模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research 作:井ノ下功
ホームズを召喚してすぐに、ワトソンは移動の準備を始めた。
「どうして拠点を変える? 僕には工房なんて必要ないのだけれど」
「キャスターなのに?」
「僕の工房は“ここ”だ」
と、ホームズは指先で自分の頭をコツコツと叩いた。
ワトソンは苦笑する。
「はは。確かに」
「だから移動する意味など――あるとするなら、君の方の理由だね。ここを攻撃されたくないようだ。思い入れのある家なのかい?」
「うん、まぁ……こっちに来てから、ずっと住んでいるからね」
「来日して二年。同棲していた恋人とは別れたのか?」
「え」
ワトソンはびくりと固まった。
ホームズはその顔を一瞥して、そのまま続けた。
「独り者が住むには大きい。どこも綺麗に掃除されていたが、ここ一カ月ほどは放置されているね。寝室にはダブルベッドと鏡台。浴室には女性が好むシャンプー、リンス、トリートメント。二組ある歯ブラシ、片方はしばらく使われていない。あと洗濯バサミの数、洗濯用のネットの数と種類。洗濯ネット自体は男性だって使うだろうが、ブラジャー用のをわざわざ使うことは考えにくい。それに――」
「分かった! 分かったから!」
ワトソンは堪らず制止した。数分席を外したと思ったら、そんなことを見に行っていたとは。
「そうだよ、君の言う通りだ。――恋人がいた。一カ月前に別れたけどね」
「それが、ここを離れる理由?」
「……数ある理由の内の一つであることは認めるよ」
「そもそも、君自身の工房が、ここではなくて外に用意してあるんだよね。ご近所迷惑を考えないで済むような場所に」
「……」
なるほどホームズが常人とは付き合えないわけだ――と、ワトソンは思い知った。この分だと、本来のジョン・ワトソンも、決して普通の人間とは言い難い人物なのだろう。こんな変人に付き合うには、相当の胆力と精神力が要る。
すべてを暴かれても、平然と笑える心が。
ホームズは何食わぬ顔で立ち上がった。
「さぁ、行こうか。拠点を変えることには賛成だよ。僕の真価は情報収集の先にある。そして情報収集には、潜伏が重要だからね」
ワトソンは頭痛を堪えながら、バッグを持って立ち上がった。
家を出る直前、ホームズが少しだけ後ろを振り返って――すぐに、霊体化した。
ホームズが看破したとおり、ワトソンの工房は最初から別の場所にある。賎畿市の東を流れる満穂川の上流、三津楽寺の裏手に回り、竹林の中へ。
「かつての防空壕があるんだ。それが結構広くて、霊脈のすぐ近くだったものだから。土地ごと買い上げたんだ」
(「へぇ」)
興味ありません、と言う代わりに、ホームズは相槌を打った。
興味無さそうだね、と言う代わりに、ワトソンは黙って歩くことに決める。
人払いの結界が機能していた。していなくとも、元々人気は少ない場所だが。表側の寺も、今や住職不在の空き寺となっていて、そこらの老人が稀に掃除に来る程度である。その老人たちだって、裏側の竹林の方へは来ない。
おかげで、手入れなど一切されていない竹林は、鬱蒼としている。人の目線と夏の日差しを避けるにはもってこいだ。
竹の葉が風に揺すられ、さらさらと音を立てる。それ以外は一切が息を潜め、そのまま息絶えてしまったかのようだ。収穫されなかったタケノコが、立派な青竹になろうと、少ない日差し目指して背伸びをしていた。
防空壕の入り口は極端に狭い。奥は暗く、底知れなく、普通の人ならば覗き込んだ時点で、即座に取って返すだろう。恐怖心を煽るような仕掛けも当然施してある。
ワトソンはしゃがみ込んで、洞穴の中に入った。入ってすぐの急斜面を、半ば滑り落ちるようにして降りる。ここさえ越えれば、あとはなんということもない。誰でも普通に立って歩けるように、ワトソンが数カ月かけて改造に改造を重ねてきた。
外からは見えないように設置してあるカーテンを閉めると、勝手に灯りが点いた。
すると、中の全貌が分かる。
広さは二十畳ほどだろうか。床も天井もモルタルでしっかりと固められている。四方の角には、柱が立っているらしく、不自然に角張っていた。一方の壁には一面、棚が埋め込まれていて、その内の半分が書籍、残りの半分が魔術的な道具で埋められていた。理科室にあるような実験用の机もあり、そのすぐ上には換気扇が備え付けられている。ソファはベッドと兼用だ。部屋の隅にはミネラルウオーターのペットボトルが数本。最低限の冷暖房器具と調理器具。寝袋。保存食――閉塞感に堪えられるならば、数週間は充分潜伏できるだろう。
ホームズが霊体化を解く。
