ユリージア大陸北西部。そこにはヘルディロと呼ばれる国があった。大陸内五つの国の中で三番目に大きく、人口も多い国だ。
世界の中でも裕福な国であるヘルディロだが、それでもやはり、個人の間には貧富の差があった。
ヘルディロで最も貧しいとされている辺境の村ニギロでは、今日も朝早くから農作に勤しむ者が多い。
村での暮らしにうんざりとした多くの若者は、既に金のなる仕事を探しに首都ブリアンテスに越している。
現在村に残っているのは、貧しくても今の暮らしが気に入っている若者か、都会へ行っても仕事の当てなどない年配の者たちだ。
それ故か、村の雰囲気はとても和やかであった。皆が皆、友人あるいは家族のように仲良くし、協力し合うことで暮らしていた。
そんなニギロに暮らす者たちの中に、合計年齢最年少の家族がいた。少女一人と少年一人の家族だ。少女の方は幼い見かけの反面、もうすぐ二十になる。少年の方は、生まれてまだ六年しか経っていなかった。
その彼らが住む木造二階建ての家。その二階の寝室で、朝になってから大分経っているにも関わらず未だ寝ている者がいる。名はエイネ=ヴェゲグ=ヌング。一応は現在の家主である少女だ。
エイネは非常に朝に弱く、現在日が昇り切るまで二時間という時間であるにも関わらず、まだ起きていない。昨晩は遅くまで本を読み聞かせていたのもあってかよく眠っている。
そんな彼女を起こさんと寝室へ急いでいるのが、もう一人の住人のソラであった。
「エイネ! 朝だよー!」
扉を勢いよく開け、ソラはエイネの腹部目掛け飛び込んだ。
直後「ぐえっ」という情けない悲鳴がエイネの口から漏れ出る。
「ほらほら、朝だよー。もう村の皆も起きてるよー」
お構いなしにソラは甘える猫の如く腹の上を、左へ……右へと転がる。
腹に与えた衝撃とその鬱陶しさからエイネは顔を顰めている。眠そうに呻いている辺りまだ寝ていたいのだろう。その証拠に。
「もうちょっと寝させて……あと少し……」
などと言っている始末だ。
「もぉ~! おーきーろー!」
未だに寝ようとするエイネに、馬乗りになってこれでもかと頬を引っ張るソラ。対する当人は全くの無反応でされるがままだ。挙句寝息まで立て始めた。
「エイネってば!」
今度はぺちぺちと頬を軽く叩いた。
しかし起きない。一体どれだけ眠れば気が済むのか疑問である。
「今日は一緒にピクニックに行く約束だったじゃん!」
「ん~? ピクニックぅ?」
ソラの言葉に反応し、エイネは微かに目を開けた。
(そんな約束したっけかな?)
