模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research   作:井ノ下功

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バーサーカー 1

 

 遠藤晶は布団の中で丸くなって震えていた。

 

「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ、こんなの……絶対に嘘だ、夢だ……そうだ夢に決まってる、夢じゃなきゃなんなんだよ……」

 

 つい先程見た光景が、脳裏から離れない。

 

「……スマホから虎が出てくるなんて……あり得ない!」

 

 ――彼が、虎を呼びだしたマスターである。マスターとかサーヴァントとか、そういう類のことはまったく理解していない。彼はただの男子高校生で、毎日家に引きこもっていた。今宵に限って、暇が長じて、いつもなら相手にしないダイレクトメッセージにふと興味を引かれてしまっただけである。最近妙な寒気を感じることがあって、風邪でも引いたのかもしれないと、少し弱気になっていたのも原因だろう。霊感があるという自覚はあったし、魔術の素養は持ち合わせていたかもしれない――が、それだけ。ただの一般人である。

 ダイレクトメッセージには召喚の呪文が書かれていた。前置きも説明も何も無い。ただ無機質に、召喚に使う言葉だけが並んでいた。晶はそれを、ただ読んだだけである。声にも出していない。目で追って、次に画像――それは魔法陣の画像だった――を開いて――その瞬間、突然海の底に沈められたかのように全身が重くなり、右手に痛みが走った。そこに痣のような模様を見たが早いか、スマホの中、正確には、液晶に表示された魔法陣の中から、虎が飛び出してきたのだ。

 六組目の参戦者の成立である。

 なんて一休さんだ、と晶は混乱した頭でそう思った。一休さんだって本当に虎と戦ったわけじゃないというのに。一休さんは出てくる前に対処したのだ。実際に出てきてしまったら、いかな一休さんとて手も足も出なかったに違いない――などと一気に頭が回転したのは、生命の危機を感じながらもどうしたらいいのか分からず、そもそもスマホから虎が出てきた、ということを飲み込めていなかったからだろう。命を守るために急発進した脳味噌が、現実逃避のために全力疾走した形だ。

 

「グルルルゥゥ……ガウッ!」

「わあああああ!」

 

 虎が目の前で吠えた。思わず椅子から落ちて、床に尻餅をつく。虎が鼻を寄せてくる。鋭く大きな牙が、鼻先を掠める。虎の熱い息が何度も顔にかかる。

 

(えぇ……何これ……嘘だ、俺、死んだ……?)

 

 その時。

 ぞくり、と寒気を感じた。

 目の前にある死の気配とは違う。このところ何度も感じているものだ。体内の液体を無理やり動かされたような――内臓をぐ、と押さえ込まれたような――だいたい一、二秒で収まるからいいようなもので、これが数十秒も続くようなら、所構わず吐き散らしているに違いない。

 

(……近い……?)

 

 直感的にそう思った。今まで感じてきた寒気より、少しだけ強かったような感じがしたのだ。

 

「ゥゥウウウウウゥゥ……ガァァァァアアアアッ!」

「っ!」

 

 虎の唸り。ガッシャン、と、窓の割れる音。

 振り返ると、部屋の窓が大破して、虎が外に飛び出していた。そして、空中に向かって二度、三度鼻をうごめかせたと思ったら、一目散にどこかへと駆け出した。

 虎の背中はあっという間に見えなくなった。

 

「……はっ」

 

 その様をぼーっと見ていた晶は、はためくカーテンに頬を叩かれ、はたと我に返った。

 窓どころかその周辺の壁まで破壊されている。風圧のせいか、机の上にあった物のほとんどが床に落ちて散乱していた。開きっ放しのノートパソコンは、画面に亀裂が入っている。

 

「……」

 

 現実を受け止めきれない晶は、のろのろとベッドに向かって、倒れ込み――冒頭に戻る。

 

 

 

 ひとしきり喚くと、少しだけ気が楽になった。

 

(――……落ち着け。そうだ、落ち着け。こんなのは絶対に夢なんだ。寝て起きたら、全部元通りになってるはず……っ、うっ)

 

 不意に、ドクン、と心臓が跳ねた。

 そして唐突に、灼けつくような痛みが全身を走る。

 

「うあっ……あ、あああああっ、ああああああああっっっ!」

 

 熱したワイヤーを血管に通されているような痛み。指先を一ミリ、首の角度を一度、ほんの少し動かすだけでその部分が焼け落ち焦げ腐り断ち切られ磨り潰され溶かされ剥がされ爛れるような激痛が走る。だというのに、その痛みは彼がじっとしていることを許さない。痛みに悶えて身じろげばまた痛み――その痛みにまた背をベッドにこすりつけては更に痛み――