「立派じゃないか。ちょっとした“秘密基地”だね」
ワトソンは少しだけ恥ずかしくなって、咳払いをした。ずばりそれに憧れて、などとは言えなかったが、きっと見透かされているのだろう。
「これはすべて君が?」
「こんなところの改造、業者には頼めないよ」
「器用だね」
「DIYは嫌いじゃないんだ」
ワトソンはバッグを下ろすと、ポットに水を注いで電源を入れた。
「煙草、吸っても?」
「どうぞ」
ホームズは早速、ソファに寝そべり、パイプに火を入れた。そんな彼を横目に、ワトソンは換気扇のスイッチを入れる。
白い煙が天井に吸い込まれていく。
それを目で追っていたホームズが、独り言のように尋ねた。
「これ、地面が燃えてるようには見えないだろうね」
「フィルターをいくつも用意してある。僕も喫煙者だし、実験で出る煙はもっと酷いから」
「それならいい」
ぷかぷかと揺れる白い煙が、筋になって天井に消えていく。
あっという間にすぐに沸いたお湯を、ワトソンはマグカップに注いで、ティーパックを浮かべた。なんともなしに紐を引っ張りながら、好みの濃さになるのを待つ。
「聖杯に何を望む?」
ホームズの問いかけはあまりに唐突だった。
咄嗟に手を止めてしまっていたことに、ホームズに向けた目を逸らしてから気が付いた。取り繕うように、ことさらゆっくり、紐を引く。
少しずつ、お湯が染まっていく。
「……お得意の推理で、当ててご覧よ、ホームズ」
「いいのかい?」
「どうぞ」
そう言うと、ホームズは少し迷うような素振りを見せながら、口を開いた。
「まだ情報が出揃っていないから、ただの仮説にすぎないと思って聞いてくれ。――君の望みには、一カ月前に別れたという恋人が関わっている――ここまでは、いいかな」
「……正解」
「では、続けよう。君の首にかかっているペンダント。指輪にチェーンを通しただけの即席の物だ。そして指輪は、サイズやデザインから、明らかに女性もの――同じデザインのサイズ違いを、君が身に着けていることから、君たちは婚約していたことが分かる。ではなぜ、それを身に着けているのか? 未練があって、という理由も当然考えられる。そうすれば、家に残された彼女の物が、ほとんど処分されていなかったこととも、辻褄が合う――だが、そう考えると、一つ疑問が残る」
「疑問?」
「“なぜ彼女は何一つとして持ち去らなかったか”ということだ。――君の家に残されていた彼女の物は、あまりに多すぎた。突然女性が着の身着のままで転がり込んできても、そのまま普通に生活を始められるくらいにね。いくらなんでも、手持ちの物をすべて置き去りに逃げた、という状況は考えにくい。それほど怒らせたというのなら、話は別だけれど……怒らせた?」
「いや……喧嘩はよくしたけれど」
「だろうね。おおらかな彼女と、神経質な君では、衝突が絶えなかっただろう。彼女は煙草も嫌っていたみたいだし――あぁ、これは、家の中に灰皿が一つも無かったからだ。二階のベランダには、吸い殻の入った空き缶が転がっていた。吸おうとする度に、そっちに追いやられていたんだろう? その上、消臭剤の買い置きが随分とたくさんあったから。――ああ、だが、同棲生活自体は悪くはなかった。適度な喧嘩は円満の秘訣と言うしね。だが、現実に彼女はもういない。――考えられるのは、失踪か死亡。可能性としては、死亡の方が高いと睨んでいる。それなら、君が家の掃除をする気を失っていることにも、全身真っ黒の服でいることにも、説明が付くからね。どうだろう?」
ワトソンは胸元を押さえ、重々しく溜め息をついた。
「その通り。彼女は一カ月前に亡くなった。……後を追うことすら考えたよ」
「そしてそれをやめたのは、聖杯戦争のことを知ったから。――だが、君が聖杯に掛ける望みは、蘇生ではない。それなら、ジャック・ザ・リッパーより、もっと相応しい英霊を呼ぼうとしたはずだ。聖杯だけでなく、あらゆる可能性を確かめるために。自分が生き返った、誰かを蘇生させた、その他不死にまつわる英霊は五万といる。そこであえてジャック・ザ・リッパーを選んだのは――……彼女が、殺されたからか」
「っ……」
「つまり、望みは、復讐――」
「……さすがは、世界に名だたる名探偵だ。隠せないね……」
ワトソンは鳥肌の立った腕をさすりながら、弱々しい笑みを浮かべた。話に夢中になったあまり、すっかり濃くなってしまった紅茶を、一口だけ飲み込む。
「それじゃあ、ホームズ。君は、何を望むんだ?」
ホームズはその透明な眼差しで、決して自分と目を合わせようとしない男を真っ直ぐに見据えた。
そして、不敵に微笑む。
「――それはまだ、話すべき時じゃない」