エイネは眠ったままの頭を捻り、そして思い出した。
そう、昨日の晩御飯の際、お弁当を作り、二人で近場にある草原に行こうと話していたのである。
「楽しみにしてたのに……」
ソラの顔が、暗く、今にも泣きそうな表情に変わった。
するとエイネは馬乗りになっているソラの体を、無理矢理自分の隣に寝かせた。そして抱き締めて、頭を優しく撫でる。
「そうだった。ごめんね、ソラ」
「もう。いっつも遅いんだもん」
口を尖らせるソラ。しかしその頬は赤く染まっている。
暫しの間、頭を撫でる時間は続いた。
「さてと! じゃあ起きよっか」
エイネはそう言ってソラを離すと、大きく伸びをしながら起き上がる。僅かに残った気怠さもこうすることで抜けていく。
「あの、エイネ。服が……」
「ん?」
ふとソラが少し顔を反らした。
というのも寝相からかエイネの服がはだけていたのだ。エイネの白く透き通った肌と胸が露わになっている。
「あちゃあ、ボタンが千切れてる。後で縫っとかないと」
特に気にすることなくそう言うと、エイネは寝巻を脱ぎ捨てた。ついでに下も脱ぎ、肌着一枚の状態になった。
「ん? どうしたの?」
そこで漸くソラの異変に気づき、エイネは首を傾げた。顔を真っ赤にして萎縮している姿が、彼女の目には不思議に映っていた。
エイネの体の節々には幾つもの傷が残っている。どれも痛々しい物で、一緒に風呂に入るときはソラも決まって目を反らしていた。
だが今回はそれとは違う。彼も一人の男の子。その上多くの本を読んでいる。極めつけに今朝読んだ本の内容が、感受性豊かな少年に育った彼に今まさに、女性の肢体を眺めて例えようのない気分を味わわせていた。
「顔赤いわね。熱でもあるの?」
そんなことは露知らず。エイネは服も着ずにそのままソラの額に自分の額を当てた。
思わず生唾を飲み込むソラ。目のやり場を失い、これまで感じたことのない感覚に戸惑っていた。胸が騒がしく高鳴っている。
「え、えと、大丈夫! 先に下行ってるね!」
我慢出来ず慌てて退くと、ソラはそそくさと部屋から飛び出した。
「どうしたのかしら……?」
訳が分からず、一人取り残されたエイネは首を傾げる。
「まあ、いっか」
気にしても仕方ない。そう思い、エイネは身支度を始めた。
壁に沿って並べられた二つのタンス。その内左の物に、彼女の衣服が入っている。その中から紺色のワンピースを選ぶと、下着を着ることなくそのまま腕を通す。
次に鏡台の椅子に座り、所々寝癖で跳ねた髪を櫛で梳く。引き出しに仕舞われた白いリボンで、整った白銀の髪を、後頭部の高い位置で一纏めにした。
そして最後に彼女が手にしたのは、ベッド脇の小机に置かれた蒼色透明の結晶である。ペンダント状になっているこれを首から下げることで、粗方の身支度は終えた。
「これでよし、と」
独り呟くと、エイネは寝室を後にする。
彼女たちが住む家は二階建てだが大きくはない。部屋の数は大きく分けて四つ。寝室、風呂場、キッチンとダイニングと少ない。そのため二階から階段を降りるとすぐ、ダイニングに差し掛かる。ダイニングからはすぐ、外へと通じる玄関が目につく。余り大きな構造でないための一工夫である。
ダイニングでは、ソラが足をブラブラと振りながら椅子の上に座って待っていた。テーブルには、朝食の皿が並べられている。メニューはパン、ベーコンエッグ、スープ、サラダという簡単な物だが、これら全てソラ一人で作った物である。何分朝に弱いエイネと一緒に暮らしていることから、簡単な料理を覚えざるを得なかったのだ。
エイネは料理の品々を眺めて、微笑んだ。″自分のために作ってくれた″というのが嬉しいのである。
「ほら、早くしないと日が暮れちゃうよ」
「もう、分かってる」
頬を膨らませるソラに対してエイネは笑う。
ソラの向かいに座ると、エイネは早速食事を始めた。誰でも作れる簡単な物であるというのに、ソラが作ってくれたと考えるだけで口の中一杯に旨みが広がっていく。
「うん美味しいよ。ソラ、ありがとうね」
「あ、うん。良かった」
落ち着いているとは言え、今日のソラはエイネの事を変に意識していた。食べる仕草から何まで、普段目にするものが特別なものに見えた。
