模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research 作:井ノ下功
世界屈指の魔術学園『時計塔』に、その封書が届いたのは、今から十日前のことだった。
差出人は、極東・日本のさらにその片田舎に住まう、シスターである。
封書の中身は、『模擬聖杯戦争』と銘打たれた争いのシステムをまとめた書類と、シスター本人からの直筆の手紙。その手紙によれば、この聖杯戦争は、これまでのどの聖杯戦争とも違い、“亜種”とも言い難く、さらに自分はただのシスターであって、どうしたらよいのか分からないのだという。
男は書類の写しをパラパラと眺め、眉間に刻まれた皺をさらに深くした。
「フン……模擬聖杯戦争、か。確かに、どうしたらいいのか分からんなこれは。――それで? 私にどうしろと?」
「いや別に、どうしろというわけじゃないんだ。ただ少々面倒なことが、というか――いや本当に、心底、明日の天気よりどうでもいいことなんだが――」
「そんなどうでもいいことならいちいち言いに来るな。暇なのか」
「可愛い可愛い義妹に対して随分な言いようだな、親愛なる我が兄よ。こう見えても私は毎日忙しくしているんだよ? ……まぁ実際、言うべきか言わざるべきか、大変迷ったのも事実だけれど」
「それで、何を気にかけているんだ?」
「我らがエルメロイの遠い遠い親戚に、アーキシェルという分派があってだね。そこは、かの第四次聖杯戦争において先代ロード・エルメロイが亡くなった時に、功を急いて迂闊な動きをしたから、エルメロイの名を剥奪されて、今にも途絶える寸前と言ったところの弱小家なんだが――」
流暢に喋る少女は、紅茶を一口傾けてから、続けた。
「――そこの現当主、ヘルメス・アーキシェルという男が、この模擬聖杯戦争に参加するべく、極東に向けて発ったそうだ」
「それで?」
「発つ直前にこんな手紙を寄越した」
少女が一通の手紙をテーブルの上に滑らせた。
男はそれを受け取って、中を覗き――やがて、重苦しい溜め息をついた。
「……こいつは、馬鹿なのか?」
「うん。救いようのない馬鹿だ。けれど、万が一ということが、無いとは言い切れないだろう? 今回の聖杯戦争は――その資料の中身が正しいのなら――小聖杯の贋作を核にした儀式で、本物の大聖杯には遠く及ばないものの、出力の方向と強さを相応しいものに調整してあるから、“ちょっとした願い”なら確実に叶えられるらしいじゃないか。特に、俗物的な――金が欲しいとか、女が欲しいとか――エルメロイ家当主の座が欲しい、とか、そういう願いならば、確実に」
「フン、くだらない」
男は冷たく一蹴して、葉巻の先を灰皿に押し付けた。
「できるものならばやればいい。模擬とはいえ聖杯戦争だ、そう簡単に行くとは思えないが――だからこそ、それを勝ち抜いた者ならば、この多額の借金を押し付けたってどうにかするだろう」
「ふむふむ、確かにね。――やはり、言いに来るまでもなかったな」
「いや、この模擬聖杯戦争の話を早めに持ってきてくれたことに関しては、感謝する」
「おや、その心は?」
「……血気盛んな我が弟子たちの耳に入ったら、どう動かれるか分かったもんじゃないからな……アイツらには絶対に知らせないぞ……またあの馬鹿みたいに突っ走られたら、いよいよ胃に穴が開く!」
男の切実な叫びに、少女はたいへん嬉しそうな笑い声を上げた。
☆
ヘルメス・アーキシェル。
先代のロード・エルメロイ――ケイネス・エルメロイ・アーチボルトから辿れば、その父の従弟の異母兄弟である弟の息子である。血の繋がりは何CCほどだろうか。
さて、彼は模擬聖杯戦争の話を聞くが早いか、日本に向けて飛び立った。手にはすでに聖遺物を持っている。模擬聖杯戦争の話を持ってきた女が、「偶然手に入れたのはいいのですが、自分では絶対に勝ち抜けません。確実に聖杯を手にするであろうあなた様に買い取っていただく方が、この聖遺物、そしてこれに呼ばれるかの騎士にとっても、喜ばしいことと存じます」などと殊勝に語るものだから、即断即決、言い値で買ったのだ。
(ふっ……この聖遺物があれば、確実にセイバーが来る……アーサー王やランスロット、ガウェインなどには劣るだろうが……それでも、円卓の騎士の一人。他のサーヴァントより段違いに格上であることは間違いない!)
「ふっふっふっふっふっふ……」
笑いが止まらなかった。自身が呼び出し、使役するサーヴァントとともに、名だたる英霊たちをことごとく屈服させ、聖杯を手に入れる。そして、
(この私に辛酸を嘗めさせたあのメスガキと――偶然生き残っただけで大きな顔をしていやがる新参者を――地に這いつくばらせてやる!)
