその彼女を、遠くから眺めていたのだ――限りない憧憬と、絶大な尊敬を込めた眼差しで。
晶は小さい頃から、不可思議なものをよく見てきた。
人間のような目を六つ付けてケタケタと笑うサル。蜘蛛の足のムカデ。足とくちばしがそれぞれ二つに分かれたカラス。そういう形あるものから、靄の固まりや独立する影といった形の定まらないものまで。
それらの中には、こちらに一切関心を向けないモノもいれば、好んで襲い掛かってくるモノも、不気味な目でじっと凝視してくるだけのモノいた。
相手の態度に関わらず、晶はただ怯え、見ないふりをするだけだった。
相手の態度に関わらず――上之宮真琴はそのすべてを素手で掴み、握り潰した。
彼女は何も言わず、淡々とそれらを処理した。晶も、何も分からないなりに、それらに関して触れてはならないのだという空気を感じて、見ないふりを続けた。
――ただ、一度だけ。
晶は彼女に尋ねられたことがある。
「怖くない?」
彼女から話しかけられたことのなかった晶は、非常に戸惑った。それで、取り除かれている目的語が何であるのか――たぶんあの化け物たちのことだろう、と――ろくに考えもせず答えたのだ。
「こ、怖い……」
「……そう」
小さな相槌が、少しだけ沈んでいるように思えて、晶は慌てて言葉を繋いだ。
「で、も、その――」
上之宮さんが助けてくれるおかげでいつも助かっているよ、とか、上之宮さんがいるから今はそんなに怖くないんだよ、とか、そんな気の利いた言葉を出せるような少年だったら、おそらくいじめられることも無かったに違いない。
「――その……」
迷った挙句に、晶は何と答えたのだったか。
自分自身が放った言葉の中身は、覚えていない。けれど――
「……そう」
――いつものように、まったく感情を見せない声で頷いた彼女と、初めて目が合ったことだけは、よく覚えているのだ。
あの黒曜石の瞳。
☆
どれだけ長くの時間そこに蹲っていただろう。
『――袁傪……?』
晶がのろのろと起き上がった時には、夜はすっかり深まっていた。冷たい、寒い、とても夏とは思えない夜。電灯をひとつも点けていない屋内は闇に沈み、空気を一層底冷えさせている。
晶の吐いた息は白く凍った。震えが止まらない――しかしそれがまったく気にならない。
ゆっくりと階段を降りていく。その後ろを、心配そうに尻尾を垂らしながら、李徴がついていく。
階段を降りきると、女性のか細い悲鳴が途切れ途切れに聞こえた。母親の声だ。日がな一日、台所のテーブルに座ってぼんやりと宙を見ている母。その声を聞いたのは何年ぶりだろうか。
ちらりとそちらを覗くと、頭に纏わりついてくる羽虫を追い払うように、手をめったやたらに振り回している影が見えた。
晶は引き攣った笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ、母さん……これで、全部、終わるから……」
玄関を開けて、外に出る。熱帯夜の温風が吹き付けてきたが、それも晶の手足を温めるほど強くはなかった。
吐息は白く、白く凍る。
晶の家から上之宮家まではそれなりの距離があったのだが、晶はそれをまったく気にせずに歩き切った。震えは一層ひどくなり、顔色も唇も真っ青になっている。
(僕は、退治されなくてはならない――怪物なのだから――殺されなくてはならない――上之宮さんに――殺されなくちゃならない――化け物なのだから――殺されないと――殺されないと――殺されないと――殺されないと――)
上之宮家はしんと静まり返っていた。こんな夜中だ、当然のことである。
しかし、晶は気にすることなく、門を押し開けようと手を伸ばした――
――その時だった。
『血のにおいだ』
それまで沈黙を守っていた李徴が、不意に現れた。
『血のにおいがするぞ! オォ、オォォオオオオオオオオォッ!』
びりびりと空気を震わせるほどの大声で、虎が咆哮する。そして次の瞬間、晶の体を鼻で押し上げて器用に背に乗せたと思うと、宙を疾走した。
何が起きたか分からないまま、晶は李徴の背にしがみついて、目を瞑る。
李徴は思いの外、すぐに止まった。
急停止された拍子に、晶はその背から転がり落ちた。そろそろと目を開けると、そこはビルの一室のようだった。“ようだった”と不確定なことを思ったのは、晶が世間知らずだったからではない。世間知らずな晶ですら不審に思うほど、月明かりに照らし出されたその一室は――窓が破壊され、床一面に血がこびりついているという――異様な荒れ方をしていたのだ。
李徴がその血の跡に鼻を突っ込み、執拗に嗅ぎ回っている。
『煙――鉄――そして血だ! 血だ! これは――人間の血だ――あの女のにおいだ!』
「……あの、女……?」
『然り! あの女呪術師だ! 間違いない――間違いないぞ! オォ、オオオオオオオ!』
そう言いながら顔を上げた李徴の鼻先に、髪の毛がくっ付いていた。黒くて長い――いや、長かったのであろう、髪。美しかったはずの髪。無残に千切れ、血で汚れ、醜く固まっている髪。――上之宮真琴の、髪。
李徴は猛り狂ったように何度も吠えて、再び血だまりを嗅ぎ出した。
そして――ゴリ、ガリ、と――骨を噛み砕くような音が、静寂の中に響く。
「あ……あ、あ……――」
李徴が何をしているのか、正しく理解した瞬間、晶は胃からせり上がってくるものを感じて膝をついた。激しくえずいたが、吐き出すものなど何も無い。ただ薄く黄色がかった、酸っぱいにおいのする、粘性のある液体が、唇の端と床とを繋いだだけだった。
「――や、やめろ、李徴……」
ガリ、ガチ、バキ――
「やめてくれ……」
――ゴリ、ガリガリ、ボキ――
「やめろおっ!」
叫んだ瞬間、心臓が大きく脈打ち、右手の紋様が赤い光を放った。その紋様へ向かって、体中の血が、力が、一気呵成に集中し――
――びくり、と全身を震わせて、李徴が動きを止めた。なにか大きな力に、無理やり意思を捻じ曲げられたかのような、ぎこちない挙動だった。
ゆったりと、李徴がこちらを振り返った。狂気に血走った眼は、どこか恨みがましさを湛えている。かすかな唸り声をもらした口の端から、髪が数本、垂れていた。
怪物だ。化け物だ。――だが、それは自分も同じだ。
晶は、自分でも驚くほど静かな声で言った。
「――……李徴」
『……』
「【令呪を以って命じる――上之宮真琴を殺した奴を、殺せ】」
再び、赤い光が二人の間に瞬いた。