「あ、そうだ。ソラ」
そんな時ふと、エイネが食事の手を止めた。
「ん? どうしたの?」
何かあったのかと、ソラは首を傾げる。
するとエイネは、満面の笑顔で。
「おはよう」
と言った。
エイネの言葉とその表情に思わず面食らうソラ。暫しその笑顔に見惚れ、だがすぐに。
「うん、おはよう。エイネ!」
と、負けないほどに眩しい笑顔を返すのであった。
◇
エイネの朝食が終わり、二人はピクニックへ行くための準備をしていた。エイネはお昼に食べる物を、ソラは必要な物をそれぞれ用意していた。
パンに具材を挟みながら鼻歌を歌うエイネ。ソラとピクニックというのが楽しみで、嬉しくて堪らない様子だ。もっと早くに起きれば良かったという後悔の念も混じってはいるが。
「エイネ、これでいいかな?」
バスケットを手に、ソラが顔を覗く。
「うん、それでいいわよ」
「敷物の色は?」
「んー、白いやつでいいんじゃない?」
「えー、汚れないかな?」
「汚れたらちゃんと洗うわよ」
会話を交わしながら、エイネはテキパキと手を動かして料理を箱の中に詰めていく。その色とりどりの食べ物を見て、見かけに寄らず食いしん坊のソラは唾を飲み込んだ。
「これでよし!」
蓋を閉め、布で箱を包むと、エイネは手を叩いて言った。
「あとは……あそうだ。ソラ、飲み物は何がいい?」
「リンゴのジュースがいい!」
「リンゴかぁ……」
ソラの要望に、エイネは腕を組み考える。今は丁度リンゴを切らしている。かと言って村にはすぐ買い物できる場所があるわけでもない。
「んー、というか」
よくよく見渡してみると今は果物類が何もなかった。これでは他のジュースを作ろうにもそもそも材料がない。
(明日は買い物に行かないと……かな)
苦笑して、エイネはソラの方を見た。先ほどまで出発の準備をしていた彼はしゃがんで何かをしている。何をしているのかは机に遮られていて見えない。
まさか。そう思い覗き込んでエイネはギョッとした。ソラはなんと猫を抱き、撫でていたのである。
「ちょ、ソラ。あなたどこから」
聞かずとも答えは知っている。この村に猫がいて、ソラが行く場所と言えば一つしかない。そこの猫を一匹連れてきたのだろう。
「あ、見つかっちゃった」
「見つかっちゃった。じゃないわよ。ダメでしょ連れてきたら」
「だって可愛いし」
ソラの返答にエイネは額に手を当てて嘆息する。
ベル婦人は二人が最もお世話になっている人物だ。ソラのことをこれでもかと可愛がり、同時にエイネのこともまるで妹を見るように接している。そんなベル婦人は大の猫好きとしても有名だった。
「あのねぇ……うちでは猫飼えないって言ってるじゃない」
「知ってるよ? だからこうして、たまに遊んでるんだよ?」
叱りつけを意に介さずソラは抱き上げた猫の右手を上げたり、左手を上げたりして遊んでいる。その表情は実に楽しそうだ。
エイネは呆れたように肩を竦めた。これが初めてというわけでもなく、別段問題があるわけでもない。ないのだが。
(最近、どうも私の言うこと聞かなくなったのよねぇ)
エイネは少しばかり頭が痛かった。
「あ、そう言えば昨日ベルさんのお家でリンゴジュース、ごちそうになったよ?」
「あら、そうなの? それ早く言ってよ。あとでお礼言わないと」
「うん、だからさ。分けてもらおうよ? リンゴ無いんでしょ?」
「いや、そうだけど。さすがにそれはベルさんに悪いわよ」
「全っ然っ! 問題ないわよエイネちゃん!」
突如背後から聞こえた声に、エイネは「うおお!?」と体を跳ねさせて驚く。
振り向いてみると、件のベル婦人その人がニコニコと満面の笑顔で立っていた。
「おはようエイネちゃん!」
そして物凄く元気だ。
「お、おはようございますベルさん。一体いつからそこに?」
「あなたがうん、それでいいわよって、バスケットを持ったソラちゃんに返事した時からよ」
「それってほとんど最初からってことじゃないですか」
エイネは途端に頭を抱えたくなった。
そしてソラが猫を連れてきたわけではないということも理解した。
ベル婦人は魔法にも長けている人物だ。彼女がその気になれば、気配遮断と透明化の魔法を扱って簡単に姿を晦ますことも出来るに違いない。
