模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research 作:井ノ下功
指定の時間になった。
「――マイスター。始まりました」
「よし」
約定の通り、セイバーとキャスターが戦いを始めた。それを確認して、ディオニシオは術式を起動させる。
「〈
学校とおぼしき建物の裏手にあった、小さな池。生き物の気配の薄い、淀んだ水溜まり。そこに、風もないのにさざ波が立ち、蛍のような光が集まってきた。空気が震え、整い、そして場が完成する。
「〈怠惰な乙女の奸計と祈りに屈せし悪魔よ、我らの名のもとに立ち現れ、その偉業を再現せよ。汝の手によって水は一夜の内に流れ出し、最初の鶏が鳴くまでの内に町全体へと行き渡る。そして最後の一石を、沈黙の内に投げ入れよ〉」
池の水が蒸発し、濁った霧が水上を覆った。ディオニシオが指を鳴らすと、それが一斉に四方へ散らばり、街中へと流れ出ていく。
(あとは待つのみ――)
アーチャーを見つけるために神経を張り詰めさせるディオニシオを、ランサーが斜め後ろから窺っている。
☆
マンフレート・フォン・リヒトホーフェン――レッドバロン。第一次世界大戦における、エースパイロット。世界一の撃墜王。
――その名を、その栄誉を、得る前の自分。
リヒトホーフェンは木にもたれ、目を瞑った。
(私は、いずれ世界一の撃墜王になる――今はまだ、なっていないが。そして、そうなることは、既に定まった過去のこと――私にとっては、未来のことだが、世界からすれば、それは過去のこと――だから、あの少女は、ああ言ったのか――)
恐れる必要はない、と。
今更何をしようが、過去は変わらないのだ、と。
思い返せば、あの少女、外見に見合わぬ聡明な光を両目に宿し、すべてを見通すような顔をしていた。彼女に聞けば、分かるだろうか――己が抱えている葛藤の出口が。己が成すべきことが。
(……いや。自分の行動を、他人にゆだねて、どうする。私が成すべきは――)
「――見つけた!」
ディオニシオの叫び声を聞きつけて、リヒトホーフェンはパッと目を開いた。
「行くぞ!」
「Ja!」
ディオニシオを抱えて、空中を蹴る。
案内されるままに走り、跳び――町の西側に位置する山の中腹辺りで、「止まれ」とディオニシオが言った。
ここまで近付けば、リヒトホーフェンにもその気配が分かった。硝煙と血と呪い――そして、巨大な悪のにおい。
「この先にいる」
「わかりました。では――」
「待て」
早速その場を飛び出そうとしたリヒトホーフェンを、ディオニシオが制した。
「まだだ。まだ早い」
「は――」
「この場で、しばらく待機しろ」
「――承知しました」
リヒトホーフェンは素直に頷いた。
(セイバーとキャスターが来るまで待つ、ということか――確かに、皆でかかれるなら、より確実に、仕留められる)
魔術のことには詳しくない。が、遠くに潜む敵兵を見つけ出すことができたのだ。その場所を他の者たちに伝えることなど造作もないのだろう。そう思って、リヒトホーフェンは口をつぐむ。
彼が再び口を開いたのは、それから数分後のことだった。
「あの、マイスター」
「なんだ」
「セイバーとキャスターが来るのを、待っているのですよね。少々、遅くはありませんか」
サーヴァントの足ならば、数分もかけずにここまで来られるはずだ。今頃到着していてもおかしくないはずなのだが、とリヒトホーフェンは考えたのだ。――同時に、このマスターが目論みそうなことを思い付いてもいた。まさかそんなこと、とすかさず否定しながら、その否定が上辺だけのものであることも、また、自覚している。
「マイスター」
「黙って待て」
ディオニシオが答えを避けるのを見て、リヒトホーフェンは察した。
詰め寄る。
「まさか本当に、
ディオニシオが大きな溜め息をついて、面倒くさそうな顔を向けた。その目は明らかに、リヒトホーフェンの疑念が正しいことを裏付けていた――ばれたくなかった、とも語っていた。
「それでは約定に――」
反するではないか、と言いかけて、やめた。
ディオニシオがリヒトホーフェンを理解して、この姑息な作戦を黙っていたのと同じように。
リヒトホーフェンもまた、ディオニシオを理解して、反論をするのをやめた。
いい加減気付いている。マスターならば、などという理想や希望はすでに失っている。この男には何を言っても通じない。何を言っても理解されない。この男は――あまりにも――私が掲げる騎士道と、外れた道を生きている!
リヒトホーフェンは憤然として立ち上がった。
ディオニシオの顔色が変わる。
「おい、ランサー? 貴様、まさか――」
「一人無駄死にしたくなければ、あの二人へ、ここに来るよう伝えればいいだろう」
「はぁ? ――おいっ!」
もう制止などされない。されてなるものか。
かの少女が言った通りなのだ。自分がこれから何をしようと、自分の未来は世界の過去、既に起きた出来事は変わらない――変わるとするならば、この英霊の座に刻まれた己の魂が、けがれるか否かということだけ。今ここに在る自分は、英霊として、二度目の、夢幻の如き生を得ただけの存在。英雄として世界に名を残すことは、決して変わらない――だから、ここでは、
かつて、空を飛びたいという我が儘を、貫き通したように。
かつて、空の上で死にたいという希求を、誰にも譲らなかったように。
(ならば、私は――
リヒトホーフェンは槍を携え、木々の隙間を通り抜け――その先へ、躍り出た。
白髪の老人が一人。その傍に、小柄な女性が一人。リヒトホーフェンの襲来を予期していたかのように、老人はニヤリと笑って、手の中の鎖をじゃらりと鳴らした。
「やはり来たか――よろしい。ならばこの私が、相手になろう!」
女性の方がマスターなのだろう。小走りに場を離れ、木の後ろに隠れるのが見えた。
それを見届けてから、リヒトホーフェンはゆったりと、しかし隙の無い動作で、槍を構え直す。
「兵として、騎士として、貴公の闘志に敬意を表し――」
ヒュン、と軽く振り抜いた穂先が風を切り裂いて、地面に鋭利な線を刻み込んだ。
凄烈な闘気がランサーの全身から立ち上る。晩夏の深夜をさらに暑く、熱くさせながら、一方で島国特有の湿り気など一切感じさせないほど清々しく、鮮やかに、爽やかに、しかして凄絶に、彼の気迫が夜空を焦がす。
「――全霊を以って、その命を奪う。行くぞ、アーチャー!」
金属のかち合う音が、星を貫いた。
☆
『全部中途半端な奴の言うことなんて、聞きたくもない。じゃあな』
飛び出したランサーの背中に、一瞬だけ息子の姿が重なった。その陳腐な幻覚のせいで、いっそう己が惨めなものに思われて、ディオニシオは地団太を踏んだ。
「くそっ、畜生っ、チクショウッッッ! どいつもこいつも私をないがしろにしやがって、何様のつもりだ、クソッ! ああ畜生、サーヴァントのくせに……私がいなくては存在すら許されない、使い魔風情が……あああああああああああっ!」
木の幹に拳を叩きつける。
(許せない……許すものか、青二才め! 貴様の言うことなど誰が聞くものか。命令はお前が聞くものだ! ――見てろ。どちらが上の存在なのか、分からせてやる……っ!)
ディオニシオは踵を返すと、血走った眼で、戦闘音の響く方を睨みつけた。