模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research 作:井ノ下功
単独行動スキルを保有していないサーヴァントの活動限界は、ホームズの場合、マスターを中心とした半径二キロ程度だった。サーヴァントによって個体差はあるかもしれないが。
(……なるほど。これ以上行くと、その先はマスターからの魔力が供給されなくなる、と)
そのことが肌で感じられる。
(が、別に、自力で魔力を生成できるのなら、問題ないだろう)
マスターに向かって“工房はここだ”と頭を指差したのは、嘘ではない。原典に忠実にいうならば、彼の工房はベイカー街の221Bであるべきかもしれない――が、彼が“工房”で事件を解決した例は、何件あるだろう。ホームズはほとんどの場合動き回り、走り回り、現地で頭を働かせては事件を解決してきた。つまり、頭脳が工房でありそこが働く限り魔力は尽きない、と定義すれば、それは無理のない論理として成立する。
ちらりと振り返ると、木の上に使い魔がいるのが見える。
(……マスターだな)
己の体内を巡る魔力と、まったく同じ波長をしている。
(気付かれない――とは、思っていないだろう。気付かれると想定の上で、わざと送ってきている。つまり――)
――僕の行動を制限するための、牽制だ。
常に見ている。だから余計な真似をするな、と。
それは裏を返せば、
ホームズはしばし考えた。
時刻は朝九時を過ぎ、駅前からかなり離れたこの辺りにもそれなりの人出がある。とびきり声の大きい大学生の一団が、向こうから歩いてきている。ホームズはそれとすれ違い、彼らの背後を通って右に曲がった。
ちらりと振り返ると、使い魔は少し狼狽えたように、きょろきょろと辺りを見回している。
(……まぁ、あの程度の使い魔に見破られるようでは、変装のスキルを保有している意味がないんだけれど)
すれ違うと同時に霊体化を解き、サラリーマンに扮したのだ。
そのままマスターの支配圏から出た。
目指す場所は決まっている。
表札にはアルファベットで「WATSON」と書かれている。最近はローマ字表記の表札も増えてきているから、普通の家にアルファベットの表札でも、あまり浮いている印象は与えないだろう。
昨日出てきたばかりの、マスターの家だ。
ホームズは変装を解くと同時に霊体化して、家の中に入った。
ごくごく普通の一般的な家だ。適度に汚れ、適度に片付けられた、清潔な家。特筆すべきところなど何もないように思える、見本のような家――
しかし、ホームズの目はノイズを捉える。
昨日ざっと見た時に、すでに違和感は覚えていた。
台所に踏み入る。普通のダイニングだ。何の変哲もない、どこか野暮ったさの残るタイルの床には、半地下の貯蔵庫に繋がるであろう跳ね上げ式の蓋がある。四足の大きなテーブルの上には、中身のない花瓶が置かれている。マグネットの類は一切付けていない白い冷蔵庫。ホーローで出来ているシンクとコンロ。いずれもいずれも非常に綺麗で、不審な点は何処にもない――ように見える。
だが。
(綺麗すぎる。これは、掃除で出来た綺麗さじゃない。それ以前の問題として――この家は、
証拠などいくらでも挙げられる。冷蔵庫の製造年月日、ガスボンベの交換期限、その他細かな調度品の傷み具合――ホームズが来ることを想定していたとは思い難い穴だらけの偽装だが、ホームズ以外ならば確実に誤魔化し通せる程度には
(周りの人間に聞き込みを――しても、無駄だろうな。やはり、魔術師は推理の大敵だ)
記憶など阻害されているに決まっている。周囲の人間にとって、マスターとその恋人は二年前からここに住んでいる仲睦まじい外人カップルでしかなかっただろう。――裏にどんな顔を隠しているかなど、気にもしなかったに違いない。
(何か隠しているのだろうと思って、こちらも気付かない振りをしていたが――間違いないな。マスターは何かを隠している。……まぁ、その内容も、なんとなく分かってはいるのだけれど。――……であれば、マスターの言葉には矛盾が生じる)
つい昨日のやり取りを思い出す。
――思い入れのある家なのかい?
――うん、まぁ……こっちに来てから、ずっと住んでいるからね。
マスターが日本に来たのは、二年前だ。パスポートを覗き見て確認したのだから、そこに疑いはない。恋人のパスポートも一緒に保管されており、恋人――サラ・メイヴィルも同時に入国した。だが、彼らが最初に住んでいた場所はここではない。果たしてそんな家に、“思い入れ”があるだろうか?
――そうだよ、君の言う通りだ。恋人がいた。一カ月前に別れたけどね。
――それが、ここを離れる理由?
――……数ある理由の内の一つであることは認めるよ。
ここは上手く嘘を避けた。こう言っておけば、もう一つの理由、つまり“本来の工房がここではない”という理由に、大抵の人間は目を眩ませる。
ホームズはおもむろに霊体化を解くと、床下収納へ手をかけた。
金属製の取っ手を引き上げて、蓋状の扉を開く。
プラスチックの内蓋があり、その下にケースが一つ。缶詰や酒、調味料、保存食の類――冷暗所を好み、長期保存の出来る品々が、几帳面に並んでいる。
(――おや……?)
底に、細く灰色の筋がある。元からある模様ではない。まるで、ぽたりと落ちたペンキを、消すことを目的に擦った結果そうなったかのような、不自然に細く、歪んだ線。
ホームズはケースの中に頭を突っ込んだ。普通、このサイズの家に付属するこの手の床下収納は、可動式になっており、二、三個のケースが連結しているものである。事実、隙間から覗くと、暗闇は隣りの空間へと続いている。
しかし、
(固定されている)
何かで止められているらしく、まったく動かせない。がたがたと揺らすことすら出来ないから、相当きっちりと固定してあるようである。
(あからさまに怪しいな)
こういう時だけ、己も
(――っ、勘付かれたか)
ホームズは咄嗟に霊体化し、気配を遮断する魔術を行使した。
その一秒後――マスターの使い魔が窓から目をのぞかせた。ガラスをすり抜け、中に入ってくる。
(……今は、これ以上は無理か。どうやら、僕のマスターはそこまで凡庸ではないらしい)
ホームズは使い魔に察知されないよう、細心の注意を払いながら、家を出た。