 

 そんなことを繰り返して、どれほど経っただろうか。

 収まった時にはもう息も絶え絶えで、意識は朦朧とし、目の前は霞んで今にもブラックアウトしそうであった。むしろ意識が残っていたことが奇跡的である。

 胃液の酸っぱい臭いが鼻についた。昼から何も食べていなかったのが幸い――これを幸いと言っていいものかは不明だが――して、吐しゃ物に顔をうずめる羽目は避けられたようだが。

 唇の端から糸を引く胃液を、布団の隅で拭って、晶はふらふらと起き上がった。

 そして、

 

「っ!」

 

 自分の真横に座っている虎を見て、大きく飛び退き、壁に頭を強かに打ち付けた。

 

「~~~~~っ、ぃ、あ、うぅ……」

『――やはり、我が身はあさましかろう。君に畏怖嫌厭の情を起こさせるつもりはなかったのだ。許せ、我が故人(とも)袁傪(えんさん)よ』

「……は?」

 

 恐る恐る目を開けると、虎は大人しくこうべを垂れ、毛づくろいのようなことをしている。よくよく見れば、その大きな肢体のあちこちに、切り傷と思しき跡があり、そのほとんどが塞がっておらず、点々と床に染みを作っていた。

 

(おれ)はまだ人間か? もはや虎でしかないか? ああ、徐々に己の内から己が消えていくのが分かる……――だが、袁傪、君が、この己を、このあさましき姿に成り果てた己を、受け容れてくれたことに、己は何よりのしあわせを感じるのだよ。すまない、すまない我が故人よ、袁傪よ。君は、君の職を捨ててまで己のために――己はもはや人間には戻れまい。けれどもし奇跡があると、その奇跡を君が求めると言うならば、ああ、己は君のために、己が人間であることを捨てても構わぬ――』

 

 その時、虎の髭がぴりりと震えた。喉の奥を獰猛に鳴らしながら、彼はゆっくりと立ち上がった。長い尻尾で床を何度も打ち鳴らし、壊れた窓の外を睨む。

 

『下がれ、故人よ――外ツ国の官吏だ――君を巻き込むわけにはいかぬ――』

 

 裂けた脇腹から血が滴り落ちて、ぼたぼたと重たい音を鳴らした。

 晶は少しずつ事態を理解していた。元々、頭の回転は遅くないのだ――ただ誤った方向に空回りしがちというだけで。これは夢ではない、現実だ。そのことを理性抜きに実感した今、脳味噌は正しい方向に回った。

 

(えんさん――虎――……もしかして、コイツは……――)

 

 中島敦『山月記』――例のダイレクトメッセージを開く直前に読んでいたのは、そんなタイトルの短編で、確か人間が虎になってしまう話ではなかったか――。

 

「グルゥゥルォォオオオオオオオオッッッ!」

 

 虎が大喝し、窓に向かって突進した。その直前、窓に人影が見えたような気がして、晶は慌てて窓際に駆け寄った。

 窓の下。さして広くもない道路の上で、虎が誰かに襲い掛かっている。けれどその誰かは、明らかに人間の姿でありながら、虎の猛攻を往なしていた。――などと、呑気に観戦できたのも束の間。

 

「うっ……あ、ぐぅ……」

 

 再び、先程の痛みが蘇ってきた。心臓を押さえつけ、床にうずくまる。呼吸も覚束ない。吸っているはずなのに空気が入ってこない。吐いているはずなのに出ていかない。苦しい、苦しい苦しい苦しい苦苦苦苦苦苦苦苦――っ!

 

「なに、すぐに楽になるとも」

 

 苦しみの外から降ってきたのは、流暢なフランス語だった。紗が掛けられた視界の端に、革靴が映った。誰かいる――

 

「《―――――》」

 

 有り余る時間に任せて多言語を学びつくした晶にも、分からない言葉が聞こえた。これはもしや、死神の言葉だろうか――ぞくり、と悪寒が走る。これまでに感じてきた寒気と同質の、しかし少しだけ違う、死の気配。

 

「《――》っ、何っ?」

 

 驚愕の声で死神の言葉が途切れて、視界の中を革靴が縦横に跳ね回る。それから、怒声。怒声、怒声――声が徐々に薄れていって、それと同時に痛みが和らいでいき――今度こそ、晶は意識を失った。

 

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