模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research 作:井ノ下功
「なぁキャスター、薬はそんな好都合なものじゃないよ。失うものがどれほど大きいか、よく考えてみるべきだ。間違いなく薬は脳の動きをよくするだろう。けれど、それはごく限られた一瞬限りの、不自然で異常な作用だ――」
マスターが流暢に紡ぐその言葉の羅列が、響きが、どうしようもなく癪に障った。自分でも驚くほど心がざわついて、苛立って、腹が立って、脳味噌が沸騰した。こんなこと今までに一度もない。こんな風に感情が大きく揺れ動くことなど、ありえない!
こんな自分など自分らしくない――と思っていながら、口が動くのを止められなかった。何より、
「
「――何のこと?」
その男はとぼけた声を出した。それがまたホームズの不快感を増幅させた。吐いた息がドラゴンのブレスのように、炎を纏っているように見えた。それに続いて、腹の中に渦巻いたマグマのような感情が、そのまま溢れ出す――
「マスター、君は僕を……――いや、なんでもない」
――のを、どうにか抑え込んだ。頭を振って、雑念を飛ばす。
「少し出てくる。時間までには戻るよ。――僕がいない方が、君もリラックスできるようだからね」
吐き捨てるように言って、霊体化し、拠点を出た。
使い魔が少し離れた場所から自分を見張っている。それにもまた腹が立ったが、無理やり押し殺す。――あの男はもう僕の言動について諦めた。だからあのような真似をしてみせたんだ。使い魔を寄越したのはさっき僕が「昨日は使い魔を寄越さなかったね」と言ったから。特に何をしたいというわけでもない。
意識して外部のノイズを取り除き、ホームズは目を瞑った。これから、
(考えろ。考えろ。考えろ。思考をフルに回転させろ。――見たくないなんて甘ったれたことを思うな。認めろ、受け入れろ。ありえないことを一つ一つ除外していけば、最後に残ったものが真実だ。――たとえそれが、どんなに信じられないものであったとしても……)
自身が持っている“記憶”を掘り返す。丹念に、丹念に、丹念に――
実感を伴って思い出せる記憶の内、真っ先に出てきたのは一つの事件。
グロリア・スコット号事件。
よく覚えている――これは大学時代に手掛けたものだ。これがきっかけで、探偵を生業とする覚悟が出来たのだ。
――だが、この事件を
――何百もの事件に相対した僕が、真っ先にこれを思い出した理由は、何だ? これよりももっとセンセーショナルでグロテスクな事件はいくらでもあったはずだ。なのに何故?
――己の生き方を規定したからか? いやしかし、よくよく考えてみれば、探偵になるきっかけはグロリア・スコット号事件だけだったか? それ以外の事件は、僕の生き方に影響を与えなかったのか?
(……人が記憶を保つ理由……印象深かったから。のちに必要となることが分かっているから。恐怖や愛情といった強い感情と結びついているから。――忘れた頃に、何らかの理由で、詳細に思い出したから)
記録がある。グロリア・スコット号の話は、『シャーロック・ホームズの物語』として世に広まっている。世に広めた人物がいる。その
だが――それは“記録”だ。
温度のない、ただの文字列。
だから――
『―――――』
――声を、思い出せない。
この才能を、唯一手放しで賞讃してくれた。やりすぎた時には常人らしく怒って、不機嫌になった。そのくせ、こちらの説明を最後まで辛抱強く聞いて、驚くほど素直に飲み込んで、やっぱりまた褒めるのだ。
『――――!』
理解できないことははっきりとそう言い、理解できるまで付いてきた。危険だと言っても構わなかった。家庭をもった後でも、訪ねていって一言「事件だ」と言えば、顔中に喜びを浮かべて飛び付いてきた。電報で呼びつけた時も、平然とやってきた。そこにあるのは愚昧な妄信ではなくて、本物の信頼であり、友情だった。
『―――、――――』
――あの声を、思い出せない。
ありえないことだ。信じられないことだ。だが、他に可能性はないのだ。ならばこれが、疑いようのない真実なのだろう。
――だから、あれほど腹が立ったのだ。自分を心配する声は、思い出すことすらできない
ホームズは立ち止まって、天を仰ぎ、目を開けた。
結論を、出す。
(――僕は、全盛期の僕ではない)
だから、“何かが欠けている”と感じていたのだ。
(探偵では、ある。それは違和感なく自覚している。おそらく、一八七八年、二十四歳の頃の僕だ。……まだ探偵としては駆け出しで、モンタギュー街に住んでいた頃の自分だ)
結論は出た。あの男――マスターによって揺らされた心はまだふらついているが、じきに落ち着いて、追い付いてくるだろう。それを待っている余裕はない。
考えるべきことは、他にもたくさんある。この戦いを、己の勝利で終わらせるためには、立ち止まっている暇などないのだ。
たとえ、話し相手がいないとしても。
(……まさか、ランサーに言った言葉が、自分に跳ね返ってくるとは思わなかった)
ホームズは自嘲気味に笑った。
再び、歩き出す。
推理がぐるぐると頭の中を巡る。
使い魔がその影をずっと踏んでいた――親ガモの後をついてまわる子ガモのように愚昧に。