しかし。しかしだ。魔法をとてもじゃないがこう、あまりにもどうでもいいことに使うのは果たして良いのだろうか。心配になった。本人からすればどうでもいいことではないのかもしれないが。
「いつも言ってるじゃないですか。何も言わずにこそこそと入ってこないで下さいって」
「仕方ないじゃない。楽しいんだもの」
唇に手を当て、片目を閉じた仕草をする婦人。その様子は子供のようだが、容貌が故に艶やかさがある。
本当に自由な人だな。そうエイネは感服し、苦笑した。
「それでね? リンゴのジュースだけど、全然いいわよぉ?」
まるで酒を飲み酔っぱらっているかのような口調で婦人が言う。
「でもせっかくお作りになったんですから、ご自分で飲んだ方が」
「それこそ、私が作ったんだから私がどうするかを決めるのは勝手じゃない? それに、ソラちゃんが好きだからってことで作ったんだから、ソラちゃんのためになるのなら大歓迎よ!」
そう言って婦人は親指を立ててエイネの顔に近づけた。
「は、はぁ……それならお言葉に甘えても? というか……」
ふと、あることに気づいた。
家の中が猫で一杯になっていた。
「あの、この子たちはいつの間に入ってきてたんですか?」
「もちろん、最初からよ」
エイネは大きなため息を漏らした。
彼女が家の中にやたら猫を入れたがらないのは、床に彼らの毛が落ちるからだ。綺麗好きの彼女にとっては、家の中を汚す猫は天敵のようなものなのだ。それに。
「痛っ!?」
エイネは何故かベル婦人の飼っている猫に悉く嫌われていた。会う度に引っかき傷を付けられるのは、あまり心地の良いものではない。
「あらやだ。ごめんなさいね、エイネちゃん。この子たちどうもあなたを敵視してるみたい」
「どうしてですかね? 私、何もしてないのに」
婦人と話している間も、幾度か足を引っかかれているエイネ。その度に彼女の表情が一瞬痛みに歪む。猫は別に嫌いじゃなく、むしろ好きな方な彼女だが、ここまで嫌われているとなると少し近寄りがたかった。
「うーん、もしかしたらお姫様を取られると思っているのかしらねぇ」
「……お姫様?」
誰だろうと考える。そして答えに行きつき、エイネは当人の方に視線を向けた。
当人たるソラの周りには、これでもかと猫が集まっていた。皆、物欲しそうに各々の鳴き声を上げている。それに対するソラは、一匹一匹を抱えて撫でていた。撫でられている猫の表情はどれも幸せそのもので、元気よく尻尾をフリフリと振っている。
ちなみに婦人曰く、飼っている猫はみな雌。雌の猫がお姫様に集まるというのは、如何なものだろうか。正確には王子様だからむしろ自然なのかもしれないが。エイネは苦笑した。
「うーん、別にソラとは親子みたいな関係なだけなんだけどなぁ」
腕を組み、小首を傾げるエイネ。
それに対してベル婦人は「どうかしらねぇ」と小声で呟き笑った。
「と、それでどうするの?」
「ええと、じゃあ頂いてもいいですか?」
「はいはーい。じゃあ、家で待っているわ。みんな行くわよー」
婦人がそう掛け声すると、猫たちがみなソラから離れて家から出て行った。
初めてではないその不思議な光景を見るたびに、エイネは思う。本当に不思議な人だなと。飼い猫に懐かれるという当たり前の光景も、クリンベル=トン=リューゲという女性が絡むだけで、まるでその人が世界に愛されているかのような錯覚がある。
そしてそれは、エイネが我が子のように育て、共に暮らしているソラにも言えた。
「ねぇ、ソラ?」
「んー?」
「その抱えている茶色い猫を離してあげなさい」
「はーい」
エイネの言葉に従い、ソラは抱えていた猫を地面に下ろした。「またね」と彼が手を振ると、猫は一鳴きして家を去っていく。
そんな幾度と見ている光景に、エイネは毎度不思議なものを感じていた。
◇
ピクニックのための支度を早々に済ませると、エイネとソラはベル婦人の住む家に足を運んでいた。彼女の家は村の中央にあり、その外見はまるで貴族の住む屋敷のように大きい。というのもここは村の住人が何か大事な会議をする際にも使われているからなのだが、それにしたって一人で住むには少し大きすぎるようにも思える。