「ふっはっはっはっはっはっはっはっはっは!」
思わず高笑いをする彼を「あのぅ、申し訳ございません、お客様……機内ではもう少々、お静かに……」と客室乗務員がやや怯えた表情で諫めた。
十二時間を超えるフライトを終え、そこからさらに新幹線で一時間半。
ようやく、極東の中でもさらに地方の市――賎畿(しずき)市、とか言ったか――に到着した。ここが、模擬聖杯戦争の舞台となる場所である。
「ふん、しけた町だな……」
日曜日であるというのにこの人通りの少なさだ。戦争には向いているかもしれないが。町としてはどうなのだろう。
唯一目を引いたのは、霊峰・富士だ。富士山に最も近い都市部ゆえ、その美しい青みはやや薄れており、岩肌の方が目立っている。近付くほどに、絵画のような美しさは、原始の生命のたくましさに変わっていく――その丁度境目を拝めるのがこの都市だった。季節が季節なだけに、雪も見当たらない。けれども――だからこそ――圧倒的な存在感。霊峰と呼ばれるだけの威容を備えている。
魔術回路の昂りを抑えて、ヘルメスは駅前の安ホテル(この辺りでは一番高価なホテル)にチェックインした。最上階、最も広い部屋に荷物を置き、すぐさま霊脈をチェックする。
「ふむ、充分だな――よし、それでは早速、だ」
ホテルの床に水銀を垂らし、魔法陣を描く。それから、厳重に梱包されていた聖遺物を、うやうやしく取り出した――それは古びた鉄の義手。
(かの隻腕の騎士、ベディヴィエールが着けていた逸品!)
これがあれば、とヘルメスは笑う。円卓の騎士の一員、ベディヴィエールの召喚は約束されたも同然だ。
「素に銀と鉄、礎に石と契約の大公、降り立つ風には壁を――」
かくして、召喚の儀式はつつがなく遂行され、
「――抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」
視界を塗り潰した光が収まった時、魔法陣の中央には、老年の男が気だるげに胡坐をかいていた。髪も髭も真っ白で、小汚く伸ばされたままだったが、甲冑を全身に纏い、腰に剣を帯びた姿は、紛れもなく騎士。右腕は義手のはずだが、鎧と一体化していて判別がつかなかった。
「――問おう。お前が俺を呼んだ、主か」
(これが、ベディヴィエールの最盛期……!)
意外や意外、彼は老年に至って最盛期を迎えたのか――と、ヘルメスは思ったのだ。そのおめでたい頭を純朴と言おうか、天然と言おうか。あの男がいたら『ただの馬鹿だ、阿呆だ、大間抜けだ』と容赦なく八つ裂きにしていたに違いない。
しかし何も疑問に思わないヘルメスは満面の笑みで頷いた。
「あぁ、そうだ。私がお前のマスターだ、ベディヴィエール」
「ん? ベディ……何だって?」
「ベディヴィエール――お前の名前じゃないか」
老人は眉をひそめ、首を傾げた。
「俺の真名はゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲンだ」
「……は?」
「何を勘違いしてんだか知らねぇが、俺はベディなんちゃらって奴じゃねぇ。ゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲン。鉄腕のゲッツだ」
「な――……な、な……――なんだとぉおおっ?」
彼の悲鳴が響き渡った。
「嘘をつくな! サーヴァントがマスターに嘘をついていいとでも思っているのかっ? いいか、私が呼んだのはベディヴィエールだ! 遺物だって、ほら――」
ヘルメスが掲げた鉄の義手を、ゴットフリードはしげしげと眺め、不意に目を輝かせた。「よっこらせ、」といかにも老人らしく立ち上がる。立ち上がってみると、相応の偉丈夫であることが分かるのだが、それでも常識の範疇だ。かの大英雄イスカンダル、それをして偉丈夫と言わしめたダレイオス三世には、遠く、遠く及ばない。
ゴットフリードは目を細めて笑った。
「懐かしいなぁ。こりゃ、俺が昔使ってたやつだ。よくもまぁ、こんなの残ってたもんだ」
「っ……う、嘘だ! これはベディヴィエールが使っていたものだ! ここにイニシャルだって刻まれているんだぞ!」
「どれどれ?」
覗き込んだと思ったら、ゴットフリードはひょいと義手を奪った。そして唐突に、裾で義手の内側を擦り始める。
「お、おい! 何をするんだ! それは大切な――」
「ほれ。俺の名前だ」
「……は?」
目の前に突き付けられた義手――確かに、Bと刻まれていた部分には、右側に続きが合って。BedivereのBだと説明されていたその部分には――
――Berlichingen――と。
はっきり刻まれていた。
「錆が付いてて――しかもこれは、あれだ。隠すために、あとからわざと付けた錆だな。まんまと騙されたようだなぁ、はっはっはっ」
「な……な……そ、そんな、馬鹿な……」
「そう簡単に騙されてるようじゃ、先が知れるなぁ、我が主?」
「う、うるさい! うるさいうるさいうるさいっ! 黙れ! 消えてろ! ああああああああああああっ!」
頭を掻き毟ってベッドに倒れ込んだヘルメス。ゴットフリードは両手を広げ、やれやれ、と言わんばかりに首を振り、大人しく霊体化した。
何はともあれ、ここに四組目の参戦者が誕生したのである。