屋敷の前に佇む門を開き、庭の中に入っていく。庭では多くの花が植えられており、とても華やかである。
「そう言えばソラが見つけた花畑ってこんな感じなの?」
婦人の持つ花畑を眺めながら、エイネはぽつりと聞いた。
「ううん。もっとすごいの! 野原一面にいろんな色の花が沢山あってね! もうすっごく綺麗なの!」
満面に花を咲かせたような輝いた瞳でソラは手を大きく広げてその凄さを表現する。
ここにある景色だけでも十分綺麗で凄いのだが、それを越えるとなると一体どんな光景なのだろうか。エイネはこれから向かう場所に少し胸を躍らせた。
「ごめんくださーい!」
エイネは屋敷の大きな扉を少し開け、空いた隙間から顔を覗かせると大声で呼んだ。
「あれ?」
いつもならすぐに返事があるのだが、今回は珍しく声が聞こえて来ない。まだ戻ってきていないのだろうか。
エイネはもう一度大きな声で「ごめんくださーい!」と叫んだ。
「はいはーい!」
次は返事が聞こえてきた。
安心すると、エイネは扉を開いて屋敷の中に入った。ソラもあとに続き、屋敷内に入っていく。
屋敷内は豪華な壺や綺麗な絵画が飾られていた。その雰囲気は素晴らしいが、貧しい村の中にあるにはあまりに相応しくないもので、浮いている。
だがそれに反し、ここは村の住人が少しの休憩の場としてよく訪れていた。皆、ベル婦人の人柄に心底惚れていた。客人が毎日のように訪れているのもそのためだ。エイネもソラも、そのうちの一人であった。
「ごめんなさいね、帰ったら村長さんが来ていて」
苦笑しながら、玄関から入ってすぐのところにある階段から婦人が下りてきた。
その後ろにはニギロ村の長であるヘンリー=ニギル=ベケッツがいる。丸くなった背中と、白く長いひげが特徴的な老人で、村人からは厚い信頼を得ている。
彼の名前にあるニギルは、代々ニギロ村の村長を引き継いでる証でもある。
そんな彼はエイネの姿を見るなり笑って挨拶した。
「おやエイネちゃん。おはよう」
「おはようございます、ヘンリーさん」
軽く会釈すると、エイネも笑う。
「さて、わしは話すことも話したから、お暇するかの」
一体何を話していたのか。エイネは少し興味があったが、どうせ二人の談笑だろうということで何も聞かないことにした。
「そうじゃエイネちゃん。道中気を付けるのじゃぞ? まあ森の中はソラちゃんの友達だらけじゃから問題はないと思うが」
「はい、ありがとうございます」
エイネはもう一度帰っていく村長に会釈すると、婦人の方に向き直った。
「そうそう、リンゴのジュースね。待ってて、今持ってくるから」
慌てたように言うと婦人はキッチンへと駆けて行った。
残された二人はそれとなく顔を見合わせる。特に理由はなく、お互いたまたま顔を伺っただけだった。
「どうかした?」
「えっ? ううん、なんでもないよ」
少し頬を赤くしてソラが顔を反らす。その際エイネの手を取り、そっと握った。
エイネもそれに微笑むと、握り返した。
「お待たせ―! あら? あらあらあら?」
帰ってきた婦人が突然、目を丸くした。
一体どうしたと言うのだろうか。エイネは首を傾げる。
「あの、どうかしましたか?」
いつまでも凝視しているのに耐えかねて、エイネは聞いてみた。すると婦人は満面の笑顔で、くすくすと笑い始めた。エイネはますます以て、わけがわからなくなる。
「んー? そうしてるとなんだか恋人同士みたいねって」
「はい?」
恋人? 親子ではなく? そんなことを思ったエイネは目を丸くしてソラの方を見る。
(ソラが私の恋人? いやいや、でもこの子に対してそんな気は……)
とは考えてみたものの、実際の親子ではないことを鑑みれば恋人の方が正しいのだろうか。そう意識した途端、エイネは少し恥ずかしくなった。
「いやいや、私たちはそういう関係じゃ」
というか、何故今そんなことを言うのだろうか。手を繋ぐなど今に始まったことではないだろうに。エイネは疑問に思いながらそう返す。
「あらそう? でもソラくんはどう思ってるのかしらね」
言われてエイネはソラの方を見る。すると俯くソラの顔が、耳まで真っ赤になっているのに気がついた。
(ええと? これはどういう反応かしら?)
「もしかしてベルさん、私が寝ている間にソラに変なこと言いました?」
「さあ? どうかしらねぇ?」
図星だ。瞬時に理解すると、エイネは少し頭を抱えたくなった。一体ソラは何を言われたというのだろうか、甚だ疑問である。
「エイネはその……ボクのすごく大切な人、だよ?」
意表を突く言葉に、エイネは赤面してソラを見つめた。当人はまだ顔を赤くしたまま俯いている。繋いだ手の力が、少し強まった。
(やだ、ちょっとその仕草すごく可愛いんだけど!)
エイネは思わず抱きしめたい衝動に駆られてしまう。今は婦人の目もあるためしないが、もしこの場が二人だけの空間だったならば、迷わず行動に出ていたことだろう。それだけの衝撃が、ソラのひとつひとつの動作にあった。
「あら、良かったわねぇ? エイネちゃん」
「か、からかわないで下さい」
「からかってないわよ? 実際見た所嬉しそうだし。っと、そろそろ出ないと、日が暮れちゃうわ」
話をはぐらかされムッとするエイネであったが、指摘自体は何も間違っていない。嬉しそうという点も、そろそろ出なければという点も、どちらも的を射ている。
「はいこれ。仲良く口移ししてねぇ?」
「ベルさん、やっぱり酔ってます?」
「ええ、酔ってます。二人の可愛さに酔っぱらってますぅ」
「ああ、もういいです。行こう? ソラ」
エイネは呆れ返り、飲み物の入った瓶を受け取ってソラの手を引いた。その背中を婦人は手を振って見送る。その表情は満開の花そのものだ。
「またね、ソラちゃん。ちゃんとエイネちゃんのことエスコートするのよ?」
「気にしなくていいからね、ソラ」
「ううん、エスコート……する」
「えっ? あ、うん、そう?」
なんだろう、少し居心地の悪い雰囲気になった。そう心底から嘆くエイネであった。
婦人の視界から二人が次第に遠ざかっていく。その背中は本当の親子のようで、婦人は微笑ましく感じている。
その時彼女の脳裏に浮かんだのは、ソラが生まれる前に見た光景だった。ソラの実の母親と、まだ一緒に過ごして間もないエイネが、偽りのない母と娘のように暮らしていたのを。エイネとソラの背中は、まさにそれと重なった。
「あれからもう、六年が経つのね」
ソラの母親がこの村を出て行ってから、もうそれだけの年月が流れていた。そのことに感慨深さを感じ、婦人はホッと息を吐く。
そんな婦人の隣には、自宅へ戻ったはずの村長が立っていた。彼もまた、まだまだ幼い二人の背中を眺めている。
「大きくなったものでしょ?」
一体誰に物を言っているのか、婦人は微笑んだ。
婦人はソラの母親・ヴェルティナと親友のように仲が良かった。魔法を学び、知る者として二人は切磋琢磨した。
だが二人の力量や技量の差は歴然としていた。ヴェルティナは文字通りの天才だったのだ。魔力の強さも然ることながら、新たな魔法を覚えるのも早く、また彼女オリジナルの魔法まで作ってしまうほどだった。
それでも婦人は、妬むことなくヴェルティナに接した。婦人にとって彼女は目標であり、憧れの存在だった。
「それで、いつまでその姿でいるつもりなのかしら? ヴェルティナ」
ベル婦人はくすりと笑うと、隣に立つ村長を見据えた。
当人は何事かと恍けるように首を傾げるが、婦人の笑顔に観念したのか溜息を漏らした。
直後、村長の体が淡い光に包まれた。丸くなっていた背中がすっと伸び、長い髭は無くなり、短かった白髪は長く見事なまでに鮮やかな銀髪に変貌していく。そして光が収まり現れたのは、一人の美しい女性だった。
「ふふふ、やっぱりその姿が一番よ。ヴェルティナ」
婦人の言葉に女性は呆れたように項垂れる。
ヴェルティナ=ゲフォルクス=ヴィルレ。ソラの生みの親たる女性だ。整った目鼻、潤った唇、艶やかで梳くような銀髪、まるで人形技師にでも作らせたような洗練された体。彼女の全てが、まさに最高の〝美〟その物のようである。その美しさ、百の男性が目にすれば、例え愛する者がいようとも虜になってしまうことだろう。
「ベル……どうしてあなたはいつもいつも」
「だっていつ見てもすごく綺麗なんだもの。それなのに老人の姿、しかも男の姿だなんて勿体ないわ」
「だからってねぇ」
「そんなこと言うなら、魔法解かなければ良かったじゃない」
この期に及んでそれを言うかと、ヴェルティナは頭を抱えた。というのも、もし魔法を解かなければこの婦人、村人に言いふらし兼ねない目をしていたからである。今の彼女は身を潜めているのだから、なんとしても避けるべき事態であった。
「ふふふ、で、どう? 成長したあの子の姿は」
「……まだ小さいわね」
「それでも流石はあなたの子よ。あの年じゃ読むことさえおぼつかない子供も多いのに、あの子はもう大人が読むような物でさえ手に取ってるもの。しかもそれを理解までしてる。普通の子よりも成長が早いわ」
「……そう」
「あまり嬉しくないって顔ね」
ヴェルティナは奥歯を噛み締め、地面を睨んだ。強く握られた手のひらからは、爪が食い込み血が滲んでいる。
「あなたの気持ちは分かるわ。でも仕方ないのよ。あなたの子供として生まれた以上は」
「分かってる……分かってるわよ……」
「それに、あなたが今日ここに来たってことは――」
「ええ、動こうとしているわ。運命が」
ヴェルティナは前の道を見据える。先ほどまであった小さな背中は、もう見えなくなっている。その時の彼女の表情は、悔しさと悲しさに歪んでいた。
それを眺めていたベル婦人も、同様に沈んだ表情を浮かべる。
「一体あの子は、どんな答えを出すのかしらね」
婦人の問いかけに、ヴェルティナは答えない。代わりに婦人に、背を向けて一歩進んだ。
「本当に、どうしてあなたが選ばれたのかしらね。何千、何万といる人の中から」
「ベル……あの子のことお願いね。一応言っておくけど、私のことは黙っておいて」
「あなたは一体、いつまで逃げているつもりなのかしら?」
「いつまでもよ。いずれ来る日に、あの子が私の前に現れるまで……ずっと……」
それだけ言い残すと、ヴェルティナは霧のように姿を消した。辺りにはもう彼女の姿はない。気配すら、無い。
婦人は消えたヴェルティナに向けて、ただ一言だけ呟いた。
「ホント、馬鹿ね」
その一言は誰かに届くわけでもなく、青い空に消えた。